goo blog サービス終了のお知らせ 

みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

どちらもエリヤ

2020年06月01日 | 列王記第一

列王記第一 19章

「エリヤよ、ここで何をしているのか。」 列王記第一19章13節

 月曜日は「聖霊降臨月曜日」として、当地ではお休み。つまり日曜日と月曜日が「聖霊降臨日」の祝日としておぼえられています。日本でも集まっての礼拝が再開されつつあると聞いていますが、どのように聖霊降臨日曜日の礼拝を持たれましたか。

 ことしの聖霊降臨日は、これまでになく意義深いものがありました。大切で喜ばしい日であることはこれまでもずっとおぼえていましたが、見える交わりがなかなか持てない中での、聖霊の内住の恵みがどれほど大きなものかを改めて覚える年となりました。

 19章には、これまでとは違うエリヤの姿が描かれています。アハブの妻イゼベルの脅しのことばが引き金になったのか、大きな神のわざを達成したエリヤは、なぜ? と思うほどに力を失ってしまいます。

 今回この箇所を読み、「エリヤよ、どうして?」ということではなくて、タイトルにも書いたように「どちらもエリヤ」なのだと思ったのです。神のために善きことを達成する時もあれば、恐れおののいて力を失うことも信仰者にはあるのだというのは、なぜかホッとさせられるのです。

 そうならなければ、分からないこともたくさんあります。失敗がなく、挫折がなく、落ち込むことがなかったとしたら、それはそれでありがたいことですが、神について、また自分について知ることもできないのではないでしょうか。

 「エリヤよ、ここでで何をしているのか」と、神はどのような口調で問いかけられたのだろうか、と考えます。


王の前を走る預言者

2020年05月30日 | 列王記第一

列王記第一 18章25−46節

「主の手がエリヤの上に下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入口までアハブの前を走って行った。」列王記第一 18章46節

 このブログは日曜日には記事をアップしませんので、5月はこれが最後。ブログのプロバイダーが毎日、「あなたは1年前にはこんなことを書いていたのですよ」というメールを送ってきますので、時々1年前を振り返ります。すると、5月29日には、サムエル記第一 31章を読んでいました。ちょうどサウル王がギルボアの戦いで殺される箇所です。イズレエルの平野の東側のギルボア山の麓でいのちを落としたサウル、そしてきょうは同じイズレエルの西にあるカルメル山上でバアルの預言者450名を相手に一人で立ち向かう預言者エリヤが描かれているのです。

 カルメル山は、そこを訪ねる前には神秘的な山だと勝手に思っていましたが、実際には標高はそれほどでもありませんでした(546メートル)。しかし、そこから日北東に目を遣ると、イズレエルの平原が見渡せます。キション川はどこかとガイドの方に聞きますと、やはり思ったよりも小さな流れでした。けれども、エリヤが神に祈り、その「戦い」の後に海に上る雲を山上から見たであろうその地に立ったときのことは忘れられません。

 バアルの預言者たちの騒々しさ・動に対し、エリヤを静と形容するのがふさわしいと、ここを読みました。

 印象に残るのは46節のことば。エリヤが激しい雨の中、裾をたくしあげてイズレエルの入口までアハブの前を走る姿です。エリヤはこの時、アハブ王を行くべき所に行けるようにと動いています。自分のいのちを狙う相手に配慮するのです。鍵は「主の手がエリヤの上に下ったので」ということば。乗り越えるのが難しいと思われるような局面で、人の思いを超えた態度や行動ができるのは、主の手が述べられた時のみなのだと教えられます。

*カルメル山上からイズレエルの平原を望む


エリヤがここにいる

2020年05月29日 | 列王記第一

列王記第一 18章1−24節

「行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え。」 列王記第一 18章11節

 「逃げも隠れもしない」というのは芝居や映画の中での決めぜりふ。そんなことを言う主役はかっこいいのです。「我が国に雨を降らせなくしたエリヤ憎し」とばかり、アハブ王はエリヤを探し回るのですが、エリヤはアハブから逃げ回ってこそこそしていたのではありません。

 1節に主のことばがエリヤにあったとあります。エリヤは主がそこに行けと言えばそこに行き、あちらへ行けといえばあちらへ行くという日々を送っていたのです。この時も、主のことばによってエリヤはアハブに会いに行きます。悪王アハブに仕えていた人々の中で、心痛めつつ主を畏れていたのがオバデヤ。

