津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

石垣原の戦い・1

2013-05-11 15:29:30 | 史料

 今回は西の関ヶ原ともいわれた「石垣原の戦」をとりあげ、綿考輯録・巻十五により御紹介しようと思う。51頁に及ぶものであるから、長丁場となりそうである。

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慶長五年二月、忠興君豊後国ニ而六万石御拝領被成候ニ付、松井佐渡守・有吉四郎右衛門等を以木付城請取せられ、有吉は木付の城主に被仰付、松井は検地済次第丹後江罷帰候筈なり前に詳ニしるす、四月忠興君も豊後に御入部、御領分御仕置等被仰付、御逗留の内会津御陳の儀申来候間、四月廿九日木付を御、先ツ丹後江御帰国被成候、依之当城無油断堅固に可相守之旨被仰渡、猶又上方の様子に応し追々御下知可被成旨被仰置候ニ付、松井・有吉を初め各木付に在番仕候処に、家康公会津御発向の御跡にて石田党蜂起、家康公を可奉討企之由木付表にも風聞あり、忠興君は無二の御懇意なる故、関東御一味の儀勿論たるへけれハ其覚悟仕、豊後御領地の民長ともの人質を取、城を堅固に守、丹後の事無覚束思ひける処、京都吉田の盛方院一ニ盛法院又盛法印なとは誤なるへしより康之に書通ありて上方の模様等粗告来り候、其比肥後熊本の城主加藤主計頭清正九州の押へとして在国ニ付、忠興君兼て被御頼置、豊前中津黒田孝高入道如水軒ニも御内談被成置候間、松井・有吉等木付の城を如水に引渡し、各丹後に帰るへきと評定して舟を用意すれとも、加子等上方の騒動を聞て上らんと云者一人もなし、依之康之之為相談中津に至りける折節、如水の老臣母里太兵衛大阪より下着して申候は、石田三成逆心に依て忠興公の御簾中様去ル十七日の夜御自害、御留守居の面々も切腹いたし、御館は焼失の由、同十九日石田か下知によつて丹波・但馬の諸将丹後へ攻入之旨を語る、康之大に驚き、弥以片時もはやく丹後へ帰り度思ひ、如水に対面して右之段々をも相演、御舟を借用仕度旨申候得とも、中津にも水手無之、雇加子の金銀ハ何程にても合力可有と也、保之心くるしく木付に帰り、有吉に大坂・丹後の様子等かたり、各大きにをとろき、とり/\讃(ママ)談仕候にも、いつれ速に丹後に帰り、いか様にも可相計とて、南浦ハとても上る事叶ひかたらん、北浦を上るへしと色々船を用意いたし、何程なりとも賃可遣申候得とも、落人と存候哉、いかにすかしても加子一人み上らんと云ものなく、海路通路難成、此上ハ力およハす、此城にて届可仕と各必死に相定め、不確固の所等修復し堀をさらへ持口の手配を定め置候、廿九日如水より小姓壱人被差越、去ル廿三日大坂出船の者之由直口承り可申旨御申越、上方の様子等猶相知申候、晦日清正江進候書状

     態致啓上候
一当城之儀、先度如申入如水へ相渡、各一同ニ海陸共ニ成次第致帰国、城々可相抱談合極、中津へ罷越候処ニ、丹後へ人数出申由母里太兵衛
 聞届、大坂より被罷下候、然時は南浦ハ成申間敷候間、北浦へ廻可申ニ相定候処、落武者と存候故加子無御座候、何程成共賃可遣旨種々様々
 ニ才覚仕候へ共一切不調法候、如水へも加子之儀御談合申候ヘハ、雇加子之銀子ハいか程も可有御馳走由候へ共、右之通ニ候間不及是非候、
 各もたへ申事被成御推量候て可被下候事
一右之仕合候ヘハ無了簡次第ニて御座候条、当城之儀丈夫ニ致覚悟届了仕ニ相究申候間、弥被添御心候て可被下候事
一丹後城之儀堅固ニ可有之候、被成御機遣ましく候事
一大坂越中守屋敷へ御奉行衆より人質之儀達而被申付、女房衆自害、家ニ火をかけ小笠原入道・稲富伊賀・河喜多石見両三人腹を切申旨候事
一御屋敷之儀御機遣奉察存候事
一如水之小姓去ル廿三日大坂出船、昨日此地へ被指越直口承届候、伏見弥堅固ニ候、然ハ手当ニ嶋津殿御鉄炮衆・御馬廻衆置候て惣人数勢田
 へ罷通旨候事
一大津宰相殿 内府様御味方一通ニ付、是も押へ置候て勢田へ罷通被申候事
一丹後へ被差向候人数も小出和州なと勢田へ被出候へと被申越旨候、 内府様御上洛火急ニ付如此と存候事
一珍敷儀御座候ハゝ追々可申上候、乍恐此方へも可被仰聞候、此旨宜預御披露候、恐々謹言
                                    有吉四郎右衛門
       七月晦日                               立行
                                    松井佐渡守
                                            康之
             立本斎
     猶々、去廿三日之御返書到来、拝見仕候、大形少仕合先度申入候ハ雑説ニ而、謀叛之杓フリと相聞申候、越中所へ人を遣候儀、従是ハ成
     不申、如水より人を御下候間各書状遣申候、以上

