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霜後桃源記  

安心、安全と美味しさへのこだわり
そんな「こだわりの農業ブログ」を毎日更新
主役の妻は生産部長、夫は営業部長兼雑用係

田村先生の思い出

2017-03-31 19:52:57 | 思い出
高校一年の恩師田村剛一先生の投稿記事を読んで当時を思い出した。

私は断然「教科書通りの授業」よりも先生の「体験談熱望派」だった。
実際に授業の内容は殆ど記憶に残っていないが、体験談は良く覚えていて「人生を教えて貰った」と
感謝している。

また、受け持ちの生徒は私も含めて「ダメ生徒」が多かったが、怒ったり叱ったりすることもなく、
勿論体罰を加えるようなことは全くなかった。
ある時、私が先生の期待を裏切るような行為に出たことがあったが、その時も黙って「寂しそうな顔」
をしただけだった。
髭ずらの山男ながらシャイでどこかに優しさが漂い、女生徒からは絶大な人気を得ていた。

2015年に発行した先生の最新の著書「一平先生 教壇日誌」で初めて知ったが、当時クラスメイトの家出事件が
二件も発生し、先生はそれにかなりの稼働を割かれていたようだった。
3.11の津波被害のお見舞いに山田町のご自宅を訪問した際「折角担任したのに生徒達との交流が疎かになった」
と気にしていた。
私にクラス会開催を熱望したのはそんな背景かあったようだ。



エグネの一部も含めた杉林の伐採作業に重機が到着した。
人手で伐採出来なかった分も含め作業は一気に進むものと期待している。
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田村先生の投稿

2017-03-30 22:18:19 | 思い出
若い頃から、そして「仙台年金友の会」(自称)の仲間としても親交が続いている荒川先生(仙台市立西多賀
小学校校長を経て東北福祉大学准教に就任。三年前に退職)から「教育という営みは生涯で二人の理解者が
いればよい、と思って来た私です。田村先生の論についていつも納得させられます。」とのコメントを添え
私の高校時代の恩師の投稿記事の切り抜きを送ってくれた。


(午前中、好天の下で生産部長はニンニク畑の草取りに精を出した。夕方「突然の雷雨」が襲来した)

河北新報 「持論時論」(2017.3.24)

         教師と生徒 師弟関係ではなく複雑
              
                 元教員 田村剛一(78歳・岩手県山田町)

 愛知県一宮市の中3男子生徒が2月上旬、商業施設から飛び降り自殺する事故が発生した。生徒のゲーム機に「遺言」として「担任に人生全てを壊された」という記述が残されていた。
学校は一時「担任によるいじめがあった」と説明したが、その後否定している。真相究明を待つしかないが、それにしても、今回の愛知県の問題は深刻だ。何せ、自殺の原因が担任教師にあるかもしれないというのだから。

 教師と生徒の間に問題が発生するたびに、両者の関係が複雑、微妙になってきたなと感じる。今回の愛知の自殺問題は別にして、教師と生徒の間は、第三者が考えるような「師弟関係」で割り切れるような単純なものではない。教師にも生徒にも個性があり、人格がある。それがぶつかり合っているところが学校だといっても過言ではない。

 教師になろうとする人は、誰もが「良い先生」になろうと思い、その道を選ぶ。しかし、教壇に立っているうちに、それが不可能に近いことを実感する。「いい先生だ」と言う生徒もいれば、「駄目教師」と言う生徒もいるからだ。
 私も一時、困ったことがある。社会科担当ということもあり、自分の体験を授業中に話すことが多かった。「先生の話は人生勉強になるので、これからも話してください」と言う生徒が多かった。しかし中には「先生の話は聞きたくない。教科書通りにやってほしい」と言う生徒もいた。どちらの意見も生かしたいと思い苦労した。

 38年の教員生活で、自分の信条にしていたことがある。それは、弱い生徒の立場に立って教育に当たること。自分のクラスからいじめを出さないこと。体罰は絶対にしないこと。
 背景には、私自身小学生時代いじめに会い、辛い思いをした経験がある。高校時代には、担任から体罰を受け、一番好きだった教科が嫌いになってしまったこともあるからだ。その信念を38年間通したつもりである。
 ところが、退職して間もない頃、教え子の母親から「うちの息子は、しょっちゅう先生に殴られたと言っていましたよ」と言われ、驚いた。この教え子に限らず、生徒を殴った記憶は全く無かったからだ。しかも、この生徒とはうまが合った方で、よく談笑もした。その時、手を肩に掛けたことがある。生徒はそれを体罰と受け取ったのかもしれない。

