津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

北海道新聞に掲載

2013-05-31 18:01:12 | 書籍・読書

 「肥後藩三百石米良家・堀部弥兵衛の介錯人 米良市右衛門とその族譜」の発刊に当たり、著者近藤健氏がお住まいの札幌において、北海道新聞が
これを紹介している。いよいよ明日店頭に並ぶようだが、ご近所で入手が困難な場合は発行元へ注文をお願いしたい。

                                 発行元・花乱社 http://karansha.com/merake.html 

 ぜひとも皆様にお読みいただきたいと、乞い願うものである。

                                    

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「石垣原の戦い」以後

2013-05-31 08:06:43 | 歴史

 石垣原の戦いが終息を見た後、松井康之は有吉四郎右衛門を木付(杵築)城に残し、十月十三日福智山に到着している。
「忠興君御悦被成九州の様子委細被聞召、戦功等御賞美被成候、黒田如水よりも康之ニつけて諸将ニ書を送られ、覚悟を添て委しく言上すへきよし被申聞く候」とあり、家康公もやがて康之を召しだし、種々報告をなし戦功に対し御感あって面目を施している。その後丹後へ帰国している。

一方、木付にある有吉四郎右衛門にたいして、十二月九日付の妻・まんの生活の窮状を知らせる書状(家士・葛西彦四郎宛て)が残されている。

    まつい殿の文とどき申候、こんどはかいせんにて、彦四郎てがらのよし承り候て、せんじつ与太郎への九兵衛へのこころづけ申し候へやうもなく、御う
    れしさかず/\にて候、又国がへとてやがて殿様御下りのよしに候、此の程われ/\も下り候て御うれしくぞんじ候へば、又国がへと申候まゝ、せは
    しさ申し候はんやうもなく候、彦四郎おやたちもさとにあずけおきて、われ/\下りて候、たいらへこされ候、孫衛門おかあも、えはまへあづけて、これ
    もたひらへこされ候て、みな/\一ところへ居まゐらせ候まゝこゝろやすく候べく候、おかあはかたびら一つにてふる(震)われ候、にやひ(似合)もの候
    はゞ、米かしてかさせ候はゞ きせ(着)候はんと申し候へども、いまだうりかひ(売買い)もなきゆゑならず候、宮つまでのこじき(乞食)よりはあさましき
    てい(態)にてまいり候、われ/\もよろこび候てあくる日のらんにてまひり候ゆゑ、わずらひ候て、くし一具とりいで申さず、かたびら一つにてのき候へ
    ば、ふるきもものを一つみなにきせ候へどもならず候、われ/\はさように候はんにももめん(木綿)にてよるのものをこしらへ候て京より下り候てきま
    いらせ候、にょうぼうどもにもぬのこ(布子)一つづつこしらへて、きせ申すていにて参り候ほかはなく候、下り候へども、米をさまり候はではん米さへな
    らず候へて、めいわく申し候、しゃく(借)米とも、はこび候て、さはしさ御もすし候べく候、四郎右門殿へ御申し候て、具の方よりしゃくせん(借銭)かた
    御すまし候やうに候て給べし、又長次郎へ言伝申候、京にもふたりながらそくさいにそうろう、かしく
                                          まんより
             十二月九日
                彦四郎殿
                    まゐる 

四郎右衛門妻・まんは過酷な逃避行が始まる前日に二男・平吉(英貴)を生んでいる。この乳呑児を抱えての苦難の毎日がつづき十二月に至って着る物がなく震えているというのである。十二月九日と云えば新暦では一月である。寒さは一入であったであろう。

文中にある御国替とは十二月二日、「豊前一国と豊後之内速見国崎(国東)両郡を添御拝領被成候、是此度の軍功を被賞候故也」として豊前に赴くことになったのである。出発は十二月七・八日ごろとされるから、まさにまんが葛西彦四郎に書状を発した時期である。寒い盛りであったことが、加藤政右衛門の先祖書に次のように記されている。
    忠興君豊前御入国之刻、雪深く御馬こゝへ(凍え)、御人数及難儀申候ニ付、金山下坊(加藤氏祖)へ一日一夜御逗留、拾八疋之御馬火をたきあたゝ
    め申候、其上御通行之道筋三里之間雪をかきのけ、無御支御旅行遊され候、左候而下坊は翌六年三月上旬、豊前へ罷越候と云々

十二月廿六日、一行は豊前(中津)に入国して御規式がなされた。当然のことながら、有吉四郎右衛門は木付から駆けつけお祝いを申し上げ、「直に木付城ニ帰候也」と綿考輯録は記している。当然のことながら妻・まんと再会し二男とも初の顔合わせをしていると思われるが、これに関しては記されていない。こうしてそれぞれの慶長五年が過ぎゆき、細川家の新たな出発が始まるのである。 

 

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