津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ガラシャ夫人御生害 ・3

2013-05-03 13:07:19 | 史料

少齋も爰にて御供可仕候得とも憚なれハとて表へ立出候、おく・霜は御形見の品々を取持御最期を見届、あやしき下女にさまをかへ密に忍ひ出る、無世(河北)ハ此間に両人よりの言上を認、家人河北助六 六右衛門子、一ニ今日丹後より御見廻に参りしとあり ・山内新左衛門ニ渡し、猶又いさい申上候様ニと云含め関東に差遣す、稲冨伊賀ハ是より先に御屋敷を立退候

    一書に、稲冨か鉄炮の弟子諸家中に多し、此弟子共使を以三成方より忠興公の御奥方を人質に取るへき沙汰あり、心得玉へと云送る、伊賀は元来
    大臆病の者なれハ、此事を聞てふるひおのゝき少齋・無世にかくと語る、両人其儀ならハ伊賀ハ西の御門に居て敵を防かるへし、我ハ御自害を進め
    んとて奥へ行、かくと申間に、稲冨は何方ともしらす逃亡しと云々、又一書に、使を以右之趣申越、預りの番所を捨立退候と云々、又一書ニ、稲冨小笠原
    ・河北と談合して居たる所に、門外に人来て逢度由を申つきけれとも、一大事の談合なれハ座敷を立兼けるを、少齋・無世、如何なる用事にか有らむ、
    対面あれかし、と申により座敷を立て門口に行けれハ、鉄炮の弟子堺の鉄炮ハりの榎・並屋なとか類ひ二三十人来つて、稲冨を賺て門外江呼出し連
    退きけれハ、幸にして逃去しを下々の者見て、寄手稲冨をとりこにせしと告るにより、少齋・石見御自害をすゝめたりと云々、又説に、御前様御迎の者
    とて大勢来るにおゐてハ稲留鉄炮を打懸よ、その響を相図に御自害を進め申さんと約を定め置けるに、稲冨早く立退ん事を思ふ折節、加賀の屋敷よ
    り娵子様御迎に来る者を寄手と思ひ、あわてゝ鉄炮を放すにより両人自害をすゝめし也、光寿院様に其時居候ものゝ物語かくの如しと云々、又説に、十
    七日の晩西の御門に大勢寄来ると騒動する故、稲留ハいかにと人を遣し見するに、はや落て見へすと云々、其外の侍小者共皆散々に落行て御門を防
    く人もなし、時刻うつりて叶ましと御奥へ参り御最期の時にて候と申上けれハ、其まゝ御支度被成御自害候を、正齋介錯仕候はんと立より候へとも、目
    くれ心きへけれハ御次の間に出て前後を忘し居けるに、石見涙を押へ、はや敵近付たりと申けれハ、是非なく立より介錯仕候と云々

偖(サテ)蔀遣戸を御死骸のあたりへとりかけ、御自害の間より奥方の戸まて鉄炮の薬をまきつゝけ火をかけ、少齋・無世一所に有て、武士も武士によるへし、日本に名を得たる越中守か妻敵の為にとらハれにならんやと声々によはゝり、一同に切腹いたし候 一ニさしちかへて死するとも有 河北か家人河北六右衛門両人を介錯して、其身ハ台所の土間にて腹を切
    一書、腹を切、無世か死骸に重て死するとあり、又一書、河北六右衛門ハ実は無世か甥と有、霜覚書ニも其通に見へ候得とも、河北か家系ニ見へ申
    候、洩候哉難計


金津助次郎、少齋と共に馳廻り御死骸のあたるへ猶燃草を投込、所々に火を散らし、台所にはしこを掛け、屋根の上にて大肌抜きつゝ立、われらハ金津助次郎と云もの也、越中守奥方御生害にて、少齋・石見も殉死を遂け畢ぬ、士の腹切て主の供する様を見よと声高に呼り、立腹切て焔の中に飛入りしたりとなり、言上の表にはのせす候へとも、諸人の耳目を驚し勇猛の振舞なり
    一書ニ、助次郎も腹切へき気色なれハ、其方事切腹せすとも苦しからぬ者なりと、少齋も石見も制止けれとも、明智殿より付参候と云義を立、自殺
    せしハ逸物の男なりと云々 

飛脚の両人は難なく御屋敷を出て弐丁計行延ひ、跡を見るに猛火さかんに見へけれハ、介六ハ新左衛門に向つて、最早石見殿も御自害と見へたり、主親の最期を見捨て一足も先ヘハ行れすとて、立もとり煙の内にかけ込空くなる、山内は大切の御使なれはと思ひ夜を日に継て関東江走下り候

    忠興君此時の御屋敷跡を玉造の焼屋敷と云、今は越中町と申候、されハ都鄙其かくれなく御義死を感歓いたし候となり、小笠原・河北・金津等か
    振舞聞人ことに歓美いたし候となり、此御節義によつて大坂城中にも評議変り、諸大名の内室を人質に取事相止候、如此の類ひ有之時は弥敵に
    成人多かるへきとの事なり、無程関東御勝利、諸将を重く被賞候時、家康公御直の仰に、今度忠興の妻義を守て自害せしむるの間、三成怖れて
    人質を取入る事ならす、今悉く諸大名の人質を返す事を得たり、是皆忠興夫婦の忠義也、されとも忠興心底の程ハ察入候と宣ひ、忠興君有難き
    御意の旨奉謝候、後に大坂御陳の時秀忠公より御台様江松田六郎左衛門・筧助兵衛を附させられ候砌、御直の上意に、先年細川越中守妻女義
    死の節もよき者とも附居たる故、末代まての名誉両人も存知の事なり、御供江被召連度思召候得とも御大切に候間、御台様へ被為附候由被仰出
    候と也、忠興君今度関東御出陳の時上様ニ御歌を被進候よし
        なひくなよわかませ垣の女郎花男山より(イニ・あらぬかたより)風ハ吹とも
    是石田方よりもし人質なと等(ママ)可取事もあらんか、其時御同心被成間敷との御心となり
      一説ニ、此御歌は太閤諸大名の奥方を被召候時、忠興君ハ御在国にて丹後より参らせられ候と云々、又説に上様より
        なひくましわれませ垣の女郎花男山より(イニ・あらぬかたより)風ハ吹とも
      と云あふむかへしの御返歌有と云々、考ニ両説ともに信用しかたし、又一書、秀林院様御辞世の和歌
        ちりぬへき時しりてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ 

 

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水道橋駿河台

2013-05-03 09:05:50 | 徒然

                                           

季節柄でかい鯉幟があがる広重の「名所江戸百景」から、「水道橋駿河台」を取り上げてみた。
右下に見える橋が「水道橋」だというから、左手は東京ドームがある辺りだろうか。昇りや吹き流しも見える所を見ると今も昔も変わらぬ風景に思える。
おなかの所には世界遺産富士山を配するなど、見事な構図である。 

          ツツミ様からいろいろご指摘いただき、どうやら逆さまに理解していたようです。江戸切絵図など取り出してみて、ようやく理解に及びました。
      御礼申し上げます。 5・4 13;00
       


 

コメント (3)
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