津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

夏日つづき、いささか疲れ気味です・・・・

2013-05-26 15:57:00 | 徒然

 熊本は五月の内今日で10日目の夏日となりました。今月はあと5日ありますから、ひょっとすると月の半分が夏日と云う事に成るのかもしれません。
毎年五月の夏日は2-3日ですから異常としか言いようがなく、五月上旬からの急激な気温の上昇に体力がついていけず、71爺はいささかばて気味の毎日です。
昨日・今日とさいわい涼しい風が吹き抜けていますから、まだ冷房を入れるまでには成りませんが、短パン・Tシャツという出立です。
ここ四五日は十時ころにはベッドに入り、約九時間ほどの睡眠をとっていますが、からだのだるさがとれず、毎日椅子にもたれかかってウトウトする有様です。

pm2,5とやらのせいで、空はどんよりしていますし、雨も4月13日以来降っておらず空気は乾燥しきっていて、そろそろ雨が待たれる所です。
しかしあと二週間か20日もすれば又うっとうしい梅雨に入るのですけれども・・・・・・

なんだか今年は夏バテしそうな感じがします。つくづく齢を重ねたことを実感させられます。ブログの方も「石垣原の戦い」が最終に至りましたので、これからは少々ペースダウンしようと思っています。

皆様もどうぞ体調を崩さないようにご注意ください。
 

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上天草市史・大矢野町編2 「大矢野氏の活躍」

2013-05-26 10:50:12 | 熊本史談会

上天草市史大矢野町編2 中世

御紹介が遅れもう一週間もたってしまったが、熊本史談会5月例会に於いて購入した。
「蒙古襲来から戦国期にかけて活躍した大矢野氏の足跡をたどる」佳書である。

お問い合わせ   上天草市役所 教育部(教育委員会) 社会教育課 生涯学習係 TEL:0969-28-3361
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幕末の玉名で西洋銃製造 詳細な古文書見つかる

2013-05-26 08:14:51 | 新聞

昨年10月24日、平田稔様から御著「幕末熊本の軍制と鉄砲」をご恵贈いただいた。

                                        

南関・玉名地方での熊本藩の鉄炮製造について、並々ならぬ熱意を以て研究にあたられていた。その一部はこの著の中にも紹介されているが、玉名亀甲の名刀・胴田貫の技術集団が銃の製造にあたっていたことに確信を持っておられたようだが、その確たる証拠が得られないでいた。今般その事を裏付ける資料が発見された事が新聞に報じられた。

今日の熊本日々新聞のWEB版の記事である。http://kumanichi.com/news/local/main/20130526001.shtml

私事で恐縮であるが、私の姉が亀甲の小山家に嫁いでいる。西洋銃製造の総責任者として小山寿太郎の名前が見受けられるが、その家系を詳らかに承知していない。今は亡い姉夫婦の話では、広い屋敷内にある畑を耕していると、鉄滓が地中から見つかるという話をしていた。
今般の古文書の発見で、平田様の更なる研究に拍車がかかると思われるが、小山家についてもいささかの情報が得られるものと期待している。


きのうのブログで、三宅家七代当主の鉄炮の破裂による事故死について記した。この事故は天明元年の事である。鉄炮製造が未だ完成されたものでないことを伺わせている。今般のこの洋式銃の製造は、古文書から安政年間であることが判る。約80年程経過しているとはいえ、技術の進歩と技術者たちのあくなきチャレンジに驚かされる。平田様のレポートが待たれる。 

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石垣原の戦い・16

2013-05-26 07:15:50 | 熊本史談会

 立石表於鑓下
   討捕首注文
首二  松井     やり下蒙手疵
首一  有吉     やり下
首一  魚住右衛門兵衛   同
     丹後にて被召出御知行三百石被下候、此節之御加増千七百石都合弐千石被仰付名を加賀と改被下、御鉄炮五十挺御預被成候、其後病死、
     其子与右衛門別禄三百石被下加賀果候以後弐百石御加増、於豊前病死、其子武右衛門当御国にて忠利君より新知百五十石被下候、今の
     辰之允祖也、加賀二子与兵衛休無様へ被成御附休無様より御知行三百石被下候、其子源右衛門与八郎様御供ニて御国へ罷越候処、光尚
     君より御知行三百石被下、今の源次兵衛祖なり、右与右衛門二男市郎右衛門有馬御陳にも罷越候、御帰陳の上御中小姓与ニ被召加、貞享
     二年新知二百石被下、今の市大夫祖なり
首一  桑原才蔵  同
     初才助、後加賀、又改主殿、丹後にて百石豊前ニて千五百石、一ニ加賀子とあり
首一  可児清左衛門  同
     丹後ニて百石、豊前にて弐百石、今の清左衛門祖なり
   松井者
首一   松井加兵衛   同
   
首一  坂本三郎右衛門  同
   
首一  田中清三   同      盛重後号松井角兵衛
   
首一  中川五兵衛  同     中川伊与 子有重
   
首一  平位助大夫  同
   
首一  近藤弥十郎  同     正元、後加兵衛、又八兵衛
   松井者
首一  上原長三郎  同     後号九郎右衛門、於原城討死、貞久
   
首一  吉六
   
首一  孫七
   有吉内
首一  岸助之允   鑓下    一ニ後号谷村左兵衛と有ハ誤也、谷村左兵衛ハ始長次郎と云、中比助兵衛と云岸助之允とハ別人也
   
首一  八坂又助   鎗下    後号角兵衛
   
首一  葛西彦四郎  同
     翌年惣兵衛と改、其後惣右衛門と改、岐阜・関ヶ原に出たる九兵衛弟なり、九兵衛ハ翌年九左衛門と改

   以上拾九
 

  義統之衆討死分

吉弘加兵衛     宗像掃部     木辺左近     竹田津志摩     豊饒弾正     清田味左衛門(イ唯右衛門)
豊饒新助       上野六部     原田舎人     深津七右衛門     下部治部     今村喜助
今村弾助       冨来兵内     吉良伝右衛門     原田勘右衛門     田尾(尻)吉蔵     伴覚右衛門
小田原又左衛門     市川次郎作     永富九郎     原田勝六     橋本加右衛門     原田休伝
深津かに(蟹)助     野上平助     柴田次右衛門     平林津助(運ノ天助也)     秋岡式部     久光道有
山下豊前      大津か主馬        胡摩津か(駒塚)与七     久我流治     しょうこノ(城後)覚内     中村左京
中村三郎      長松(橋)新左(右)衛門     小木(堀)兵庫     坂井五右衛門     石懸(辺)半助  胡摩津か(駒塚)左近     
覚蔵坊        甲斐新八     石懸(辺)六助     かすや(糟屋)内助     臼杵九兵衛     市川喜助
臼杵忠右衛門      川(河)野兵助     川(河)野伝兵衛     曽我衆右衛門(藤蔵)   坂井宗(半)助     上田七内
    都合五十四人かしらぶん、右之外かしらふんのもの手負八十人計御座候由候

       考ニ、此目録之内平林津助ハ十日夜明て今井惣兵衛木付城下にて射殺と前にあり、名有士ゆへ態と書入るか
       九州記に、細川手に士の首十九、雑兵の首六十余討取と有 

コメント (2)
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