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重工業施設は満洲にしかなかった

『中国はいかに国境を書き換えてきたか』より

重工業施設は満洲にしかなかった

 天然資源を求めて、満洲には多数の流民が流れ込み、馬賊・匪賊あるいは軍閥となって、略奪を繰り返してきたが、二十世紀に入ってから日本の経営によって満洲は重工業とインフラを有する土地に変貌した。

 当時の中国(長城以南)には、西欧列強がつくった製鉄所(武漢)や造船関係の工場(上海)、飛行機組み立て工場(昆明)などがあったものの、基本的には紡績、食品など軽工業しかなかった。他方、一九四三年の時点での中国大陸全体の工業生産高に占める満洲の割合は、機械類では九五パーセント、鉄鋼で九一パーセント、硫酸アンモニウムが六九パーセント、電力六七パーセント、セメント七六パーセントと、中国大陸の工業生産のほとんどを満洲が占めていた。また鉄道は、満洲全土での総延長は一万一〇〇〇キロ。全満洲の主要都市が鉄道でほぼ結ばれ、大連-奉天(現瀋陽)-新京(現長春)-ハルビンを結ぶ幹線では高速列車が運行されていた。道路は国道六万キロ、地方道五万キロ。鴨緑江に架かる橋二十四を含む約三百の橋梁があった。さらに、第二松花江の豊満ダム、牡丹江の鏡泊湖ダム、鴨緑江の水豊ダム(現在は北朝鮮)など、この三つだけで総発電量は八○万キロワットにも達した。

 日本が降伏する数カ月前の一九四五年四月の中国共産党第七回大会で、毛沢東は「もし、われわれがすべての根拠地を失っても、東北さえあれば、それで中国革命の基礎を築くことができる」と述べて、満洲に進撃することの意味を明確にしていた。それから三ヵ月後、日本が降伏する直前の八月八日に、ソ連軍が満洲に侵攻したのに続いて、毛沢東は東北占領を指令し、軍隊を満洲に派遣した。目的は、満洲の戦略的位置と満洲にある資源、さらに日本が建設した重工業施設であった。建国(一九四九年十月)四年後の一九五三年に、中国の第一次五ヵ年計画が始まるが、重工業基盤のあった満洲ではそれ以前の一九五一年から始まっている。今日においても、東北三省は機械製造工業、化学工業など全国で重要な位置を占めており、鉄鋼の鞍山、石炭の撫順、大慶油田はいずれも満洲にある。満洲は中国の経済発展に必須不可欠である。それは軍事大国を支える上でも不可欠である。

二回にわたる大きな区画改編

 建国以前の満洲は、黒龍江、興安、瞰江、合江、松江、吉林、安東、遼北、遼寧の九つの省に区分されていたが、建国後、興安省の全域、瞰江省と遼北省の一部が内蒙古自治区に併合され、それ以外の地域は合併して黒龍江省、吉林省、遼寧省の三省となった。建国から一九六九年までの期間、内蒙古自治区は満洲の興安省全域と瞰江省と遼北省の一部を含んでいた。

 一九六九年に図2-4のような大掛かりな重要な変革があった。興安省全域と合江省のかなりの地域が黒龍江省に併合され、遼北省、松江省全域、瞰江省、安東省の一部が吉林省に編入された。また遼北省、熱河省、安東省の一部が遼寧省に編入された。内蒙古の区域は全面的に縮小された。さらに内蒙古は西方地域でも縮小され、それまでの半分となった。

 この大掛かりな行政区画改編は一九七九年七月一日に、それ以前の区画に戻った。この二回にわたる区画の大きな変更は、二つの重要な政治的軍事的配慮からなされた。まず建国時期の行政区画の狙いは、蒙古民族の居住地区を対象に、内蒙古を中心として満洲に居住する蒙古民族を包摂して、その地域に漢民族の居住地区を混ぜることにより、蒙古民族が独立した社会国家をつくることを阻止することにあった。

  一九六九年における全面的な改編は、同年春に中ソ国境で起きた中国軍とソ連軍の軍事衝突を契機として生まれた「中ソ戦争」の危機に対処することを目的とした全面的な改革であった。すなわちソ連軍が中国に侵攻する場合、その経路は満洲東部の緩芥河方面と新疆地区を除けば、満洲東北端の満洲里から満洲に侵攻してくるソ連軍を黒龍江省で、中央部ではザバイカル方面からモンゴルを経由して北京に直進してくるソ連軍を内蒙古で、あるいは西北地区ではモンゴルから内蒙古を経て蘭州(甘粛省の省都)方面に侵入し、中国の核関連施設を破壊するソ連軍を甘粛省と寧夏回族自治区で迎え撃つという戦略構想に基づいて区画されている。そのことは「中ソ戦争」の危機がなくなった七九年七月に、それ以前の行政区画に戻っていることから裏付けられる。
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