津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

何とも気になるニュース

2013-05-24 20:01:55 | 徒然

 誠に気に成るニュースです。これは早々に購入して見て見たいものです。

 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130524-OYT1T00725.htm?from=ylist 

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石垣原の戦い・14

2013-05-24 06:39:47 | 史料

    立石軍記、大友宗巌ハ蘘祖左近将監義直元久年中初て当国入部の時、居をしめける佳例を遂て石垣原・立石の山上に要害を構へ、三千二百余
    兵を卒し楯籠り、且従士柴田小太郎を遣し木付領に一揆を起さしむ、細川か城代松井・有吉是を聞て両葉の時に是を断んとて軍兵を帥ひ、九月六
    日敵陳を襲ひ大に奮ひ闘ひ、柴田以下尽く斬得す、然といへとも大友は木付の城を抜て居城にせんと欲しけれハ、重て多勢を遣し彼城を攻打しむ、
    素より城兵は金鉄の勇士、義を重し拒き戦けれとも、寄手の猛勢欺き難くして、遂に外構を破られ二の曲輪を抱て防戦す 中略 斯る所に木付より羽
    書来り如水披閲せしむるに、賊兵勃興の由急を告て敢て加勢を乞ハさりしけれハ、如水甚た松井・有吉か勇敢を称美し、彼城の陥らさる以前速に
    後援をなすへしとて、其勢の内三千を分ち、高田と富来の間赤根か嶽と云所より先達て木付表へさし遣す 中略 、如水か魁兵既に攻近付よし聞へ
    しかハ、木付の寄手囲ミをて立石へ引取けるに因て、如水か勢は木付に戦へき敵なき故立石を攻んと馳行処に、木付の城兵も又是に加り発向す、
    爰に於て大友方ハ遮て是を防んとて、立石より半里許り前速見郡石垣原と云所まて 中略 を初め数千人打向ふ 中略 、如水勢及細川か従卒討取
    首数四百余級に及へりと云々
    同書同日の晩景に、如水は立石城より十八町前筑紫領石垣村の上実相寺山に着陳す 中津より十弐里余 と云々
    三河風土記に、大友義統当時浪人にて九州に蟄居す、然るに今度諸国擾乱に及ぬれハ、密に一揆を企て本意を達せんとす、旧好を思ふ者多く早
    速大勢馳集り、石垣原・立石に要害をかまへ近郷を乱妨す、細川家来有吉・松井聞之、先する時は人を制するに利ありと、九月三日の未明に軍兵
    を卒(率)彼地に逆寄す、大友方只今寄来むとハ思寄らす以の外騒動す、大友か家臣柴田小太郎自ら切て出、大勢に渡合是も終に討死す、軍将す
    てに被討けれハ此手の一揆悉く逃失ぬ、忠興の軍兵一戦に打勝、早速に木付の城に引入堅固に城を堅めけり 中略 義統口惜事に思ひ、一族良等
    (郎党)其外馳集る一騎勢都合三千二百余人、九月十二日木付の城に押寄七重八重に取囲んて息をも不継攻たりける 中略 黒田如水木付の城の
    後詰に来由、大友か陳に聞へけれハ、敵を前後に受てハ大事也と、木付の城を巻解し、石垣原に引入る、城中の軍兵は籠を出たる鳥のことく悦事
    限りなし、黒田如水ハ道に軍兵馳付、直に高田の城に寄けるに、竹中源助か留守居の兵不叶と思ひ降を乞、先手に加り夫より臼杵の城に押寄れ
    ば、太田飛騨か留守居の兵も如水に加ハり、豊後府内の奉行も馳加り、黒田か軍兵二千余人になり直に石垣原に馳向ふ、松井・有吉ハ先達而立
    石に押寄せ、大友か与力を攻けるに、一騎かた無利して既に打破らるへきを、家人吉弘加兵衛と云者垣見の城に在しか、勝誇たる細川勢の後より
    打出、加兵衛自ら先登して短兵急に攻付れハ、松井・有吉か両勢不思寄、殊更戦疲れし軍兵なれハ、散々に揉立られ敗北する事二十余町、去とも
    吉弘か軍兵ハ多く歩行立なれハ、馬武者を追ふ事不能、依之松井・有吉漸に落延、実相寺山に楯籠る 中略 大友方の軍兵実相寺山を取囲ミ散々
    に攻戦、黒田如水方より久野四兵衛と云者を援兵に遣し、大友勢兵を分防之、大友方は大勢なれハ四兵衛を追取こめ、火水になれと戦ひける程
    に、四兵衛ついに討死、大友勢弥機に乗り残兵を討んとす、黒田か郎党井上九郎右衛門これを見、残兵を下知し命限りに攻戦 中略 、大友か軍奉
    行吉弘・宗像二人とも討れしかハ、此手の軍兵悉く敗軍す、黒田か援兵機に乗し直に進んて実相寺山ニ入、松井・有吉大ニ喜、後詰の勢と一手に
    なり木戸を開て突て出る、義統か軍勢ハ皆一揆の集り勢なれハ、馬武者ハ少く多くハ歩也、殊に黒田か援兵に頼切たる吉弘を被討落、心付し軍兵
    共黒田か勢に被駈立散々に敗北す、義統何と下知すれとも耳にも不聞入、我先にと落行ぬれハ、義統今ハせんかたなく石垣原に引取ける、此石垣
    原は砦とハ云なから、其地形嶮岨にして要害甚堅固也、黒田・細川の両勢一日一夜攻れとも城兵堅く守て防戦ける間、寄手被討のミにして落へき
    術なし、此時如水も来りけれハ、諸士を制し申けるハ、此要害中々力攻に叶へからす、味方を損ん事無益なり、たゝ遠巻にして敵の英気を醒すへ
    し、と遠巻してそ居たりけると云々、
    大友興廃記も大略同之、又一書、松井か幕を吉弘奪取ると有、誤なり、又一書に、大友譜代相伝の家人共を催し、其勢弐千三百余騎、木付之城を
    稲麻竹葺のことく十重二十重に打囲ミ、もミにもふて攻たりける、松井・有吉世に誉れ有勇士なれは、多勢を以攻るといへとも事ともせす、日々に切
    て出威をふるひ相戦ふ、然といへ共城中糧とほしくなりてすてに難儀におよふ、かゝる所に黒田勢後詰して吉弘等とつよく戦ひ、敵軍しとろに成、城
    中より是を見て勝ときを作り討て出もみ合せ戦ひけれハ、さしもの大友勢あなたこなたへ敗北すと云々、
    考ニ此説々多くハ相違のミなり、右の外にも石垣原合戦の様子を黒田勢先に取結ひ、後木付勢かゝり候様に記し、前後混乱したる書紀多く有之候、
    しかれとも如水の書状に羽越中者一番合戦いたしと有之にて、右本文の通なる事可辨なり、
    又一書、石垣原合戦を十五日と有ハ誤なり、

