津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

オークションで

2013-05-20 16:39:33 | 史料

                                                        オークションで手に入れたものです。(未だ手元に届いておりませんが・・・・)

                                                          

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石垣原の戦い・10(開戦)

2013-05-20 12:28:12 | 史料

同日九日如水より使を以相談有度事候間、四郎右衛門高森の 如水今朝中津を出馬、今晩は高森に着、十日豊後国内に打入られ候、高森は如水の臣黒田兵庫か居城なり 城迄参候様ニと申来、立行急き罷越候処に、暫く内談あつて後人数まて被為見馳走有之候、四郎右衛門やがて高森を立ち、十日帰路を急き候となり、吉弘加兵衛ハ九日富来より陸地を経て安岐の城主熊谷内蔵助直陳留守居熊谷久蔵と内談するに、木付の城に松井・有吉小勢にて楯籠り、事もなけなる体也、是を攻討て武運の程をも試ミらるへしと云けれは、吉弘同心して木付の城を可攻術(てだて)テを謀る処に、大伴旧臣都甲兵部尉木付の城にありなから、旧主に志を通し、尚城近辺へ寄られ候ハゝ、裏切すべき由言送りけれハ、吉弘歓ひ使を以義統に伺ひ、十日に人数弐百計を卒し、大内木田台若宮馬場の尾通りへ人数を繰り出す、木付の城より十五六丁ばかり也、松井康之敵の働様を櫓より見すまして申候ハ、敵白昼に人数をくり出し小人数にて城下を通るを推量するに、当国は大伴累代の領なれハ、内通の者あつて城内を焼立る謀をなし、味方を引出すと覚ゆるそとて、自ら大手の門に出て下知をなして一人も不出、此時野原太郎右衛門なと云者内通し、城を焼き立べき約をなしけるも不叶、吉弘か謀案に相違しけるとなり、其間百姓丸には下津半左衛門を遣し、番等ゆるかせになき様に尚又様子を見はからハせけるに、百姓等兼て内談し、半左衛門来らハ酒をしひ呑せ、誰ハ右誰ハ左よりよつて組伏打殺すへきと計り、半左衛門に酒を進め数盃をかたふけ酔けれとも、きこふる大兵健なる男なる故、兼ての用意と違ひおくして近付者なし 此儀は後に野原太郎右衛門以下誅せらるゝ時白状いたし候也 、偖吉弘加兵衛は森末といふ在所中野惣右衛門と云百姓か許にて弁当をつかひ、ゆる/\と休ミ居たるを、知行方に付居たる桑原才蔵其近辺に有けれハ、城内に使を立、幸の折節なれハ御討取可然や、其まゝかへし可申や、と申越候を松井聞て、左様の事使を以申条沙汰の限り也、自身来て申候へとの返事故、即刻才蔵来りけるを、其まゝ城内に留め置候、吉弘ハ城兵一向に取合さる故、無為方森末を出て上八坂を通り、日出より廿丁計此方辻の堂と云所にて日を暮し候となり、松井ハ有吉方に飛脚を以大伴方の人数少々城辺を打廻り引取候間、其心得すべき由申越候、途中にて此旨聞届立行具足を着し供の者ニも用心すべき由申付、野中にて具足箱に腰を懸、何も能折柄供に参り合、功名可仕間仕合たるの旨申、敵合近く成候ハゝ、下知に随ひ粉骨を可尽旨申渡、弁当の酒なと何レもへ給させ、葛西彦四郎ハ鉄炮之者を召連先へ参り、敵近候ハゝ鉄炮を打せ可申、其時下知を加へ鑓をも可入と有に依て、彦四郎先に参り峠を下り候、時分ハ漸暮に及ひ、山賀の谷に一揆共大勢集り候と見へ、火縄の火夥敷有之ニ付、此方の火縄を短く数々切らせ火を付て手々に持物毎に結付候得は、一揆共ハ如水より人数を付送り被申と存候哉、引退く様子にて火縄の火もなくなり候、彦四郎才覚勝れ候とて四郎右衛門大に感し候也、扨山賀の谷に下り、村に使を立飯拵等申付、夫より所々の庄屋を人質の様に致し、道筋の案内に召連れ、大伴人数の陳取たる八坂の前を通り候へとも、其節は敵引取候跡故無異儀城へ帰り、本丸に入て康之と軍議をなす、黒田如水ニも此日康之以飛脚、大伴義統昨九日申の刻速見郡に着船、立石村に本陣を被居候、急き御人数を被出、義統に勢の不付内御退治可然かと申遣けれハ、如水兼て覚悟せられしに依て、一番備久野次右衛門・曽我部五右衛門・母里与三兵衛・時枝平大夫等千余、弐番備井上九郎右衛門 後ニ周防守元房剃髪道柏と号す ・野村市右衛門・後藤太郎介 又兵衛子後隼人と号す等千余、都合二千余人国崎郡之内森・小田原に陳を張せ、其身は富来を攻られ候なり、吉弘ハ辻堂にて日を暮し、夜かけに木付を攻落すへしとて、岐部山城入道玄達一ニ玄琢・吉良伝右衛門・江藤又右衛門・上野弥平・吉弘七左衛門炮長・柴田小六・小田原又左衛門・大神賢助・富来兵内・一万田民部・平林津助此時運之天介と云、此外新参之侍十人・雑兵数百人を卒して暁天に馬場尾白水迄押来る、柴田・平林等の案内者十四五騎ハ生地通干潟伝ひに朝日寺の外一ニ下安住寺の大松の陰川辺に付節所を越、相図の火を見ると我先に城に乗いらんと進ミよる、此城の要害東南北は海にて西一方口の地つゝき也、城内には都甲兵部允相図の火を揚、其外旧主を慕ふ者多く、外輪に居たる頭百姓或ハ降参の者とも示合せ、面々の持口に吉弘勢を引入、町屋を委(悉)く焼立、都甲を初め各人質を捨て吉弘勢に馳加る、此敵方の様子世静り、大神賢助疵平癒の後、松井康之に謁して物語なり
     一書、人質の番に有ける松井家来火を消んと馳行けるに、夜討の士卒足下より起り切て入る、松井者とも防戦ひ、有吉家来谷村長次郎も其夜
     人質の番に有て俱に働、近付敵を突払ひ人質をとられす、太平の後忠興君是を賞し給ふと云々 

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