 今でも交流がある教え子たちがある。会えば「先生のおかけで卒業できた」と感謝されることもあれば、「何も教えられなかったから良かったのではないか」と皮肉っぽく話されることもある。
 大部分の教え子たちとは、現在、音信はない。中には「田村の顔は見たくもない」と思っている教え子もいるかもしれない。どんなにいい教師になろうと思っても、どんなに努力しても、みんなから「いい先生」と言われることはない。教師と生徒とはそんなものである。それを知ってもらいたいと思い、ペンを執った。

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少年時代の野球の思い出

2017-02-01 22:02:39 | 思い出
昨日のブログに御馴染みのsunasanさんからコメントが入った。

昭和16年生まれにとっての野球の想い出はちょっと切ないものがある。
疎開していた都下(23区以外はそう呼ばれていた。)で小学4年まで通った分教場では、
唯一の遊びが野球であった。しかし、バットは、木の枝、球は、手縫いで直ぐに形が変形し、
中のアンコが見えてしまう。グローブに至っては、捕手だけが竹籠で他は素手というもので
あった。当然、ルールを知っているものもおらず、適当に遊んでいたような記憶がある。
5年生になって転校した都内の小学校では、軟式ボールに皮のグローブ、木製バットを使って
いたのには、少なからずカルチャーショックを受けた。しかし、素手で遊んでいた為か守備は
直ぐに一番になってショートを任された。
この小学校の近くに読売巨人軍の練習場があったので、いまでも巨人ファンである。



sunasanさんへの返信
今は頻繁に交流のある市野々叔母との60ン年前の貴重なツーショットです。
半世紀前から「運命の赤い糸」で結ばれていたのかもしれません。
それにしても「苦み走ったいい男」ですね。(笑)

小学校入学前から野球をして遊んでいたように思えますが、当時の写真はこの一枚だけです。
グランドは野原か田んぼで、用具なども無かったのですが三人集まればゲームが出来ました。

小学校の野球部では「ショートで五番」でした。
チャンスに強いのを買われた打順でしたが、守備の方はイマイチで初めての練習試合で緊張し、
大きなエラー(トンネル)を二連発した記憶だけが生々しく残っています。
当時の写真が皆無なのが惜しまれますがグロープやバットも六年になって初めて本格的に使える
ようになりました。

今考えたら下手くそな選手だったにもかかわらず「将来は長嶋、広岡の三遊間コンビの一角を!」
と途方もない夢を描いていました。
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八戸時代の思い出

2016-08-19 22:40:12 | 思い出
八戸で仕事をしたのは20年ほど前のこと。
東大卒を鼻にかけ人格識見共に疑問符の付く支店長の下で支離滅裂なオーダーに苦労させられた
苦い思い出がある。



職場の同僚のOさんはレスリングの指導をしていて「オリンピック選手を育てた」が自慢だった。
リオで四連覇を果たした伊調選手も年齢から逆算するとOさんの指導を受けていたのかもしれない。
Oさんが今も健在かどうか不明だが、健在なら「金メダル選手を育てた」と鼻高々にちがいない。

また、同じ職場の同僚に演歌の作曲家を目指していたSさんも居た。
当時作った「月夜野」という歌の発表会を数百万円かけて大々的に行い、職場の仲間も大勢で参加
して応援したが、最終的にその歌はヒットにつながらなかった。
Sさんは今、八戸市議として選挙で常にトップクラスの票を得る議員として活躍中らしい。

伊調選手の活躍振りを観ながらそんな昔のことを思い出した。
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半世紀前の目撃証言

2015-02-11 18:16:23 | 思い出
「新鮮館おおまち」の新年会が開催された。
100人を超える参加者となりゲームや余興等で大いに盛り上がった。





たまたま会場で同席した女性が、生産部長が高校三年生の時に小さな部屋を借りて自炊していた当時「隣の部屋の
住人だった」と聞いて驚いた。
そこには学校は同じでも科や学年が異なりお互いに面識のない6人ほどの女生徒が自炊しながら通学していた。


(公民館長とは顔見知りの同級生でした)

初対面の人に遅まきながら挨拶をさせて貰ったら「あの当時、毎日のように遊びに来ていましたね」と言われて
しまった。
しかし、それは多分彼女の大きな記憶違いと思われる。

女生徒だけが暮らす小さなアパートに男生徒が出入りするのは「風紀委員会」にかけられても文句を言えないような
「事件」なので、隣の住人からすると月に数回だったことでも「毎日」のように感じられたのかもしれない。

蛇足ながら、私は当時既に結婚を決意していたものの、指一本触れることも無い「清らかな交際」だった。
コメント (2)
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