goo blog サービス終了のお知らせ 

霜後桃源記  

安心、安全と美味しさへのこだわり
そんな「こだわりの農業ブログ」を毎日更新
主役の妻は生産部長、夫は営業部長兼雑用係

反多数派のルーツ

2008-05-30 21:10:29 | 思い出
オジサンは多数意見に安易に組するタイプの人間ではない。
多数意見に疑問を持つようになったルーツを辿ると思い当たるのが小学三年の算数の時間。
先生に指名され出題された問題の解答を黒板に書いている時、その解答を見た50人を超える級友達が「違う、違う」の大合唱となった。
皆の「違うコール」に圧倒されたオジサンは一旦書いた答えを消して皆の意見に従った解答に修正して席に戻った。

結果的に、自分の最初の答えが正解だったことが判明した時の惨めな気持ちを今でも忘れない。
多数意見に押されて簡単に修正してしまった自分が情けなかった。
それ以来、百人中唯一人となる少数意見でも自分の意見はしっかりと主張するようになった。
結果的に自分の意見が間違いだったと判明しても、自分の主張であれば甘んじてその責めを負うことができる。

長じて世界の歴史に触れる機会が多くなってから、意外にも多数意見が間違っていたという史実が多くあることに驚かされた。
そして「正義は最初いつも少数」という名言があることも知った。



今日の大豆の種蒔きは午後四時からのスタートとなったが、七時までに二枚の畑を終えるという望外の進み具合となった。
また、農道を挟んだ南側のジャガイモ畑は、昨年までは雑草地だったとは思えないような見事な生長振りを示していて嬉しくなった。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

A先生

2008-05-21 22:42:40 | 思い出
このブログでも何回か紹介している仙台在住のA先生から久し振りにメールが届いた。
N小学校の校長を一年早く勇退し一年間英気を養った後に、今年から東北福祉大学の講師として招聘され再び教壇に立って活躍されている。
この先生、NHKの朝ドラ「ちりとてちん」の草若師匠役だった渡瀬恒彦似であることを自他共に認めている。
今日届いたメールのアドレスにちゃっかりとsoujakuを使っているいたのに驚いた。
幾つになってもこのような茶目っ気もあるところがこの先生の魅力の一つ。
このブログを愛読してくれていて「これは奥様に対する愛の日記ですね」と看破されていた。

A先生からのメールで懐かしい思い出が甦った。
若干29歳でPTAにデビューしたオジサンは、A先生と共にバレーボールのアタッカー役として市の大会等で活躍した。
大会後の祝勝会や反省会がいつも盛り上がり、バレーよりもそれがメインとなっていた。

その宴にはいつも気さくなS校長先生も参加されていた。
酒を呑むと態度も声も一段と大きくなるのがオジサンの常。
「校長先生、我が家では子供が三人お世話になるけど、将来全員東大に入れたいので、学校でしっかりと教育して貰わないと困りますよ」とからかい半分にプレッシャをかけた。
しかし、S校長は泰然自若として「そんなことが無理なのは親を見ればワガルコッタッペッヨ」とアッサリと切り返され、一同が大笑いとなった。
酒席でのこんなバカ話しの遣り取りをいつまでも覚えいているというのも何か不思議な気がする。

S校長はなかなかの人徳者で、何代か後の校長となったA先生は当時の先生方と今も健在なS校長を「囲む会」を毎年開いているという。


(慢性水不足状態だった田んぼも昨日の雨でようやく全面が水に覆われた)

A先生や家族同士で付き合いのあった当時の仲間と年に一~二回集まって呑むことにしている。
今年は初めて「禁煙スナック千代」で開催しようかと思っている。
新潟出身のA先生には、いつものように美味しい「故郷の銘酒」を持参して来ることを期待していることは言うまでもない。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

照井堰

2008-05-14 18:40:08 | 思い出
照井堰は磐井川上流の南北分水工にて平泉町に流れる北照井堰と一関市厳美町・赤荻・山目・中里へ流れる南照井堰に分水されている用水路。

早朝に苗を届けた厳美の農家の前を800年前に作られたといわれるその「照井堰」が豊富な水を湛えて流れていた。
我が家の田んぼは水不足で悩んでいるので、こんな立派な用水路の恩恵が受けられる農家が羨ましく感じられた。

この照井堰は赤荻ではもっと幅が広くなりオジサンが小学校に通った道沿いを流れている。
水の少ない時は格好の遊び場となっていて色々な思い出が残っている。
しかし、今の時期は水量が多いため子供が堰に落ちて命を落とすケースも多かった。
オジサンの同級生でも一人亡くなっているし、幼な馴染みのMチャンは500Mぐらい流されてから運良く発見され一命を取りとめている。
小学校の高学年の頃、近所の入学前の女の子が仰向けになって流されて来たのを発見し、近くで働いていた祖父に通報し、救出してもらったこともあった。

米作りの生命線となっている用水路だが、そんな恐い思い出も残っている。
今はガードレールも整備され、遊ぶ子供も居ないようなので事故は少なくなったものと思われる。



昨日の朝、苗の配達先で対応してくれたSさんは92歳の現役の百姓だった。
各田んぼに置く苗箱の数を指示しながら自らも軽トラから苗を降ろしたりする若々しさに驚かされた。
噂によるとトラクターも運転しているとか。

