津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

石垣原の戦い・3

2013-05-13 16:00:23 | 熊本史談会

如水江も、松井・有吉両使を以たんごへかへり候儀、とても不相成候ハゝ当城にて必死の覚悟をいたし、敵寄来るにおゐてハ矢石精力の有ん限り防き戦ひ届ケ可仕旨、各一決仕候段申演、且密事を談し候由、其節之返書
  御両人被成御越様子承届御存分無余儀候、仍今度各丹後へ御座有度之旨御肝煎之段幽齋・越中殿へ懇ニ可申候、其段ハ無御油断通尤ニ候、丹後之
  事も堅固之由候間、此上は上方之一左右御聞候ハで不叶儀候、目出度内海送可申候、猶御両使へ申候間不具候、恐々謹言
                                                 如水軒
           八月一日                                   円清 判
               松佐渡殿
               有四郎右衛門殿
                        御返報
かくても各丹後の事道や無心元、何とそ帰国いたし度存居候処、播州姫路辺より慥なる人木付に来り此人家名不知、中村甚左衛門書状到来、丹後之国は幽齋君思召を以、宮津を初久美・嶺山其外の端城共悉く引払ひ、田辺一城に集り堅固に御籠城被成候由申来候間、少心を安んし、しかれハ帰国候とも城々かゝ
へ候儀は不相成、田辺は幽齋君御老功の御事なれハ、容易落城ハ有間敷、又此所を打捨まはらかけに罷上るも本意なき事に候間、弥城を相守、如水・清正等遂相談、追々敵地ニも可相働と議定候なり、又肥後より日下部与助被差越兵粮之儀府内より可被入由也、廿九日の使札八月二日ニ到着
  態以飛札申入候、其元御仕置如何候や、御心元なく存候、万御隙を被明候ハゝ此方へ御出可有候、面談を以可申承候、随而兵粮抔有間敷と存候間、
  府内ニ而相調入候様ニと申付候、如何可有之や、不存候、委曲立本方より可申候間委細ニ不能候、恐々謹言
           七月廿九日                              清正 在判
               松 佐渡殿
               有四郎右殿
                     御宿所

      覚
 一、府内より兵粮之事
 一、松佐御上洛候ハゝ、有四残り候始末之事
 一、其御城如水御請負候ハゝ何レも一同ニ御上洛之時之事
 一、如水御請をひなく其御城ニ御入候時之事
 一、此方へ御越候ハゝ、北浦へ松佐御一人ニ而も又ハ有吉同前ニ御上り候共、御談合之上ニ而御報ニ可承事
 一、御両人此方より御上り候共、御家中衆其下々を船数ニ而ハけつく(結句)路次如何敷候まゝ、とても主計可罷上候条、其時御同船可然候、其間ハ此
   方へ御逗留可有事
 一、各一同ニ御上洛、此方より人数遣候時、誰々ニ而も士衆御一人被置候事
 一、此内ハ何レニ成共相極候得ハゝ、我等飛脚ニ而も与助(日下部)ニ而も帰り候時、御両人之御使一人可被下候、夫も夫より直ニ御上り候得ハ不入
   候、如水と御談合不相済、此方より之申分御同心ニおゐてハ一人可被下候事
 一、御兵粮入候而草与助府内ニ被遣候ハゝ、猶以我等者ニ御一人可被下候、夫迄もなく急キ松佐此方へ御越候か、又各一同ニ御越候ハんならハ夫
    ニ可随候、其御城御明候而ハ如何ニ候間、右之分ニ御沙汰候而一同ニ此方へ御上り有度候へ共、先々松佐迄御越尤ニ候、左様ニ候ハゝ此方よ
   り人数可遣為ニ候、以上 

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全国の「都甲」さん集結 ゆかりの地巡る

2013-05-13 14:44:24 | 新聞

 今日の熊本日々新聞は、全国の「都甲」さんが熊本を訪問されたことを報じている。
         http://kumanichi.com/osusume/hotnews/kiji/20130513001.shtml 
26人の方が来熊されたというが、随分枝葉を広げられていたことが判った。

随分以前、あることで都甲氏のご子孫を探そうと、電話作戦を取りご当代に二番目の電話で巡り合った。
「子供がいませんから」と仰り、関係する遺物は「島田美術館」に寄贈されたとお聞きした。
そんな品物を展観されている写真が、新聞記事でも紹介されている。

ちなみに小説「都甲太兵衛」はまだ青空文庫では読むことが出来ない。私のサイトでご紹介しているのだが、青空文庫さんで取り上げていただければ、こちらは撤退しても良いと思っているのだが、そう思いながら五・六年経過してしまった。
         http://www.shinshindoh.com/tokoutahi.htm 

 

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水野勝成覚書つれづれ

2013-05-13 12:57:17 | 徒然

 六月の熊本史談会の史料にしたいと思い、「水野勝成覚書」を読んでいる。勝成は永禄七年の生まれで、天正十二年21歳の頃父・忠重から勘当された。慶長三年家康の取りなしにより父と和解するまで、14年程牢人生活をしている。そんな中、佐々氏の肥後国一揆との戦いや、小西氏の天草五人衆との戦いに加わり幾たびもの功名をあげている。「水野勝成覚書」では「牢人仕候時分之事」として、この時代の勝成の事が書かれており、熊本における国衆一揆の史料と併せ読むとなかなか面白いと思っている。

話はそれるが、私の歴史狂いの入り口は、小学校時代に担任のO先生が読み聞かせてくれた「義経記」であるが、なんといっても熱中したのは、山岡宗八の「徳川家康」であった。なかでも「お大の方」のフアンと相成り、読みながら涙したものである。「お大の方」は水野氏、勝成からすると伯母であり、家康は義従兄である。妹・清淨院は加藤清正の継室となりその息女・八十姫(あま姫・遥林院)は徳川御三家・徳川頼宣に嫁いでいる。孫にかぶきものの水野十郎左衛門などが居り、勝成にもそんな気質があったのかもしれない。
勝成は加藤家の改易後熊本城の受取のために来熊しており、其の時妹清淨院を連れ帰っている。又天草島原の乱にも出向いているなど、熊本とは大変縁が深いものがある。これは勉強しておかなければ失礼であろうとの思いである。 

私の手元にある宮村典太書写の同文書は、その出典が明らかではないが、早稲田大学図書館が所蔵する同文書に類する、熊本藩士・井沢幡龍書写本であろうと思われる。福山城博物館友の会発行の「古文書調査記録第一集・水野勝成覚書」は、寛永十八年勝成が、徳川家光の命により将軍に献上したものとされている。井沢幡龍が書写したとされる原本はどこから出たのであろうか。いろいろ書き込み(私云)があるが、水野家の物にはこれがなく全く別物であろう。

    水野家本                山家    あい府              くまべ丹波
    早稲田大学図書館蔵本       山鹿   相府(私ニ云・隈府)   熊井丹波(私ニ云・隈部)   
    宮村典太書写本            山鹿   相府(私云・隈府)     熊井丹波(私云・隈部)

 

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