ローマ人への手紙 8章18-25節
昨日の早朝は「みことばの光」編集日。テレビ電話(古い表現でしょうか)で、目の前にいるかのように打合わせできるのは、ありがたいことです。画面の向こう側は半袖、こちらは早朝なので着込んでいました。やはり日の出前が最も寒くて、今シーズン初めて暖房機のダイヤルを開きました。1月号を編集中です。
この箇所は「今の時のいろいろな苦しみは」ということばから始まります。パウロにしても、手紙の受取手であるローマのキリスト者たちも、信仰ゆえの苦しみを通されていたと想像させることばです。
やがて、ローマの教会は皇帝による激しい迫害によってパウロを含めて多くの人々が殉教をします。パウロがそのことをあらかじめ知っていて書いているのかどうかは確かではありませんが、18節でパウロが書いていることを迫害下で改めて読んだ人々が、どれほど大きな励ましを受けたかは容易に想像できることでしょう。「取るに足りないもの」ということばに…。
「みことばの光」が書くように、ここには神による壮大な「被造物回復計画」が描かれています。この箇所には「待つ」「待ち望む」「望む」ということばが多く使われています。何事かをしているときに、望みを抱いているかいないかでは、辛さや困難に耐える力に大きな違いがあります。自分がどこに向かっているのかを聖書によって知ることができるのは幸いです。
「目に見える望みは、望みではありません」ということばを心に留めます。「目に見えていないから望みではない」と思いやすいのではないかと、振り返ります。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信される」というヘブル人への手紙11章1節を思い浮かべました。