みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

自分の目に正しいと見えること

2018年09月06日 | 士師記

士師記 17章

 水曜日午前の祈祷会。きのうはいつものメンバーに加えて4人の方が出席されました。自己紹介をし合ったら、それぞれが近くに住んでいることがわかったり、年齢が同じだったりということを発見。似ている、同じ、近くというと、互いの間にある見えないものが取れてしまうような気持ちがします。

 17、18章には、エフライムの山地に住むミカのことと、ユダ部族への割当地の西に割当地を得ていたダン部族が北に移動することが書かれています。鍵になるのは、「その頃、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」という6節のことばです。

 ここを読むと、ミカと彼の家族の生き方に不思議さを感じてしまいます。

 ミカは母から銀千百枚を盗みます。母が盗まれた時にのろいの誓いをしたのを聞いて、良心の呵責を覚えたのか、それとも恐ろしくなったのか、自分が盗んだことを母に告げます。すると母は、「主が私のを息子を祝福されますように」と言うのです。母親は、正直に自分の悪事を言ってくれたのでそのように言ったのでしょうか。不思議だと思うのは、なぜ巨額なものを盗んだ息子を厳しく責めないのか、ということです。

 母は、ミカが返した銀のうちの二百枚で、像を造らせます。神を拝むべき彼らはなぜ像を造るのでしょうか。それでいて、ミカは私設の神の宮を持ち、祭司が用いるエポデとテラフィムを作って息子を祭司にしているのです。ちぐはぐな感じがします。

 レビ人が来ると、これ幸いだと彼を自分たちのための祭司に任命します。そして、ミカは「主が私をしあわせにしてくださることを知った」と言うのです。「おいおい、そうなのか? 」突っ込みを入れたくなるふるまいです。

 ミカと家族に欠けているものは何だろうかと思いながらも、いつの間にかに自分の都合を優先させているのではないか、探られます。「自分の目に正しいと見えること」の反対にあるのは…。


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