津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

七代・三宅藤右衛門の死

2013-05-25 06:31:27 | memo

明智一族三宅藤兵衛の男子三人が細川家に召しだされた折の記録と思われるものが、(綿考輯録・巻60-P242)に次の様にある。

              (寛永拾九年)十二月九日三宅藤右衛門・新兵衛・左京ニ御合力米被下候留書
                覚
            一、米九拾石     三宅藤右衛門
            一、同三拾六石    三宅新兵衛
            一、同拾八石     三宅左京
               右之合力米毎年可相渡者也
                 寛永拾九年十二月九日   御印
                            奉行中
           
考ニ、三宅藤右衛門兄弟今年御国江被召呼候なるへし

その嫡家・藤右衛門家の七代目藤右衛門亀傳の死についての記録を見出した。元々の出典は寺本見聞雑記らしいが、宮村典太の書写記録「吹奇与勢」以下にさらに書写、記録されている。名乗りを藤兵衛と書かれているが、由緒ある名乗りでありそうであったのかもしれない。
天明元年霜月(十一月)六日、藤兵衛は御許しを得て宇土支藩の御鷹場(宇土・益城之境辺南田尻村)で鉄炮を打ったところ、これが破裂(吹破り)「面躰半分吹切ウテ(腕)打居即死と云々」という事故にあっている。狩場には「弟の弓削氏并嫡子十三四同道之由」とあり、「早速駕にて宿に帰りし由」ともあって、藩庁には翌日届出がなされている。嫡子の年齢からすると、御目見は済まされていたのかと心配されるが、無事に家督している。
亀傳の死は公式には病死とされている。嫡子・英蔵が御留守居番頭に就くのは寛政九年閏七月であり、父親の不幸なる事故死から16年を経ている。

 

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