三十年後のオジサンの姿を見るような気がして嬉しかった
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠来のお客様

2008-04-11 23:48:42 | 思い出
昨年の秋以降、田んぼの排水対策に腐心して来たが、そろそろ代かきの時期を迎える。
これからは保水対策にシフトしなければならない。
特に供給する水が十分でない田んぼは早めに水を貯める必要があるので、その準備をしていた時にオバサンが軽トラで迎えに来た。
「珍しいお客様が訪ねて来てますよ」とのことだった。

オジサンは仙台で小学生のバレーボールチームの監督を通算で三年務めたが、横須賀で僅か半年だけだがママさんチームの監督をしたことがあった。
なんとその時のセッターだったSさんがご主人を伴って平泉、花巻観光のついでにわざわざ立ち寄ってくれたのだった。
チーム最若手でセンスの良いトス回しをする美人ブレーヤーだった。

新幹線で来て、一関駅からレンタカーのナビを頼りに山間僻地の我が家に一発で辿り着いたとのことで、それを聞いたバアチャンは「なんだが知らねぇけど、ナベ(?)というもの随分便利なものなんだなぁ」と驚いていた。

オジサンの監督就任は前任の監督が急に辞任したことによるものだった。
強敵にも善戦するけど格下のチームにもいい勝負をしてしまうような力にムラのあるチームだったが、格下の相手には着実に勝ち、強敵には接戦に持ち込める試合展開ができるチーム力になった時に転勤辞令が出てしまい、後ろ髪を引かれる思いで横須賀を後にした。

「試合はセッターが作る」を信念としていたのでSさんには厳しい注文を随分出したが、それにめげることなく明るいキャラでチームを引っ張ってくれた。
Sさんは腰を悪くして五年前にリタイヤしたそうだが、レシーブの要だったFさんはまだ現役で頑張っているとのこと。
また、バアチャンと同い年だったHさんや次の長老格で姉御肌のYさんも最近までプレーしていたとのことで、当時のメンバーの近況等に話しが盛り上がった。

チームにはオバサンも所属していて、長身とジャンプ力を武器にブロック要員として活躍した。
夫が監督だとやりにくい面もあったと思われるか、「充実した練習ができ楽しくバレーができた時期」と述懐している。

20年振りの再会で語り尽くせないことも多かったので、夜に宿泊先である平泉のホテルを訪問し、酒を酌み交わしながら思い出話しや農業問題に話しが弾んだ。



まだ種蒔きが終わっていない分もあるが、最初に種を蒔いたものは既にこんな大きくなっている。
千葉の農家出身というSさんのご主人は、着くなり各ハウスや周辺の田畑をつぶさに観察されていた。

今の季節は襟裳岬同様に「何も無い春」となっているが、道路脇や土手には大きくなったフキノトウが花盛りとなっている。
車で来る途中にそれを見た二人は「こんなに沢山出ているのだから、きっと植えたものに違いない」と思ったそうだ。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不義理の戒め

2008-03-18 23:00:15 | 思い出
既に七年前に亡くなったが大叔母(祖母の妹)は後妻として近所のS家に嫁いでいた。
血の繋がりは無いが、先日結婚した新郎は曾孫に当たる。

相方には大分前に先立たれ、、晩年の数年間は養老院暮らしをしていた。
実家の「跡取り」ということで何かと目をかけて貰っていたので、二人で慰問に出かけたことがあった。
「来てくれて本当に嬉しい。今日のことは一生忘れない。イヤ、死んでも忘れない」と言って喜んでくれた顔を今でもハッキリ覚えている。


(春霞のためか栗駒山も影が薄く見えた)

その大叔母が亡くなった時は、山形に単身赴任中だったこともありお葬式関係の義理はすべてジイチャンとオバサンが済ませてくれた。
帰省した時「お線香をあげに行くべきでは?」と訊いたら「もうすべて終わっているので行く必要が無い」というジイチャンの話しに安易に従ってしまった。

翌年のお盆に、我が家の墓参りを早々に済ませ、大叔母の眠っているS家のお墓に線香をあげに行った。
ずっと気になっていたことをようやく済ませ「ホッ」とした瞬間にアクシディントが待っていた。
前夜の雨で濡れていた御影石に足を滑らし、一瞬空中に浮いてから石段の鋭利な角に腰骨と背骨を思い切り打ち付けてしまった。
強烈な激痛が走ったことは言うまで無いが、それよりも打ち所が悪かったので「大きな後遺症が残るに違いない」と心配になり顔面が蒼白になってしまった。
しかし、結果的に単なる打撲と擦り傷で済んだのは本当に幸いだった。

最初、軽症で済んだのは大叔母が守ってくれたものと思っていたが、時間の経過と共にあの転倒は「不義理を叱った大叔母の仕業」ではないかと思えるようになった。
「転倒させて不義理を戒め、怪我は軽症で済ませる」というのが大叔母の意思だったに違いない。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする