ダニエル書 10章
懐かしい方々といっしょに礼拝しました。まずは子どもたちと家族の礼拝。11人の子どもたちが賛美し、メッセージを聞き、聖句を一生懸命覚える姿に希望を抱きました。その後の礼拝には大人の方々が集います。いつもの席でいつもの人が礼拝する姿に平安をおぼえました。
10章の初めにはペルシアの王キュロス王の名前があります。バビロンのネブカドネツァル、メディアのダレイオスに続き、ペルシアのキュロスと、ダニエルは移り変わりの激しい時代を生き抜いたことがここから分かります。何度も触れたことですが、私はダニエルの変わらない姿を心に留めました。独裁者に重用されるのはすなわち、常にいのちの危険にさらされているということ。また、夢を解き明かし幻を見るという特別な力を神から賜っていることゆえに、彼は周囲のねたみを買い、「干される」ということもありました。
90歳近くになるダニエルは、一人の人を見ます。7節によると、一緒に行った人たちはその一人の人を見なかったのです。ここを読むと、ダマスコに向かう途中のサウロに主イエスが会ってくださった時、同行していた人は声を聞いても姿が見えなかったという記事を思います。
さらに彼が見た人は驚くような姿でした。「みことばの光」も書いていますが、「その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた。その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。 その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮のようで、その声は大水のとどろきのようであった」との黙示録1章13−15節のことばを思わせます。多くの人はダニエルに現われたこの人こそ、受肉前のキリストだと考えます。
「一人の人」とダニエルとのやり取りを読み、ダニエルがこの人の前では弱く、幼子のように思えました。目に留まるのはこの人がダニエルに「特別に愛されている人よ」と繰り返し呼びかけていることばです。確かに、ダニエルほどの人はそう呼ばれるにふさわしいと思いながらも、この方がやがて十字架に架かられたのですから、「特別に愛されている」ということばはダニエルだけのものではないと思います。