津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

何とも気になるニュース

2013-05-24 20:01:55 | 徒然

 誠に気に成るニュースです。これは早々に購入して見て見たいものです。

 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130524-OYT1T00725.htm?from=ylist 

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石垣原の戦い・14

2013-05-24 06:39:47 | 史料

    立石軍記、大友宗巌ハ蘘祖左近将監義直元久年中初て当国入部の時、居をしめける佳例を遂て石垣原・立石の山上に要害を構へ、三千二百余
    兵を卒し楯籠り、且従士柴田小太郎を遣し木付領に一揆を起さしむ、細川か城代松井・有吉是を聞て両葉の時に是を断んとて軍兵を帥ひ、九月六
    日敵陳を襲ひ大に奮ひ闘ひ、柴田以下尽く斬得す、然といへとも大友は木付の城を抜て居城にせんと欲しけれハ、重て多勢を遣し彼城を攻打しむ、
    素より城兵は金鉄の勇士、義を重し拒き戦けれとも、寄手の猛勢欺き難くして、遂に外構を破られ二の曲輪を抱て防戦す 中略 斯る所に木付より羽
    書来り如水披閲せしむるに、賊兵勃興の由急を告て敢て加勢を乞ハさりしけれハ、如水甚た松井・有吉か勇敢を称美し、彼城の陥らさる以前速に
    後援をなすへしとて、其勢の内三千を分ち、高田と富来の間赤根か嶽と云所より先達て木付表へさし遣す 中略 、如水か魁兵既に攻近付よし聞へ
    しかハ、木付の寄手囲ミをて立石へ引取けるに因て、如水か勢は木付に戦へき敵なき故立石を攻んと馳行処に、木付の城兵も又是に加り発向す、
    爰に於て大友方ハ遮て是を防んとて、立石より半里許り前速見郡石垣原と云所まて 中略 を初め数千人打向ふ 中略 、如水勢及細川か従卒討取
    首数四百余級に及へりと云々
    同書同日の晩景に、如水は立石城より十八町前筑紫領石垣村の上実相寺山に着陳す 中津より十弐里余 と云々
    三河風土記に、大友義統当時浪人にて九州に蟄居す、然るに今度諸国擾乱に及ぬれハ、密に一揆を企て本意を達せんとす、旧好を思ふ者多く早
    速大勢馳集り、石垣原・立石に要害をかまへ近郷を乱妨す、細川家来有吉・松井聞之、先する時は人を制するに利ありと、九月三日の未明に軍兵
    を卒(率)彼地に逆寄す、大友方只今寄来むとハ思寄らす以の外騒動す、大友か家臣柴田小太郎自ら切て出、大勢に渡合是も終に討死す、軍将す
    てに被討けれハ此手の一揆悉く逃失ぬ、忠興の軍兵一戦に打勝、早速に木付の城に引入堅固に城を堅めけり 中略 義統口惜事に思ひ、一族良等
    (郎党)其外馳集る一騎勢都合三千二百余人、九月十二日木付の城に押寄七重八重に取囲んて息をも不継攻たりける 中略 黒田如水木付の城の
    後詰に来由、大友か陳に聞へけれハ、敵を前後に受てハ大事也と、木付の城を巻解し、石垣原に引入る、城中の軍兵は籠を出たる鳥のことく悦事
    限りなし、黒田如水ハ道に軍兵馳付、直に高田の城に寄けるに、竹中源助か留守居の兵不叶と思ひ降を乞、先手に加り夫より臼杵の城に押寄れ
    ば、太田飛騨か留守居の兵も如水に加ハり、豊後府内の奉行も馳加り、黒田か軍兵二千余人になり直に石垣原に馳向ふ、松井・有吉ハ先達而立
    石に押寄せ、大友か与力を攻けるに、一騎かた無利して既に打破らるへきを、家人吉弘加兵衛と云者垣見の城に在しか、勝誇たる細川勢の後より
    打出、加兵衛自ら先登して短兵急に攻付れハ、松井・有吉か両勢不思寄、殊更戦疲れし軍兵なれハ、散々に揉立られ敗北する事二十余町、去とも
    吉弘か軍兵ハ多く歩行立なれハ、馬武者を追ふ事不能、依之松井・有吉漸に落延、実相寺山に楯籠る 中略 大友方の軍兵実相寺山を取囲ミ散々
    に攻戦、黒田如水方より久野四兵衛と云者を援兵に遣し、大友勢兵を分防之、大友方は大勢なれハ四兵衛を追取こめ、火水になれと戦ひける程
    に、四兵衛ついに討死、大友勢弥機に乗り残兵を討んとす、黒田か郎党井上九郎右衛門これを見、残兵を下知し命限りに攻戦 中略 、大友か軍奉
    行吉弘・宗像二人とも討れしかハ、此手の軍兵悉く敗軍す、黒田か援兵機に乗し直に進んて実相寺山ニ入、松井・有吉大ニ喜、後詰の勢と一手に
    なり木戸を開て突て出る、義統か軍勢ハ皆一揆の集り勢なれハ、馬武者ハ少く多くハ歩也、殊に黒田か援兵に頼切たる吉弘を被討落、心付し軍兵
    共黒田か勢に被駈立散々に敗北す、義統何と下知すれとも耳にも不聞入、我先にと落行ぬれハ、義統今ハせんかたなく石垣原に引取ける、此石垣
    原は砦とハ云なから、其地形嶮岨にして要害甚堅固也、黒田・細川の両勢一日一夜攻れとも城兵堅く守て防戦ける間、寄手被討のミにして落へき
    術なし、此時如水も来りけれハ、諸士を制し申けるハ、此要害中々力攻に叶へからす、味方を損ん事無益なり、たゝ遠巻にして敵の英気を醒すへ
    し、と遠巻してそ居たりけると云々、
    大友興廃記も大略同之、又一書、松井か幕を吉弘奪取ると有、誤なり、又一書に、大友譜代相伝の家人共を催し、其勢弐千三百余騎、木付之城を
    稲麻竹葺のことく十重二十重に打囲ミ、もミにもふて攻たりける、松井・有吉世に誉れ有勇士なれは、多勢を以攻るといへとも事ともせす、日々に切
    て出威をふるひ相戦ふ、然といへ共城中糧とほしくなりてすてに難儀におよふ、かゝる所に黒田勢後詰して吉弘等とつよく戦ひ、敵軍しとろに成、城
    中より是を見て勝ときを作り討て出もみ合せ戦ひけれハ、さしもの大友勢あなたこなたへ敗北すと云々、
    考ニ此説々多くハ相違のミなり、右の外にも石垣原合戦の様子を黒田勢先に取結ひ、後木付勢かゝり候様に記し、前後混乱したる書紀多く有之候、
    しかれとも如水の書状に羽越中者一番合戦いたしと有之にて、右本文の通なる事可辨なり、
    又一書、石垣原合戦を十五日と有ハ誤なり、