十五日、松井・有吉如水の本陳に至り候に、長臣各列座にて互に勝利を賀し、軍物語等有り、松井申候ハ、此度の戦に井上九郎右衛門働目を驚し候、又せり合の時に茜のしなひ差たる武者手の者を引まとひ、横合より突懸り被申たる、始終の働見事也、又今一人大差物を差たる武者勝れたる走り廻りなりと申けれハ、如水、其大差物とあるハ大塩喜平次 後御家に来り金守将監とあらため申候 事なるへし、又茜のしなひと被申ハ末座に扣たるあの世倅か事也、とて野村市右衛門か方を見て、彼は母里太兵衛か猶子にて十六より今年十九迄戦ひを勤め、高麗に於ても武功度々なれハ今度の働きなとハ珍敷からぬ也、又一昨日討死せし久野次右衛門ハ太兵衛か為には聟也、高麗にて市右衛門と同時に鑓を突んとせし処に、馬を乗倒し後れし事を内々口惜く思ひしが、今度したるく働て討死したるにやと物語有けれは、松井・有吉末座に下りて市右衛門に向ひ、貴殿の御事如水公御物語にて承候ひぬ、誰人とも不存先程より無礼申つるなりと挨拶して、又両人母里太兵衛に向ひ、次右衛門殿御討死ハ兎角可申様なし、乍去市右衛門どの御功名に於てハ御祝着たるへし、と挨拶いたし候也、如水は松井・有吉を始め木付勢の戦功を感し、殊に魚住右衛門兵衛に感状を与へられ候、

