津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

週刊新発見!日本の歴史

2013-05-21 14:50:00 | 書籍・読書

朝日新聞出版が6月11日創刊の「週刊新発見!日本の歴史」を発刊するようです。
全50冊の予定だそうで http://publications.asahi.com/rekishi/ でご覧ください。ちょっと興味をそそられますね・・・・・

           

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石垣原の戦い・11

2013-05-21 07:02:58 | 史料

外輪に居候松井家士中川下野・井口六兵衛後改将監・下津半左衛門・坂本三郎右衛門坂本閑斎(イニ水)養子実ハ荒木山城二男・今井宗兵衛後西垣庄大夫と号原の城にて討死・杉崎作左衛門康之乳母の子等直に敵に向ひ、城中よりも鉄炮を発し、魚住組の足軽汗水に成て討出す、有吉立行は此時迄も本丸に有て軍議をなしたるか、康之へ能々本丸を守られ候へと云捨て三の丸にかへり、士卒を下知し堅く城門を守らせ、鉄炮きひしく打出し、ミつから大筒を取て敵を討倒し候、此時鉄炮の者岸助之允肩台にて大筒をうたせ候なり、暁の比少雨降候へとも城下の町こと/\く焼け、漸に火もしつまり夜もほの/\と明行比、中川下野敵方上野弥平を目掛て切て懸る、弥平長刀にて渡り合、下野を溝へ切倒し首を取んと押付候を、下野か中間甚六と云者後より弥平を切、弥平ハ下野をすゝて起上る、甚六は初太刀切れさるに依て長刀を奪取て戦う処に、また下野か小姓少九郎高麗人走来るを見て、主人を退候へと申処を弥平甚六か首より左の頤(ヲトカヒ)へ切付る、さのミ深手に非されハ、長刀を捨大手を開けてつかミかゝる、弥平如何思ひけん、引退を猶取付けれ共振切て引取により、甚六と少九郎と両人にて下野を引退る、此時下野ハのどぶへをかゝれけれ共刀に取付ける故、ふゑに不当手の内をくられ候也、弥平は三ヶ所手負、甚六は五ヶ所手負
    又一説ニ、上野弥平を上野長介と記す、大反(友)かたに上野長介と云者なしと云、又説に森長介と云、是は後に森清左衛門と云て木下右衛門大
       夫殿ニ奉公す、此時吉弘加兵衛被官なりと云々
柴田小六は上野弥平を助んとて進ミ来るを、井口六兵衛渡り合、互ニ名乗て鑓を合せけるか、小六ハ左の脇をつかれ、六兵衛も疵 一ニ太刀疵と を蒙る故相引にしけるか、小六刀を抜かたハらを見廻しける処を、三の丸より放す鉄炮にて額を打ぬかれ死けるなり
    一書ニ、小六手負候間不叶と思ひ逃行を三の丸より打取と有、又一書に、有吉も鉄炮にて敵数多討倒し候に、柴田小六床机にかゝり軍卒を指揮す
    る様子、立行遥に見て小筒にてハなりかたき故大筒を取寄、鉄炮の者岸助之允か肩台にて放、小六を討取と云々、又一書ニ、松井家来合戦する
    処に、有吉四郎右衛門立出鉄炮ニて敵数多打倒し人質も過半取落す、松井も同く討出へきとせしか共有吉押とゝめ、其方は城主なり、城を守りてこ
    そ本意ならめ、と制しけれハ、尤と感心し手廻り計ニて堅固に城を守しとなり、考ニ、有吉城外に討出たるにてはなく、本丸に有けるか、三の丸に帰
    りて鉄炮を放しける也、松井も城外へ打出んとすへき様なし、前後籠城之様子考へ見るへし
又百姓逃散りたる跡の焼屋敷に敵弐拾人ハかりかたまり居けるを見かけ、下津・坂本・杉崎・今井等家来壱両人つゝ召連行しか、人顔かすかに火縄の火見へけれハ、今井惣兵衛あの火は人と見へ候、一ト矢可仕と雁股を打番ひ切て発すに、胸板のはつれを射けつり咽ひへに立て即時に死す、是運の天助にて二十七八の若者也、下津半左衛門ハ大神賢助と鑓を合せけるか、賢助ハ胸板をつかれ、半左衛門ハ左の脇をつかせ相引にす、坂本三郎右衛門ハ 一ニ杉崎作左衛門 江藤又右衛門 入江又左衛門と有ハ誤なり、又右衛門ハ武功の士、石垣原ニてもよく働たる由、衛藤元常の先祖なり と鑓を合せ、杉崎作左衛門も鑓を合せ、各手つよく相働、城中よりハ一騎もいでず堅固に守りて 稠敷鉄炮を発し、外に有合もの計働候也、吉弘加兵衛も二ノ丸迄押来りけれとも、手負討死多く城内よりの鉄炮にうちしらまされ、軍勢共町のたかみに追あけられ、手負の首をミつから取て引退く、城兵追討にせんと勇むを松井下知して不追、勝鬨を揚首共実検せしに、今井惣兵衛か討取たる者は故ある者と見へたりとて、木付右馬之允 大友家士、此時松井康之扶持ス 、清田寿閑 大友家士、此時松井康之扶持ス、清田石見父也等に問、右馬之允ハ豊饒弾正かといふ、寿閑か言ふ、是ハ運の天助とて府内浪人平林津之介と云しか、大伴につかへて武功の者なり、今日討死仕候か、とて落涙しける由、惣兵衛には褒美として即座に康之より小袖を与へ候也
    平林津之介、運は天に有と云けるを常言を以て名とせしと云り、扨此戦に野原太郎右衛門を初め城内に取込置候者共、大伴にこゝろを寄するとい
    へとも、木付右馬之允無二の忠節を存る故、返り忠をする事不叶、夜討も利を失ひ、吉弘加兵衛一生の不覚と取沙汰なり、内通の者後に顕ハれ
    て、或ハ磔にかけ、あるひは首を刎申候

