みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

だれが規準に

2016年11月24日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 14章1−12節

 ルーマニアのクルージュ=ナポカという町に滞在しています。大学があるので、たくさんの若い人たちが通りを歩いている活気のある町です。路地歩きをしていると、古い町を囲む城壁の一部に突き当たりました。夕方には念願のトラム(路面電車)にも乗ることができました。

 一人として同じ人がいないように、同じ信仰を持つ人であったとしても、その表れは異なります。「みことばの光」が書いているように、礼拝式の順序、用いる賛美や楽器などの違いを、他の教会で礼拝をする折に感じたりします。そして、ある場合には「さばく」ということが起こります。

 パウロはここで「信仰の弱い人を…さばいてはいけません」と勧めます。さばく人は、それぞれが自分が神の側に立っているとの確信に基づいています。けれども、気づくべきは、自分がさばいている「あの人」を神は受け入れておられるのではないのかという点です。

 キリストを信じる者はだれでもが、神に従っているとして歩みます。けれども、自分とは違う信仰の表れをする人を目にすると、いつの間にか自分が規準になっているのではないかと、立ち止って気づくことが必要だと考えるのですが…。


昼が近づいた

2016年11月23日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 13章

 22日の朝に起こった地震とその後の津波警報の発令で、5年半前の出来事を思い起こした方が多かったのではないでしょうか。津波の最高が1メートルほどでしたので大きな被害に遭わなかったのは幸いでしたが、不安を抱いた方々を主が支えてくださるようにと祈ります。

 13章の後半に目を留めてみたいと思います。

 パウロは「あなたがたは、今がどのような時かを知っている」と書いています。これは、キリストが再びこの世界においでになるということが覚えられているのです。復活したキリストが天に昇ってから再びおいでになる間の時を「終末」と呼びます。つまり、今は「終末の時代」なのです。ただ漫然ときょうもきのうとそれほど変わらない一日だったから、明日も同じなのだろうというように過ごすのではなくて、キリストがおいでになる日、すなわち「救いが私たちに近づいている」ということを忘れないようにと促しているのです。

 今がどのような時なのかを、人のうわさや社会の動きで判断するのではなくて、聖書のことばによって知るのは、きょうと一日をどのように生きるかという上でどうしても必要なこと。あわてふためくことなく、やがて神がこの世界に何をもたらのかを知って、その時を待つという選択は、きょう一日を昼間らしい、正しい生き方を送る上での動機になります。

*ルーマニア、トランシルヴァニア地方のシギショアラという町での一コマ


祈らなければ…

2016年11月22日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙12章9−21節

 日本も寒さが厳しくなるとの予報が出ていると聞きました。お読みになっている方には、お変わりありませんか。滞在中のクルージュ=ナポカという町は、ルーマニアのトランシルヴァニア地方の中心都市で、町のあちこちに教会があります。きのうは教会巡りをしました。ローマカトリック教会、ルーマニア東方教会、グレコ・カトリック教会など、普段はあまり訪れることのない所です。印象に残ったのは、それぞれの教会に次々に訪れてはイコンに口づけをしたり、ひざまずいたりして祈っている人々のこと。「キリスト教国」ルーマニアの姿を垣間見た気がしました。

 きょうの箇所には、同心円のように拡がる人間関係の中で、からだを「聖い、生きた供え物」としてささげた者はどのように生きるのかを見ることができました。

 教会内の人々との関係においては、偽りのない兄弟愛をもって愛し合うようにと勧められています。次に、自分を迫害したりののしったりする人に対しては、のろうことなく相手を祝福するようにと言われています。そして、敵に対しては憎むことなく愛するように、敵に食べさせ飲ませよと勧められているのです。さらに、敵に復讐しないで神の怒りにまかせ、むしろ親切にするようにとも言われます。

 このようなことを聞いて、そんなことできるのだろうかと、少なからぬ人が驚きとあきらめのようなため息を漏らすような感じがします。きょうの「みことばの光」には、それぞれのことばを自分の祈りにするようにとの勧めがありました。自分でできるのであれば祈らなくてもよいのだということに気づきます。パウロがここに列挙している一つ一つのことは、どれもが神の愛がなければできないこと。だからこそ祈り、神の力を本気で信じるのです。


理にかなった礼拝

2016年11月21日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 12章1−8節

 日曜日はどのようにお過ごしでしたか。私は、ルーマニアのクルージュ=ナポカから80キロほど北東のベクレアン(Beclean)という町にある教会の礼拝に出席しました。礼拝の時間はおよそ3時間。でも、あっという間のように感じました。昼食は教会の牧師さんや市長さん(その教会のメンバー)、副市長さん、ルーマニアで働いている日本人宣教師夫妻といっしょでした。その後にサプライズが….いっしょにお昼をいただいた方がパン工場を経営しており、その方に招かれて工場見学となりました。そして、お土産まで!

 ローマ人への手紙12−16章のほとんどには、キリスト者の実際生活についてのパウロの勧めが述べてあります。そしてその基本と言いますか、総論が12章1,2節です。キリストの十字架と復活を信じて救いにあずかった者は、聖霊によるきよめを通して「聖い、生きた供え物」とされました。パウロはここで、キリスト者生活の出発は自分のからだを「聖い、生きた供え物」としてささげることだと勧めます。そして、これこそが「霊的な礼拝」だと言うのです。

 おそらくパウロは、旧約聖書に記されている動物の犠牲を思いながら勧めたのでしょう。レビ記には傷のついた動物はいけにえとしてささげてはならないとあります(レビ記22章17節以降)。からだをささげるようにというのは、自分のすべてをささげることです。心はささげても体は…とか、体はささげても心は…などというものではありません。そのようにしてしまうのは、この世と調子を合わせるという誘惑にさらされることによって起こります。

 神に自分のからだをささげる、聖い生きた供え物として捧げるというのことがキリスト者生活のスタートだというのは、この後に登場する様々な勧めの先に来ていることからも明らかです。順番を取り違えてはいないかと探られます。

*土曜日に訪ねた「塩の鉱山」の天井の様子


かえって恐れなさい

2016年11月19日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 11章11−24節

 きのうから来週金曜日まで、ルーマニアのクルージュ=ナポカという町におります。数年後にここで大きな集いをするための下調べをするのが目的です。数日前に初雪があったとのこと。裏通りにはまだ雪が残っていました。町の主要道路には懐かしのトロリーバス! 東欧を象徴する乗り物のように、個人的には思っています。写真はクリスマスツリーにするためのもみの木を町の中心部に運び入れている様子です。

 ここにもパウロの「絶対にそんなことはありません」とのことばから始まります。パウロはイスラエル人は神から見捨てられてしまったのかという問いかけに、そうではないと強く主張しています。それは同胞を思うあまりの考えではなくて、神の選びのご計画の確かさ、真実さに基づくものです。「神はイスラエルにねたみを起こさせている」、「彼らの完成は…どんなにすばらしいものを、もたらすこと」だろうかと書いています。

 ですから、今度は異邦人に自分たちが救いを賜わったことに高ぶり、イスラエル人をさげすんではならないのだと戒めています。なぜなら彼らは(私たちは)つぎ合わされた枝なのだからというのです。「高ぶらないで、かえって恐れなさい」ということばを覚えました。自分たち異邦人が何かすぐれた者をイスラエルの人々と比べて持ち合わせているのではないということに、改めて気づかされることばです。そして、イスラエルを神さまがどのように完成に導くのかに注視することが大切だということを覚えます。

 救いを賜わった自分を間違っても、「自分に何か良いことがあったから」などと勘違いしてはならないのです。


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