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霜後桃源記  

安心、安全と美味しさへのこだわり
そんな「こだわりの農業ブログ」を毎日更新
主役の妻は生産部長、夫は営業部長兼雑用係

本物の教師

2012-02-29 19:02:28 | 思い出
高校一年の時の担任だった田村剛一先生は「異色の若手教師」だった。
地理の授業の半分以上は山登り等の「雑談」に終始していたように記憶している。
しかし、その「教訓含みの雑談」がメチャ面白いだけでなく「愛される人柄」もあって、
生徒達からの人気は「アイドル並み」で、同じクラスの女生徒の一人は先生と廊下
ですれ違うたびに顔を真っ赤にしていたものだった。
僅か一年のお付き合いで転出されたが「人生を教えて頂いた恩師」の一人として
忘れられない存在になっている。

いくつかの学校を歴任されたがどの学校でも人気者だったようで、その辺の事情は
地元紙に連載されたエッセイや著書「白い画集」からもうかがうことができた。
教師退職後は地元の山田町の「町議をやっている」ということを風の便りで聞いていた。



残念ながら転出後は縁が無く年賀状のやりとりさえもなかったが、七年前に開催された
高校全体の同窓会で予期せぬ40年振りの再会を果たすことができた。
数多いファン(生徒)の名前など覚えていないのではないかと思っていたが、受け持ち
ではなかった妻のことも含めて覚えていてくれたのは「感激」だった。

その田村先生が3.11の津波で被災したと聞いていたので、遅まきながら「お見舞い」
に伺った。
自宅前の住宅群はすべて津波で流されたが、自宅は1階部分が1m余り水没しただけ
で流失を免れることができたのは不幸中の幸いだった。
先日ようやく「修復して住めるようになったばかり」とのこと。



初めてお目にかかった奥様も含めて一時間余り「思い出話し」で盛り上がった。
先生曰く「自分が受け持った生徒達は最終的に立派な学業成績を残して卒業して行ったし、
顧問を引き受けた部活は東北大会や全国大会に出場するような好成績を収めることが多
かった。
音符も読めないのに吹奏楽部の顧問になり、東北大会に出場したこともあった」とのこと。

相変わらず「雑談主流」の異色授業を続け、受験勉強に主力を置く学校方針とは衝突した
らしいが、生徒達の「やる気」を引き出す不思議な魅力を持った「本物の教師」だったことを
改めて確認でき嬉しかった。
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母校

2011-07-24 22:51:18 | 思い出
第41回を迎えた一関市民体育大会バレーボールの部は、地震の被害で総合体育館が
使えないため男女の会場が分れ、男子は山目中学校の体育館で開催された。

山目中学校は我が母校。
山の中腹にあるこの学校に通ったのは既に半世紀も前のことになるが、卒業してから
訪れるのは初めてのこと。
当時の木造校舎の一部が未だ残っていたのには驚かされた。

中学時代は勉強にも部活にも身が入らない「灰色の三年間」で、あまりいい思い出は
残っていない。
そんな「心の古傷」に触れるような感覚で古びた学び舎を懐かしくながめていた。



玄関の脇にあったのは校歌の石碑かと思ってカメラに収めたが、最初の一節以外は
記憶に残っていないので、もしかすると別物かもしれない。



肝心の大会の方は予定どおり厳美が七連覇を達成した。
準決勝の舞川との戦いが事実上の決勝戦だったが、一セット目に15-7と大きくリードを
許すなどして苦戦をしいられたが、粘って逆転勝ちを収めた。

久し振りの接戦でゲームの流れを左右するタイムの取り方にも神経を使い、監督としても
少しは勝利に貢献できたものと思っている。

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野菊

2010-10-22 20:15:05 | 思い出
政夫と民子の悲恋を描いた伊藤左千夫の「野菊の墓」に最初に出会ったのは映画かラジオドラマだったと思う。
いずれにせよ小学校の低学年の頃だった。
その後も映画やTVドラマで何度か繰り返し観ているので原作を読んだかどうかも記憶は定かではない。
しかし、この作品から受けた影響は大きいものがあり、子供心に「自分の恋は絶対に悲恋にはしない」という強い「志し」を抱かせた作品となった。

その後、数々の人生の岐路に立った時の判断基準として、子供の頃のこの「志し」が大きな役割を果たしていたことは間違いの無い事実。

読書量が少なかったこともあり「人生に大きな影響を与える本には巡り合わなかった」と思っていたが、今振り返って見ると結果的にこの作品が「自分の人生を変えた一冊」になっていたような気がする。



「野菊の墓」は知っていても畑の土手に群生している花が野菊だと知ったのはつい最近のこと。
バックホーで畦道の撤去作業をしながら土手の薄紫の野菊を見て、懐かしい名作を思い出した。
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思い出の橋

2010-03-30 22:12:27 | 思い出
産直二ヶ所の出荷を終えた後は大久保橋経由で帰ることが多い。
厳美渓から2kmほど下流の磐井川にかかるこの橋の下は小学校時代に学校指定の唯一の「泳げる場所」だった。
「海水浴」などという言葉も知らずプールも無かった時代なので、水泳は「川でやるもの」とばかり思っていた。

当時の大久保橋は木造で、所々朽ちて穴が空いているような恐い橋だったためか「大雨で増水した川に橋から落ちる夢」をよく見て夜中に目が覚めたものだった。



そんな思い出の橋がいつかコンクリート造りに変わっていたが、幅が狭いままだったため車両交換に難があった。
その不便を解消するため新しいアーチ型の立派な「新大久保橋」が完成した。
まだ「開通セレモニー」も行われていないが数日前から利用できるようになって大変便利になった。

橋の上からの景色を眺める度に川遊びをした子供時代を懐かしく思い出すことが多いが、既に半世紀も前のことなのについ昨日の事のような気がする時がある。
そして、人は己の人生を振り返り「ホンの一瞬の出来事」と思って死んで行くのではないかと想像したりすることもある。
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ヘソ曲がりの少数意見

2009-12-26 21:11:37 | 思い出
マスコミの報道によって「世論が動かされる」例は枚挙にいとまが無い。
古い話しになるが江川が巨人に入団する際のゴタゴタ事件報道などはその際たるもの。
江川一個人で「空白の一日」などを演出できる筈も無いことは明々白々で、「ルール無視」が糾弾されるべきは読売巨人軍だったはず。
にもかかわらず江川一人が「悪役」として報道され、そのイメージは彼が引退するまで払拭できなかった。
甲子園で活躍していた当時からの「江川ファン」としては非常に悔しい思い出となっている。

最近、 発足間もない鳩山内閣が「余命幾ばくもない」旨の報道が矢鱈に目に付くようになったが、「安易に多数意見に組しない主義」のオジサンは全く別の考えを持っている。
いつものように「ヘソ曲がりの少数意見」かと思っていたら、今朝の毎日新聞「近聞遠聞」で岩見隆夫氏が「鳩山短命説は早すぎる」と見解を述べているのを見て「案外少数意見ではないのかも…」と思い直した。



先週の厳しい寒さが少し和らぎ、畑の土もところどころ顔を出して来た。
この畑の白菜も収獲したいところだが、今はその時間的余裕はない。
「しめ縄」の売れ行きが好調で、明日から販売のピークを迎えるというのに既に手持在庫が底をついてしまった。
ここ数日は「しめ縄」作りに全勢力を傾注しなければならない。
コメント (4)
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