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未唯空間が全域設計書になります

未唯へ

 何となく、方向が決まらない。考えないですね。

 10月に向けて、ウエスト回りを減らす活動をします。間食をしない。

コミュニティに企業の参画

 ソニーの1億人の情報を持ち、Facebookは6億人です。企業と組まないといけない。

次期ネットの進め方

 ネットワークの進め方の未唯空間への反映が終わりました。ネットワークの最終目標は企業・行政・市民のコミュニティにつなげることです。そこまでは言い切れていない。あまりに、企業のインフラだけを先行させるのはまずいでしょう。

 どこかの偶然で、コミュニティとつなげることが要請されるはずです。それまでの準備をしておきます。その時は、市民が商品を買わなくなるときです。つまり、メーカーの危機です。

 シナリオとしては、作れなくなることも考えられます。お客様の要求レベルが下がり、中国商品で十分になるというケースです。

偶然をどう使っていくか

 「偶然」をどう使っていくか。今回の震災でも偶然で社会が変わりつつあります。原発問題も偶然で問題がハッキリして、将来のエネルギー構造も変わりました。

 日本の社会は理念的でないから、「偶然」で変えていくになります。「偶然」に対しては、色々な見方をする連中が出てきます。かれらにまともな問題意識をぶつけられるようにしていく。

未唯空間は全域設計書

 未唯空間は全域設計書になりそうです。ブログからの反映で行ってきた、未唯空間の変更を、未唯空間そのものをシナリオを再構成しています。

 言葉を含めて、全体で何が言いたいのかが見えるようになり、変更はブログのカタチで組み込むことができます。これは、日々の気付きも反映できる、新しい設計書になります。
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「国家的うつ病」は克服できる

日本人はまじめで実直だから、今回も必ず立ち直れる、という声もあるが、そこまで楽観的になることはできない。誰もが「まじめで実直」だったのは過去のことであり、近年は相当にたががゆるんでいたからだ。

しかしそれでも、海外メディアは、甚大な被害を受けながらも日本人が表面上はうろたえることもなく、節度を守りながら冷静に現実に対応している姿を、大きな驚きとして報道したとも言われる。まだ、そういう部分が私たちにも残っていたのだとしたら、それは非常に幸運であった。

前の章で、それが診断基準の変化や新薬の開発によるものかどうかは別として、大きな物語なき後の世界を席巻する心の病は、「うつ病」だという話をした。冒頭では、日本も「国家的うつ病」にかかっているのではないか、という私見を述べた。

今回のできごとにより、日本は否応なしに、漠然とした不安感、不全感に苛まれるこの「国家的うつ病」を克服することができるはずだ。「何のために生きているのか、わからない」という人にも、「生き残ったから、生きているのだ」という明確な答えが与えられた。誰もが、さらに生き延びるために、何かをしなければならなくなった。

ただ、これでメンタル面においての懸念事項がすべて消えたかというと、それもまた違 今回の惨事で、多くの人は心に深刻なダメージを受けた。たとえ直接、被災した人でなくても、テレビやネットでおびただしい映像や情報に触れ、誰もが未曾有の災害を疑似体験したはずである。最近の研究では、たとえメディアを介していても、強烈な報道映像を一定時間以上、見続けると、それは実体験と変わらぬトラウマとして、その人の心をむしばむことがわかっている。

だから、これからの日本におけるメンタルケアは、このトラウマケアに重点が置かれることになるだろう。

そして、トラウマを受けた場合、それが深刻な後遺症を残さないようにするために、初期の段階ですることは、とにかく休息である。カウンセリングなどはずっと後の話で、まずは安全な場所でからだをゆっくりさせて、十分に睡眠と食事を摂る。もちろんお風呂に入ったり軽くからだを動かすことも大切だ。このように初期の段階で、まず「何も考えずに休む」という〃手当て^がされれば、激烈な体験が尾を引いて長く心の重荷になることも少なくなるといわれる。

だとすると、日本の人たちは、あまり「さて、復興だ」「これからが新しい出発だ」と気負いすぎず、ゆっくりと再生への道のりを歩みだすのがよいような気がする。たとえ計画停電が早期に解消されることがあっても、あまり残業はせずに、夕方のうちに職場を出る。休日はテーマパークだ、セミナーだと刺激を求めすぎず、ゆっくり眠り、起きたら家のまわりを散歩する。

そんなリハビリ期間が、日本中の人たちにとって必要なはずだ。

もちろん、そうなると経済復興の歩みはのろのろと遅くなり、もしかするとタイミングを逸してしまう、などということもあるかもしれない。

しかし、先ほども言ったように、今こそ、「とにかく成長」「とにかく世界第二位」が日本経済の目的なのか、ということから、抜本的に考え直してみるべきときなのだ。

経済の世界では、これまで「成長」が絶対的な目標だとされてきたといわれる。

もしかすると私たちは、近代以降の世界ではじめて、経済活動が目指すべき、「成長」以外石目標を見つけ出すことができるのかもしれない。それこそが、「人間のための経済」だと言えるのではないだろうか。

本書は、これまでの何作かと同様、講談社現代新書編集部・岡部ひとみさんの力により、なんとか完成にこぎつけることができた。個人的なことだが、執筆途中で私の父親が亡くなり、ただでさえ遅い作業は一時、完全に凍結状態に入ってしまった。恥ずかしいことに長年、「親の死」を半ば神経症的に怖れていた私であるが、いざそれがやって来たときの痛手はやはりかなりのものであった。

そして、今回の大震災で、作業は再びの凍結に入ってしまった。そのあいだも適切な励ましとアドバイスを送り続けてくれた岡部さんには、感謝してもしきれない。

日本再生を、超後方から支援する。ヴィジョンもないままに場当たり的に生きている私にも、こんな目標ができた。これから何年、生きるのかわからないが、小石のような礎になりたいと考えている。
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希望を失わないために

『<不安な時代>の精神病理』より

日本では、デフレ不況の中で、その中で暮らす人たちのあり方、考え方も変わって行った。 かつて「日本人らしさ」と呼ばれた性質の多くが失われ、かといって、それにかわる新しい日本人像が生まれたわけでもない。個人と個人が何の関係もないまま、誰もが自分のことだけ、今のことだけを考えながら、狭い範囲で生きていかなければならなくなった。

「何のために生きているのかわからない」と焦点の定まらない気持ちの落ち込みを訴える若者、仕事となると憂うつで気力もなくなるのに、ボランティアやレジャーには積極的に参加できる「新型うつ」といわれる新しい病態のうつに陥る人が激増し、従来のうつ病も含めて「うつは国民病」などとも言われた。

いや、これはデフレや不況の結果ではなく、原因なのかもしれない。人が変わったからこそ、それが経済活動に影響を与え、かつて経済大国といわれた日本が今日のようなかげりを見せるようになった可能性もあるのだ。どちらが原因でどちらが結果か、その因果関係を問うことには意味はない。両者は、分かちがたく一体化して、互いに影響を与えつつ、ともに変化を遂げている、ということは、これまでいろいろな角度から説明してきた。

そして、変化は日本でばかり起きているわけではない。本書では、精神医学の世界を例に取りながら、そこで起きているドラスティックな変化についてややくわしく解説を行った。世界を覆い尽くす市場主義経済は、それじたい人の営みである精神医学や精神医療にも大きな影響を与えるのは当然かもしれないが、そこでもやはり、「市場主義経済」と「精神医療」、またそこでの治療の対象となっている「人間」について変化の端緒はどこにあり、どれがどれの原因であり結果なのか、証明するのはむずかしい。おそらくすべての変化は、渾然一体となりながら、同時に始まり、進行したのであろう。

こういったさまざまな問題の背景に共通してあるのは、経済のグローバル化だ。それは、「グローバル」とは言うものの、かつての冷戦時代のような「大きな物語」は生み出さない。インターネットによりフラット化された世界を、企業由来か個人由来なのかもわからないまま、実体のないマネーがかけ巡る。どこが中心でどこが辺縁なのか、どこが密でどこが疎なのか、その構造を語れる人はどこにもいない。

日本経済は、あるいは日本の社会は、デフレ不況の中でバラづフに解体されあるいは縮退し、グローバル経済の波に呑み込まれていくしかないのだろうか。
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