みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

望みえない時に

2017年11月01日 | エゼキエル書

エゼキエル書 37章

 昨日は、80㎞ほど離れた町の教会で持たれたバッハのカンタータBWV79番が演奏される宗教改革記念日礼拝に出席いたしました。このカンタータは1725年の宗教改革記念日のためにバッハが作ったもので「主なる神は太陽なり、盾なり」という題がつけられています。

 礼拝では聖餐式も行われました。司式者が一人一人に「これはキリストの身体です」「これはキリストの血です」と語りかけながらパンと杯を届けていました。小さな礼拝堂に人がいっぱい。

 ここは、本書の中でも印象に残る章です。枯れた骨で満ちた谷間に連れ出された預言者エゼキエルが、神の息によって骨がつながり、筋がつき、肉が生まれ、皮膚がすっかり覆うという光景を目撃するというのです。さらには、「息に預言せよ」と神に言われたエゼキエルがそのとおりにすると、彼らは生き返ったのです。

 「不可能を可能にする」とよく言われますが、枯れた骨が生き返るとはまさにそのこと。そしてこれは、ユダの杖とエフライムの杖とが1本の杖になるという回復を意味しています。ありえないだろう、いや、絶対に無理だ、不可能だ、としたら、多くの人はその次のステップを踏むことなく諦めてしまいます。信仰者も、祈ることをやめてしまうかもしれません。

 しかしそうであるならば、神を信じて祈るというのはどんなことなのだろうかと問われます。神を信じるとは私たちの可能性を踏まえて、神からのお墨付きをいただくということではありません。目の前に不可能と見える事柄が横たわっているからこそ、神を信じて祈るのではないのでしょうか。住まわせていただいているこの国に、祖国に「枯れた骨が生き返る」日が来るようにと…。


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