 彼はアハブとアハブの妻イゼベルに知られないようにして、主の預言者たち百人を匿(かくま)っていたのです。オバデヤはアハブ王を恐れつつ主を畏れる人でした。そんなオバデヤの「私の主人エリヤではありませんか」ということばが心に留まります。彼はアハブを主人としていました。このような立場にいなければならない信仰者もきっといるだろうと思います。

 エリヤは繰り返しオバデヤに「エリヤがここにいるとあなたの主人に言え」と告げます。逃げも隠れもしない、むしろ堂々とアハブの前に立つというメッセージが込められていることばです。神のことばに従う人の強さをエリヤに見ます。それをそばで見たオバデヤは何を思ったのでしょうか。


だれの前に立つか

2020年05月28日 | 列王記第一

列王記第一 17章

私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」列王記第一 17章1節 

 「みことばの光」の詩篇を1冊にして発行することについて以前に書いたかと思います。本文の編集を終えたので、校正をお願いするために執筆者の先生に送りました。1月に病を得て今は左指でタイプしておられるとの一文が返信にあり、胸が詰まりました。

 「やってきました17章!」というのは大げさですが、本書17章以降にはエリヤが登場します。オムリの子どもで北王国イスラエルの王となり「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った」アハブ王に対峙する預言者として、神はエリヤを遣わされたのです。

 エリヤの登場は劇的です。突然アハブ王の目に現れて、この国に数年の間は露も降りずに雨も降らないと宣言するのです。1節の「私が仕えている」は、「私が前に立っている」ということばです。この宣言の後のエリヤの行動にも目が留まります。

 彼は常に主のことばによって動きます。主が「こうせよ」と言われたらそのように行動し、「ああせよ」と言われたらそのように動きます。そして、彼が動いたところには神のみわざが用意されています。預言者は、神のことばをそのままだれにでも語る者であるとともに、神のことばを聴き、語られたことばに従う者であることを、エリヤの歩みを読むたびに思います。

 自分はだれの前に立っているか、本来はだれの前に立つべきなのだろうか…。

*ヨハン・ゲオルク・トラウトマン「ラザロの復活」(シュテーデル美術館)


主の目に悪であること

2020年05月27日 | 列王記第一

列王記第一 16章21−34節

オムリは主の目に悪であることを行い、彼以前の誰よりも悪いことをした。」列王記第一 16章25節

 昨日は午後から街中へ。いつも使う駐車場の入口で駐車券を受け取るはずなのですが、ボタンを押しても出てきません。係のお兄さんが「いいから、そのまま進め」と言います。どういうシステムなのかいぶかりながらの帰り、料金を払う器械が新品になっていました。そして、自分の車のナンバープレートの番号を入力すると料金が表示されるではありませんか。これまでは清算済の駐車券を入れるとゲートが開いたのですが、昨日はゲートが自動的に上がりました。「ペーパーレス」になった、ということです。これまで慣れてきたことがガラッと変わると、慌てますね。自分の車のナンバーを覚えていないと…。

 この箇所には続けて、北王国イスラエルの王たちの変遷が綴られます。オムニ王は初めの6年間は対抗勢力のトップがいたために一部の民の王でしたが、ライバルの死によって北王国全体の王になりました。そして12年間王位に就いた後、その子アハブが王になりました。

 オムニは都をサマリアに遷し、アハブはサマリアにバアルの神殿を建て、北王国でバアル崇拝を進めました。ですから、オムニやアハブの頃、北のイスラエルは経済的に繁栄し、安定していたということがうかがえるのです。王として彼らの人気は高かったのではないかと想像できます。

 この二人の描写で共通なのは、「主の目に悪を行い、彼以前の誰よりも悪いことをした」です。オムリについては25節で、アハブについては30節にそのように言われています。

 ここを読むと、誰が王になるのか、誰を王にするのかという最も大きな目安は力が強いことにあるのでは、と思わされます。そこには「主の目」「主のみこころ」は働きません。力が強くて前の王をひっくり返すほど力の強い者がもてはやされるような社会なのです。しかし、列王記の著者は二人を「主の目に悪を行った」として一刀両断にします。

 「主の目に」を心に留めよう。

*レンブラント「目をえぐられたサムソン」シュテーデル美術館


2011-2024 © Hiroshi Yabuki