マタイの福音書 12章38−50節
3年前に主の御許に召された方のお墓に行きました。赴任してからは1年の交わりでしたが、ずいぶん長い間おつき合いをしていた思いがします。墓石に刻まれているのは、「主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう」という詩篇118篇6節。このみことばを頼りに、困難の中も歩まれたのだと思いを馳せました。
ご自分について主イエスが「誰なのか」と問いかけ、ご自分をどうするのかと迫っていると、きょうの箇所を読みました。
しるしを見せてほしいとの律法学者とパリサイ人に対しては、「ここにヨナにまさる者があります」、「ここにソロモンにまさる者があります」とお答えになり、しるしは十二分に記されているのであって、あとは彼らが目の前にいる主イエスを誰なのかと信じるのか、あるいは拒み続けるのかを選ぶだけなのです。
彼らに突きつけられたのは、人生でもっとも大きな選択です。43-45節は、「しるしを見せてほしい」と迫る彼らへの促し、警鐘でしょう。きよくあることをどれだけ求めても、主イエスをを迎えることをしなければ悲惨な最後を迎えるのだと言うのです。「あなたがたの前にいるわたしを…」とのイエスの迫りを覚えます。
イエスの家族もまた、イエスが誰なのかを問われています。「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」という問いかけは、家族にも「わたしは誰か」と問いかけ、答えを出すようにとも響いてきます。
そして、私も「わたしは誰か、わたしをどうするのか」との問いかけを、いろいろな場面で受けているのです。