みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

祈りの家で

2014年07月10日 | マタイの福音書
マタイの福音書21章12-22節


 ワールドカップサッカー準決勝でのブラジル大敗が今朝の新聞に。まさか、あのブラジルが1対7で敗れるとは誰も予想できなかったのではないでしょうか。次々にゴールされるシーンに、ブラジルの選手たちやサポーターたちがかわいそうに思えてきました。日本が準決勝で敗れたら、「よくここまでがんばった」とほとんどの人は健闘をたたえるでしょうが、ブラジルはそうはいかないようです。勝負の世界は厳しい! ですね。

 勝負の世界と言えば、高校野球の県予選が昨日スタート。昨年秋の県大会で優勝したチームが初戦で敗れてしまいました。これにもビックリ。

 この箇所は、主イエスがエルサレムの宮でなさったことといちじくの木を枯らしたことから成っています。
 心に留めたのは、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」とのことば。主イエスが引用した旧約聖書イザヤ書56章7節のことばです。

 宮で主は何をなさったのでしょうか。商売人を追い出されたこと、次に盲人や足のなえた人をいやされたこと、そして子どもたちに腹を立てる祭司長や律法学者たちに詩篇8篇のことばで答えられたことです。

 主イエスは、宮は何をなす場所なのかをご自分の行動やことばで明らかにされました。正しいことが行われ、病む人々がいやされ、そして幼子による神が賛美される…、これこそ宮なのだと、イエスは言っておられるのです。

 祭司長や律法学者たちにとって、宮とはどのような場所だったのでしょう。仕事の場。自分たちが日常の働きを妨げられずに行える場でした。彼らが考える宮があり、彼らが言い伝えで受け継いだ儀式がありました。受け継いできたものを損ねずに、働きが円滑に行われるために、商売人や両替人を認めます。そこで多少手荒いことがあったとしても、普段どおりの働きのための必要悪だとして黙認して何も思わなかったのはないだろうか、と考えます。もしかしたら、幾ばくかの袖の下があったのかもしれません。そして、いつの間にか本来の宮ではなくなってしまう…。けれども、当人たちは気づきません。
 自戒すべきことです。
   


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