みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

教会の戸の外に立って

2017年11月25日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 3章14−21節

 金曜日夜に帰宅しました。着陸したら小雨。カラカラ陽気の地から来たので、「こちらは雨が降っている!」と喜んでいた人もいました。私も、「しっとり」もいいなと思いましたが、いや、このような天候の下で何日も過ごすのはやはり…とも思い直しました。

 アジア州の七つの教会へのイエスからのメッセージの最後は、ラオデキヤの教会に宛てています。この箇所にはいくつかのことばが印象に残ります。一つは、「あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」とのことばです。ラオデキヤの北には温泉で今も知られているヒエラポリス(パムッカレ)が、南には冷たい飲み水の水源を有するコロサイがありました。

 何年か前に、次女が友だちとトルコ自由旅行をした折りに、ラオデキヤをローカルバスで訪ねました。すると、日本人の旅行客がラオデキヤに来るなんて珍しいと言われたのだそうです。確かに、多くの日本人がトルコを訪れていた頃の定番コースの一つとしてパムッカレがありました。温泉を体験できるのですから、日本人には外せないコースだったのですが、そこから数キロのラオデキヤを訪ねる旅程を一般のトルコツアーでは見たことがありませんでした。

 この教会の「生ぬるさ」とは、教会の主であるイエス・キリストをいつの間にか外に追い出していたことに気づかないという鈍さ、それでいて、自分たちが富んでいる、豊かになったと自己満足に浸っていたことを指しているのでしょうか。豊かだ、富んでいる、足りないものは何もないと豪語しながら、教会になくてならないお方を持つことのないという貧しさの中に…。

 しかし、教会の主なるイエスはこの教会の戸の外に立ち、戸を開けて入れてほしいと声をかけながら、戸をたたいておられるのです。彼らは戸をたたく音を聞いたのだろうか、キリストの声を聞いたのだろうか、そして、戸を開けていっしょに食事をしたのだろうか…。そして、私たちの教会は…?

*写真:バルセロナ郊外のコロニア・グエル内の地下聖堂(ガウディによる)


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