十五日、松井・有吉如水の本陳に至り候に、長臣各列座にて互に勝利を賀し、軍物語等有り、松井申候ハ、此度の戦に井上九郎右衛門働目を驚し候、又せり合の時に茜のしなひ差たる武者手の者を引まとひ、横合より突懸り被申たる、始終の働見事也、又今一人大差物を差たる武者勝れたる走り廻りなりと申けれハ、如水、其大差物とあるハ大塩喜平次 後御家に来り金守将監とあらため申候 事なるへし、又茜のしなひと被申ハ末座に扣たるあの世倅か事也、とて野村市右衛門か方を見て、彼は母里太兵衛か猶子にて十六より今年十九迄戦ひを勤め、高麗に於ても武功度々なれハ今度の働きなとハ珍敷からぬ也、又一昨日討死せし久野次右衛門ハ太兵衛か為には聟也、高麗にて市右衛門と同時に鑓を突んとせし処に、馬を乗倒し後れし事を内々口惜く思ひしが、今度したるく働て討死したるにやと物語有けれは、松井・有吉末座に下りて市右衛門に向ひ、貴殿の御事如水公御物語にて承候ひぬ、誰人とも不存先程より無礼申つるなりと挨拶して、又両人母里太兵衛に向ひ、次右衛門殿御討死ハ兎角可申様なし、乍去市右衛門どの御功名に於てハ御祝着たるへし、と挨拶いたし候也、如水は松井・有吉を始め木付勢の戦功を感し、殊に魚住右衛門兵衛に感状を与へられ候、