       私云、廿三日清正より之返書并此方よりの状案共ニいまた見当不申候 

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あの日からの建築

2013-05-11 13:20:51 | 書籍・読書

東日本大震災以降、建築家は無力感にさいなまれている。いま建築家は何を為すべきなのか、2012年ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞を受賞した伊東豊雄が被災地に足を運び、被災者と対面しながら建築の在るべき姿を模索している。
建築家の端くれとして、その姿勢には大いに教えられる。
 

 

     あの日からの建築 (集英社新書)
            伊東豊雄
            集英社



内容説明

東日本大震災後、被災地に大量に設営された仮設住宅は、共同体を排除した「個」の風景そのものである。著者は、岩手県釜石市の復興プロジェクトに携わるなかで、すべてを失った被災地にこそ、近代主義に因らない自然に溶け込む建築やまちを実現できる可能性があると考え、住民相互が心を通わせ、集う場所「みんなの家」を各地で建設している。本書では、国内外で活躍する建築家として、親自然的な減災方法や集合住宅のあり方など震災復興の具体的な提案を明示する。

目次

第1章 あの日からの「建築」;第2章 釜石復興プロジェクト;第3章 心のよりどころとしての「みんなの家」;第4章 「伊東建築塾」について;第5章 私の歩んできた道;第6章 これからの建築を考える

出版社内容情報

広大な被災地で世界的建築家が考えたこと
岩手県釜石市の復興計画に携わった著者は、被災地にこそ、近代システムに因らない建築やまちを実現できる可能性があると考える。親自然的な減災方法や集合住宅のあり方を具体的に提示する。

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ガラシャ夫人御生害 ・11了

2013-05-11 08:26:59 | 史料

 本朝列女伝云、細川忠興孺人
細川越中守忠興孺人者明智光秀女也、慶長五年石田礼部三成託輔翼幼君欲奪国柄、終反濃州以西五畿中国四国九国皆属其指揮、三成欲捕列公達伯太夫士之婦人女子、悉質居大坂城時、細川忠興従源君軍後東矣、忠興贈一首和歌孺人曰
     勿靡吾間狭檣乃女郎花男山余里風波吹登茂
     或曰、此歌先是秀吉欲把忠興妻、数招之、忠
     興在其国而贈之、於是曰、秀吉是乱世之英雄
     太平之奸賊也
三成遣使於忠興之館曰、早質妻室於城中、可存忠興一族之安泰、忠興家長河北石見・小笠原松斎・稲冨伊賀守等告之於忠興孺人、孺人曰、所夫忠興応源君之命在東関、我其婦人也、如何従秀頼乎、不以盛衰改節不以存亡易心、是武士之家法也、偶生武士之家而辱家法乎、三成乃以兵数百脅其宅、孺人不屈、引匕首而自刺投硝火而死、河北氏・小笠原氏亦割腹赴火而死矣、其阿母侍女投火而死如婦也、唯有嫡子之婦、及稲冨伊賀逃亡、稲冨氏得鳥銃術雖有妙手之譽、永受指頭之嘲而遂偸生、此時因是三成不敢収其余将士之室矣、

     評曰
歳寒然後知松柏之後凋、挙世混濁清潔者乃見豈其不然乎
忠興之室根株雖枯子葉且栄孫枝且繁、詩曰、相鼠有皮、人
而無義、人而無義、不死何為
     頌曰
細川内室 当時節女 婦而有義
克踊相鼠 視死如婦 侍女尚侶
子葉孫枝 世有誉処

関原軍記大成に、忠興の名室ハ明智日向守光秀か女なれとも、君を敬ひ夫を恐るゝ心はへ父光秀に似さりしとて、皆人哀れかりしとなん、かく成給ハんとする前の日とかや
   露をなと化けなり物と思ひけん我身も草に置ぬ計りを
   明日知らぬ我身と思へと暮る間のけふハ人こそ恋しかりけれ
といふ古歌を扇子に書付て宮仕へする女房に与へ給ふと聞もまた哀なり、諸説に内室自害の時十歳の女子と八歳の男子とを手つから害し給fといひ、又小笠原正斎・河北石見・細川平左衛門なといふ留守居の者ハ門外へ切て出、数刻相戦ひ其後猛火の中へ飛入たりといへり、此両説細川の家人に尋ねけるに此時弐人の稚子ある事をしらす、又小笠原・河喜多等働きたるも虚説ならむ、殊更細川平左衛門といふ者ハ聞も及ハすといひおこせたり、内室二人の子を手つから殺害せられしといh、又小笠原・河喜多等か暫く力戦したりといふも皆用ひ難き説なるへしと云々、私云、此外此一件に付ては色々異説多く候得共、悉くハ是を論せす、本文を見て了すへき也、別而休無様と立允主を一ツに取合せしるしたるなとハ一笑にも絶たる事なり

 

                                          綿考輯録 巻十三 (了) 

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