箴言 23章19−35節
街中でドラッグストアの場所を探し歩いたら、見つかりません。あきらめかけていたところ、広い通りの向かい側に移転していました。しばらく訪れていないと、いろいろなものが変化しているのですね。
昨日の本欄に書きましたが、箴言22章17節から24章終わりまでは、多くの場合4行が一つのペアになる格言、いや文章が目立つようになります。さらに、1−9章までのように「わが子よ」という呼びかけのことばが多く用いられています。23章後半でも「わが子よ」が2回出てきます。
22節に「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの母が年老いても蔑んではならない」とあります。後半のことばに目が留まります。
結婚して少なくても年に一度は、子どもたちを連れて私の両親を訪ねていました。私にとって親は、いろいろなことがあったとしても頼りになる存在でした。しかし、ある年の帰省で、親に頼る時は終わったと感じました。それは親がさまざまな面で年老いて弱っていくのだという事実を突きつけられる変化でした。
そして今、私たち自身が老いつつあります。体力的にもこれまで何の苦労もなくできていたことをあきらめ、長い時間座っていて立ち上がる時には、若い時に痛めた左膝に重さや痛みを感じるようになりました。気がついてみたら、二人の話題は膝が痛いとか肩が痛いとかいうこと……。
何かができなくなっても何かを持つことがなくなっても、蔑んではならないという戒めを初めて発見したような喜びがあります。そればかりではなく、25節には「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ人を楽しませよ」とあります。蔑むなどころか、喜ばせよと勧めています。これが神を恐れる者の生きかた、教会のありかたです。