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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ガラシャ夫人御生害 ・1

2013-05-01 16:15:15 | 熊本史談会

                                  綿考輯録・巻十三から「ガラシャ夫人御生害」について御紹介する。12・3回の予定である。

慶長五年六月、会津江御出陳の跡大坂の御屋敷には上様方被成御座候ニ付、・稲留伊賀・小笠原少齋・河北石見并金津助次郎其外士少々有之姓名不伝御留守を相勤居候処、石田三成廻文をもつて諸将をかたらひ、家康公を可奉討企にて、一味の面々大坂に馳集り候畧之、扨諸大名の証人大坂の城下に在之を若盗取事もやと口々に番所を建昼夜守之、中にも関東出陳諸将の人質を本丸に取入るへきとの評定有之よし相聞へ候、依之七月十二日少齋・石見奥江参り、御老女をもつて右の趣申上候得は上様仰に、忠興君は治部少と兼々御間悪敷候まゝ人質取申始に定て此方江可申越候、左候ハゝ脇置の見合も無之、御返答いかゝ宜敷候はんや、分別いたし候へとなり、両人申上候ハ、右之様子申来候ハゝ、与一郎様(忠隆)・与五郎様(興秋)は先達て御出陳被成、御光様(忠利)ハ江戸江御座候、只今此許にて人質に出し候ハん人無之段可申候、是非共に人質取候半との事ニ候ハゝ、丹後江申遣し幽齋様御上り被成候もの歟、其外何とそ御差図可有候間、夫迄待候へと可致返答由申上、一段可然由被仰候、則小齋自筆を以、上方の様子忠興君に注進の使者差下候、扨石田方の詮議にハ諸大名の妻子を人質とする時は、各志を変じして味方ニ属するも可有、其初に忠興か妻を召捕て少し鬱憤をも可散とて、先ツ日比御出入仕候てうごんと申比丘尼を頼ミ、内々より御登城被成候様ニとの儀申来り、ちやうごん色々言葉を飾り御すゝめ申候得とも、忠興君御為にて候間、如何様の事たりとも無御同心よし被仰候、ちやうごん力なく帰候か、又其後参候て、浮田殿ハ与一郎様奥様につき御一門にて候間、彼方まて御出候得、左候ハゝ人質に御出候とハ世間にも申間敷候由申候、上様仰に、いかにも浮田殿は御一門にて候得とも、是も治部少と一味の様に被聞召候間、夫迄御出も御同前の事なりとて一向に御承引無之候、さてハ内々にて済兼候と存候哉、十六日表向の使を以内室登城候得と申来候、小齋・石見・伊賀相談して越中守やしき遠所ニても無御座候、此まゝ被差置被下候様ニと返答申候とも、再三使来り是質に被出候得、左なくハ押懸て取り可申由申候ニ付、各申候ハ、あまり申度まゝの使にて候、此上ハ我々とも切腹いたし候とも人質出し申儀罷成由申遣し、夫より御屋敷中覚悟いたし候、上様被聞召城中に入て恥を晒さん事努々有へからす、重て使きたらハ速に自害すへしと被仰候、小齋御尤に奉存候、去なからなにとそ丹後江退まいらすへしと申候得共、忠興君退て許容せぬ人なり、御出陳前被仰置たる趣もあれハ、一足も屋敷の外江御出有まし、唯一筋に思召きらるゝの間時分を計ひ申上へしとなり、小齋等泪を押へて有難も思召定められ候、忠興君御出馬の砌も自然事あらんにおゐてハ、恥なき様にはからひ候とくれ/\被仰置候、一方を打破り、宮津の方江落行んも安かるへく候得とも。かく思召きらるゝのうへハ、いさきよく死をとけ御供可仕候とて各其用意仕候、扨実に敵押入候ハゝ御自害被成まゝ、其時分小齋参、御介錯仕れと被仰付、忠隆君の奥様女に如何心得給ふと仰けれハ、ミつからも同し御事もおもひ定め候と被仰候、宮川殿も其比御一所に御座候に御向ひ被成、御城より我々を人質に取候ハんよし申来り候故、賎の女の体にて立退き可申覚悟候、御身は御年もよらせたまへハ、急に御退候ハん事も叶ひ難し候まし、今の内に御出有て雄長老のかたへ立忍はせ給ひ候得、御出なき内にはミつからのき申事も成不申候とて色々御すゝめ被成候間、御許容有て立出させ給ふ、最早心易しとて御書置等御認、御覚悟有て御待被成候、扨三人談合して今にも御城より御迎ひの人来り、御屋敷江押入ならハ、稲冨は西の御門に居て敵を防き、其内に両人ハ万取認め、御自害を進め可申に相定め、敵の来るを待候なり、

    関原集ニ、大坂玉作口に越中守屋敷有、奥方の仕置ニ地震の間と名付、八畳敷に座敷を拵、四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入れかけ置、何時も大地震或火事ニ而も外ヘハ不出、地震間へ奥方御入候而火を付、焼死る佐(作)法に相定置、越中守裏門ハ稲富、表門は小笠原、奥方ハ河北預り也と云々、又一書、石田方よりの使者七月八日より数度来り候、忠興君へ注進の状も七月九日の日付とあり、考ニ不審左ニ詳也、関原軍記大成之内一説ニ、内室留守居を呼て、我か父明智日向守謀叛を企て信長を弑し給ひしとき、忠興の離別にあひて丹後の山家に隠れ居たりし比、主君を弑したる人の娘としつ山かつに譲られて、余りの口惜サに自害せんと思ひ立しか、与一郎いまた幼少也、今少し生し立て忠興に返しなんとするうちに、又呼戻されて年月を送り、近き比諸大名の奥方淀殿へ参る事有しを、ミつからハ身を恥らひて参りもせさりしか、今又御城中へ入て人に面をさらすへきようなし、唯心よく自害せんとあるにより、留守居も力なく内室の心に任せたりといへり、今按するに此説の虚実さたかならす、されと誠めきたる一説なるにやと云々、関原合戦諸記も大略同之

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WEBでよむ「丹州三家物語」

2013-05-01 09:26:47 | 史料

群書類従22下(合戦部)巻637 丹州三家物語 を八木書店のサイトで見ることができる。感謝

http://books.google.co.jp/books?id=wXZHnHDEDiQC&pg=RA1-PA40&lpg=RA1-PA40&dq=%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9F%B3%E8%A6%8B&source=bl&ots=5ggIo-2965&sig=KCRPd0TtZWb45UZmsd41eWbxbLQ&hl=ja&sa=X&ei=O2CAUezZOIOLkAXEwYDwDg&sqi=2&ved=0CHQQ6AEwCQ#v=onepage&q=%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9F%B3%E8%A6%8B&f=false

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