                                   IMG_1236.JPG 

        (ご子孫からご提供いただいた魚住右衛門兵衛に宛てられた如水の感状、下の文面にある (イ間)であることが確認できる) 

    一昨日之御働、手柄之段、松佐州・有四郎右御物語候、於拙者満足不過之候、今日爰元相済候(イ間)、明日其地江参、面を以万々可申入候、
    恐々謹言
        九月十五日                    如水軒 書判
        魚住右衛門兵衛殿
                   参御宿所
    九州記に桑原才蔵にも感書を与へらると有、
    関原軍記大成に中村平左衛門 一ニ庄右衛門 と申者、魚住と同様に働、如水より感状を与へられ候と有之、考ニ、木付勢の内に中村平左衛門と
    云者有けるにや、覚束なし、如水記ニ云、松井・有吉御暇申罷出候跡にて色々の批判有、如水宣は、松井と有吉と武士の位は遠々と違たる由、兼
    て聞及たるか、誠に違たるもの哉、両人ともに昨日合戦の砌ハ、此実相寺山に打上り見物して居たり、有吉ハ巧者なるにより、正敷見物したるとハ
    不語、松井は平日の利発と違ひ武士道無案内なる故、先程より具なる物語、偏に気遣ひなき所に居て見物したると名乗はかりなり、若きもの共ケ
    様の事共能々可心得事なり、己か手前閙敷(サワガシ)けれハ人の働きまて見へさるもの也、是程に心を付よと被仰候と云々、此書に依て考候に、松
    井か此時の物語ハ、武道鍛錬の一ツと聞へ申候、其故ハ最初木付勢戦ひはしめ勝利を得候に、時枝等敵に被押立、久野・曽我部討死して中津勢
    こと/\く敗軍におよひ候間、木付勢も勝軍しなから戦地を甘け候得とも、本の実相寺山に打上り、是よりハ一足も引じと誓ひ、尚又戦ひを以て鉄
    炮せり合仕候内、井上・野村か勢大伴方と戦ふ間ハ、暫人馬の息をやすめ塩合を見合居候、其内ニは敵味方の働いさいに見届候ハん事、是又武
    士の心かけ也、暫く息を休むる内も虚なき事にすへき也、如水の書簡に今度大伴討果候刻、羽越中者共一番合戦いたし、松井・有吉自身手を砕、
    無比類働と有を以、木付方の戦功は云に不及也、我手の事を飾るへき為に後年筆者誤り候て右之通記し候か、飾るへきとて却て如水をあしく書な
    し候、惣て如水記ハ偽書なるへし、又先年松井湊川戦功の砌より、如水不快ニ被存候間、何かに松井をおとしめられ候かと云説も有之、是も信し
    かたし、如水もさすかの人なれハ左様の事ハ有之間敷候、木付に心を被添候事にて相知候也、又松井を有吉よりはるか武道ハおとりたると被申
    候事、不都合の事に聞へ候得とも、其比人ニよりてハ左様に心得たるも有之候歟、武辺咄と云書に、細川越中守家臣松井佐渡守・有吉頼母佐は
      私ニ云、武蔵と取違たるなり 大剛の兵にて牛角の家老なり、佐渡守及末期遺言に、士は武道一通りかよし、其謂ハ我歌道・茶道・辨舌・公儀能き故武辺
    ハ脇に成たり、場数ハ有吉に二度多けれ共、世上にてハ公儀分別ハ松井佐渡守、武道ハ有吉頼母佐といふと聞、士ハ只武道計にて其外ハ無調
    法なるかよしと申きと云々、
    又或人の咄ニ、黒田如水近習の侍に向て被申けるハ、細川忠興ハよき家来を持れたり、羨敷き事共也、夫をいかにと云に、我等たとへハ二万の人
    数を指麾すへし、忠興と我等とハかはる事なけれとも、忠興二万を指麾せハ松井残る一万ハ指麾すへし、と被申たりと云々 

 

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