十一日之朝夜討之次第を如水へ注進、木付より富来江は七里なれとも、敵地にて使之者難所をしのきける故、其日ノ申ノ 刻如水の陳に参着候、如水此注進を聞て森・小田原に残し被置たる軍勢に使を立、木付表へ打出、松井・有吉に力を添へ、我等着陳を相待候へと云送らる、此使十二日の朝森江着て口上申達ける故、二千余の 一ニ三千計 黒田勢某日木付に到着す
    一書ニ、此使ニ河北藤平参り道筋難通所を弓にて射払ひ、往来無恙木付の城に帰候と云々、如水記九州記に云、松井・有吉か注進の様最よし、
    臆して使を差こさハ加勢をこそ乞へきに其事を不謂ハ志有らん、我越中と無別儀中なるに、松井・有吉を捨、木付を敵に攻落されては無詮、後詰
    を遣せとて赤根峠と云所より引分て各を被遣候と云々、又夜討を十一日の寄る共有
松井・有吉参会して軍議しけるにも、兎角如水の着陳を待受、木付勢先手を致し立石表へ相働へしと申けれ共、時枝平大夫不承引、如水先手として我らを越被申候得は、何事も御城主次第ニ而候得共、眼前ニ敵を見懸殊に当城に取懸け、慮外をしたる敵勢を如水の手にかけさせ給ふハ口惜き次第ならすや、急き大伴を討取、立石にて如水を待申さんと評定し、ついに十三日寅の刻に木付を打立んと一決しけれハ、松井・有吉も同しく可打出と議定し、康之家士志水五郎助を使として如水江申送けるは、御着陳を待受可申と色々断候へとも、御手の衆許容なく被打出ニ付、最寄の御相談もいたつらに成、御人数の案内を仕候由申送候
    関東軍記大成に、宗像掃部・都甲兵部・吉弘加兵衛等義統の下知を請て弐千四五百を従かへ、翌十一日木付に至りひた/\と城を攻め、囲之外
    廓を攻破りけるに、黒田如水木付へ後詰せらる聞へあるにより、寄手の面々義統の下知に随つて立石は引かへす、去程に如水の先鋒井上九郎右
    衛門・野村市右衛門・久野次左衛門・時枝平大夫・曽我部五右衛門・母里与次兵衛・池田九郎兵衛・黒田安大夫等は木付の城下へ着陳せしに、寄
    手彼地を引退くによつて此上ハ立石へ馳向ひ、義統を討果すへきの相定めけれハ、忠興の城代松井佐渡・有吉四郎右衛門も千三百計にて如水の
    先鋒と一手になり、九月十二日立石へ兵を進むと云々、考ニ右之通にて夜込の事無之、日時其外相違多し 

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