みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

行き詰まり

2016年11月05日 | ヨブ記

ヨブ記 25章

 ビルダデのヨブへのことばは短く終わります。ビルダデは行き詰まってしまったかのようです。いや、ビルダデばかりでなく、他の友人たちも行き詰まっているのです。ですから、この章はビルダデのことばの終わりだけでなく、これまで対話を重ねてきたエリファズやツォファルにとっても終わりのことばなのです。

 ビルダデが神について語ることばには誤りがありません。神がどのようなお方かについて、彼は知っているとヨブに言います。ビルダデの神は高い所におられて平和をつくるお方。一方、ヨブを初めとする人間は神の前には正しくありえず、きよくもありえません。このように言うことによって、「自分は潔白だ」と主張するヨブをいさめようとしているのです。

 けれども、ビルダデがここで語っている神のお姿が、神についてのすべてではありません。ここでビルダデは、自分の見方、考え方の枠の中に神をあてはめようとしているようにみえます。ところが、ヨブが問題にしているのは、ビルダデの枠のはるか外側にある神のお姿です。これでは、互いの話がかみ合うことはありません。

 神がお造りになった自然、被造物を見ることによって、神がどのようなお方かを知ることができると言われます。確かに、神はお造りになった自然によってご自分がどのようなお方かを見せてくださいます。けれども、それさえも見る人の世界観、神観によって変るのです。身の回りに起こる出来事のすべてが、自分の考える神についての理解によって説明できるわけではありません。神の大きさを覚えるというのは、そのようなときなのではないか、と思うのです。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki