津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

成果

2013-05-23 16:37:46 | memo

   「ジョンマン」以降が、四月下旬以降約一か月間のオークション成果である。それぞれ面白く、「なかなかの目利きだなー」と自画自賛している。
   本棚が前後ろ二列状態になり収納が問題になってきた。

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■5:22  三くだり半 江戸の離婚と女性たち 高木侃

■5:22  江戸時代の交通と旅 

■5:19  熊本県指定重要文化財 旧細川刑部邸移築工事報告書 

■5:16  記紀歌謡 益田勝美 日本詩人選

■5:16  流人帖 伊豆・佐渡・隠岐の流人 森末義彰編

■5:14  江戸武士の日常生活 柴田純 初版 講談社選書メチエ

■5:11  本のある生活 高田宏

■5:09  私の東京切絵図 石川昌子

■4:27  開国と幕末変革 井上勝生 日本の歴史18

■4:27  織豊政権と江戸幕府 池上裕子 日本の歴史15

■4:25  ジョン・マンと呼ばれた男 漂流民中浜万次郎の生涯 宮永孝

■3:25  郷土史誌かわら 香春町歴史探訪

 

 

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御恵贈御礼 「肥後藩参百石米良家 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜」

2013-05-23 11:04:04 | 書籍・読書

 364頁に及ぶ大部の一族の譜であるが、これはまさに近世・近代を通しての歴史書である。すばらしい御著の発刊に先立ち御恵贈を賜り、深く御礼を申上げる。著者の近藤健氏・共著の佐藤誠氏とはご厚誼をいただいているが、誠に不思議な御縁であった。その御縁がこのような形で成就したのであれば、まさに望外の幸せである。

私はこのサイトの運営を通じ、多くの細川家家臣の方々のご先祖探しの御手伝いをしてきた。
何れの皆様も、いろんな文書や記録に触れられ遠いご先祖に想いをいたされ、新たなる感慨をもってご先祖の供養をなさっている。
米良家のご子孫である近藤氏は、同様の想いをもって代々のご先祖の事蹟について詳細な検証を為された。時代に翻弄された一族の姿が浮かび上がってくる。エッセイストとしてご活躍の氏であるが、近世史家・佐藤誠氏の協力を得られ、その資料の検証など厳密を究めまさに歴史書だあると申し上げる所以である。ご一読いただき、また新たにそれぞれのご先祖様に想いをしていただければ有り難い次第である。ご一読をお勧めするものである。

いささかの御手伝いが出来たのであれば、私の誇りとするところである。

 

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                                  花乱社HP  http://karansha.com/merake.html

 

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石垣原の戦い・13

2013-05-23 07:09:44 | 史料

敵味方入乱れ互にはけしく戦ひ、可児清左衛門も敵を鑓付て首を取、此時敵軍の内より胴はかり着て鑓に赤紙の印を付進んて懸るを、有吉家士葛西彦四郎詞を懸てしハらく突合けるが、鑓付て首を取、立あかる所に、又敵壱人懸合せ彦四郎か真向を一太刀切る、彦四郎も刀を取直し切払ひ猶踏込打たる、太刀腕にかけて中りけると覚へ敵は其まゝ引取、彦四郎も面の疵深手にて追かけ不申候、谷村長次郎大勢に渡り合鑓を合、岸助之允力戦して首を取、松井家士田中清三 一ニ清蔵 ・平井助太夫・前野九兵衛・上原長三郎首を取、此外高名する者多し、其余の宮津衆はげしく働き大伴勢を馳立る
    考ニ、伊佐源七鑓脇の働能仕候由ニ而、豊前御入国の上御切米御扶持方拝領、其翌年地方ニ被直下御知行七十五石拝領と家記に有之、大槻か
    家記に、大槻仁右衛門丹後にて被召出、石垣原にて働候ニ付御知行七十五石拝領と有、須崎久左衛門も相応之働有之、其為御褒美新知七十五
    石拝領と家記に在、丹後にて足軽ニ被召出候と也、魚住家記に、市正か家来斎藤甚助と申者鑓武者を討取、分捕いたしたる刀今以持伝とあり、右
    の働等いつれも此時の事なるへし
時枝等の一手是に気を得、勝に乗て追討に敵を討取尚も進んて追掛る、敵立石際迄引付奇兵を以稠敷鉄炮を打かけ、崩る人数も一同に大返にかゝり来れハ、母里・時枝戦ひ負て引返す、松井・有吉使を馳せて、か程迄の勝軍に負軍する事やある、敵をこと/\く討取か、左なくハ本陣に追込へしと申遣せ共、聞もいれす引退く、有吉四郎右衛門は時枝かつらに麾を打つけ、返せといへとも返答にも不及、ときに二陳につゞきたる久野次右衛門・曽我部五郎右衛門云、甲斐なき事に存候や、敵の旗本を目懸真中に馳入り、大勢を討取、終に討死をとくる、当手ハ思ひ/\に敵を討、勝軍しなから、時枝を追たる敵後に廻り、敗敵も色を直し味方捴負軍に及ふを見て、康之死を究め敵中ニ馳け入らんとするを、中間弐人次郎三郎甚助轡にすかりて放さす、近藤弥十郎正元傍をはなれす、鍵鑓は田中清三取て居たる処に坂本三郎右衛門乗たて来りてしたがふ、立行も馬を乗廻し家来塩屋八郎兵衛・永野甚兵衛に申付、手負等かたづけさせ、昇さし、彦右衛門と云者を馬のそばに引付居候間、家士等見付て追々に実相寺山に引上け、もの色を見合せ候
    一書に、此折黒具足に唐冠の兜を着面頬したる武者一騎馳来り、松井殿々々々と呼掛る、誰そと問ヘハ、井上九郎右衛門と名乗て懸るも引も習な
    り、不入深入大将に似合す、如水もやかて着陳せらるへし、其時我々も一同にかゝるへし、急き打入玉へと堅く制して引返す、其時康之、有吉ハ如
    何にと尋ぬれハ、早とく御退候と弥十郎答しかハ力なく引取候と云々
    関原軍記大成に、松井佐渡・有吉四郎右衛門ハ実相寺山の南なる小山に陳をすゑたりしか、如水の先鋒母里・時枝も利を失ひ、久野・曽我部か一
    隊も引色になるを見て一文字に馳かゝり、久野か一手に備へたる黒田安大夫・池田九郎兵衛其外久野か属兵七八人、松井・有吉と一手に成て都
    甲兵部か手の者と相戦しか、忠興の兵士魚住右衛門衛・中村平左衛門傍輩に先立てはせかゝるを見て、松井か従兵中川下野・井口六兵衛・下津
    半左衛門・坂下三郎右衛門・杉崎作左衛門・今井源六等勇を震つて敵を追立、松井加兵衛・坂下三郎右衛門・前野九兵衛・近藤弥十郎・上原長三
    郎并ニ有吉か従兵岸助五郎・八坂又助・葛西彦四郎等其場におゐて首を取、久野か従兵荒槇軍兵衛は敵の物頭竹田津一卜を突ふせて其首を
    取、陳将都甲も此戦ひに討れけれハ、敵兵怺かねて引退く、然れ共吉弘加兵衛か一隊時枝・母里を追立て跡を取切やうに見へけれハ、松井佐渡・
    有吉四郎右衛門・黒田安大夫・池田九郎兵衛等敵を追捨て軍を返すと云々
    如水記に、井上九郎右衛門ハ三の目の大将にて備を立て居たりしか、我行て先手の様を可見と、唐冠の冑を着、鳥毛の棒の差物さし、唯一騎歩
    士十人はかり召連一町はかり行て見れハ、久野・曽我部討死し、松井・有吉戦ひつかれ本陳に引取ケれハ、敵方芝居に折敷扇つかひ居たり、井上
    是を見て見て能時分と思ひ、麾を以てはやかゝれと招くと云々
康之も実相寺山の方へ引取に、向の左の方に人数見ゆるは何者そ、と坂本三郎右衛門に問候に、如水衆ハ右へ敗軍仕候、是ハ大友衆と見へ候と申、何れも歩武者なれハ左あらめと云、是宗像吉弘等百四五十はかりにて、実相寺山に松井残置たる昇を見懸け来るにてそ有ける、康之実相寺山の麓に着バ河北藤平迎に参候とて出向ふ、又松井の足軽来て、あの敵へ鉄炮を打懸申へし、御覧候へ、とて一町程にて二ツ放す、康之馬をひかへて、見事討たり、供せよと云てやまに打上る、康之初め旗を立置たる所に有吉・魚住・可児等居たるに、松井来て馬より下り、四郎右衛門も下られ候へ、爰そ我々か墓所なり、是より一足も引じと誓言す、有吉尤と同する所に初め旗をあつけたる下津半左衛門は康之を待受て、やかて馬を乗下し、歩立に成て鑓を合せ敵を突倒し候を、敵大勢にて引包むにより、又馬に打乗り鑓を横たへ、輪を二三度懸け透間を見て乗抜け候也、退口に鑓を合せたりと云伝しハ是なり、夜討の時の鑓よりも是を自慢せしとなり、松井・有吉以下八分程乗下し、敵陳を窺候に、敵鉄炮を放す事雨の如く、足下に来る魚住・市正両人か前に立塞り、松井殿・有吉殿ハ大将にてハ無御座候哉、敵の望所に陳を居られ、雑人の矢先にかゝり玉ハん事口惜存候、某御楯に参候とて矢面に進ミ出れハ、杉崎作左衛門も御楯には某参候とて、矢面にふさがるを見て我も/\と進ミ出る、松井・有吉も左程には思ハさりしとて初め旗立たる所に陳をすへ、魚住組の足軽康之・立行か鉄炮の者をも前に備へ小つるへにて立て打出す、其折山下を篠の丸の黒あなひ差たる武者一騎乗立へ馳来る、其外打散たる士卒等旗を見て追々に集り人数かざみけれハ、吉弘等深入ハしたり、つゝくみ方ハなし、馬をひかへて見合居候所に、井上九郎右衛門・野村市右衛門等中津の後軍千余人走来て手痛く戦ひ、大将吉弘をも討取候 合戦の様子略之、松井・有吉は実相寺山にて人馬を休め、若井上等戦ひ利なくハ二度入替て、十死一生の戦を遂んと暫見合居候に、井上・野村等きびしく働、敵崩るべき勢ひゆへ、いつ迄見合居るへきとて鬨を発しかさよりかゝりけれハ、大友勢弥乱れ宗徒の者五六十人前後の戦ひに討死して、残る者とも立石さして逃行を、木付・中津の両勢追討に首少々討取、数刻の戦ひに味方も労れ候間、長追せす一丁ハかりにて追留め、引返して備を堅むる、折節雨ふり出数度のかけ合につかれたる上、殊に難儀に及候へとも、味方ハ弥陳を堅ふして実相寺山に居申候、如水ハ十三日の朝富来の城を巻ほくし立石表発向、途々も取合有之候間隙入、頸成 一ニ頸無シ と云所迄押来られ候時、井上等か使馳着て勝軍を注進す、如水より田代彦助を使者として感せられ、且猥に働へからす、陳を堅ふして着を可相待由被示越、松井・有吉にも岡田三四郎を以戦功を感賞有、両人対面して軍物語等有之内暮比に如水着陳あり、松井・有吉出向けれハ今日の戦功抜群なる由を被感、如水も実相寺山の北の方に陳せられ候、十四日立石へ軍勢を被向、松井・有吉も攻口を請取、打向ふ所に義統降を乞、其夜 一本十六日又十五日朝 母里太兵衛か陳所に来られ候間、如水より人を添て仲津城へ被遣候
 

 

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