                                   IMG_1236.JPG 

        (ご子孫からご提供いただいた魚住右衛門兵衛に宛てられた如水の感状、下の文面にある (イ間)であることが確認できる) 

    一昨日之御働、手柄之段、松佐州・有四郎右御物語候、於拙者満足不過之候、今日爰元相済候(イ間)、明日其地江参、面を以万々可申入候、
    恐々謹言
        九月十五日                    如水軒 書判
        魚住右衛門兵衛殿
                   参御宿所
    九州記に桑原才蔵にも感書を与へらると有、
    関原軍記大成に中村平左衛門 一ニ庄右衛門 と申者、魚住と同様に働、如水より感状を与へられ候と有之、考ニ、木付勢の内に中村平左衛門と
    云者有けるにや、覚束なし、如水記ニ云、松井・有吉御暇申罷出候跡にて色々の批判有、如水宣は、松井と有吉と武士の位は遠々と違たる由、兼
    て聞及たるか、誠に違たるもの哉、両人ともに昨日合戦の砌ハ、此実相寺山に打上り見物して居たり、有吉ハ巧者なるにより、正敷見物したるとハ
    不語、松井は平日の利発と違ひ武士道無案内なる故、先程より具なる物語、偏に気遣ひなき所に居て見物したると名乗はかりなり、若きもの共ケ
    様の事共能々可心得事なり、己か手前閙敷(サワガシ)けれハ人の働きまて見へさるもの也、是程に心を付よと被仰候と云々、此書に依て考候に、松
    井か此時の物語ハ、武道鍛錬の一ツと聞へ申候、其故ハ最初木付勢戦ひはしめ勝利を得候に、時枝等敵に被押立、久野・曽我部討死して中津勢
    こと/\く敗軍におよひ候間、木付勢も勝軍しなから戦地を甘け候得とも、本の実相寺山に打上り、是よりハ一足も引じと誓ひ、尚又戦ひを以て鉄
    炮せり合仕候内、井上・野村か勢大伴方と戦ふ間ハ、暫人馬の息をやすめ塩合を見合居候、其内ニは敵味方の働いさいに見届候ハん事、是又武
    士の心かけ也、暫く息を休むる内も虚なき事にすへき也、如水の書簡に今度大伴討果候刻、羽越中者共一番合戦いたし、松井・有吉自身手を砕、
    無比類働と有を以、木付方の戦功は云に不及也、我手の事を飾るへき為に後年筆者誤り候て右之通記し候か、飾るへきとて却て如水をあしく書な
    し候、惣て如水記ハ偽書なるへし、又先年松井湊川戦功の砌より、如水不快ニ被存候間、何かに松井をおとしめられ候かと云説も有之、是も信し
    かたし、如水もさすかの人なれハ左様の事ハ有之間敷候、木付に心を被添候事にて相知候也、又松井を有吉よりはるか武道ハおとりたると被申
    候事、不都合の事に聞へ候得とも、其比人ニよりてハ左様に心得たるも有之候歟、武辺咄と云書に、細川越中守家臣松井佐渡守・有吉頼母佐は
      私ニ云、武蔵と取違たるなり 大剛の兵にて牛角の家老なり、佐渡守及末期遺言に、士は武道一通りかよし、其謂ハ我歌道・茶道・辨舌・公儀能き故武辺
    ハ脇に成たり、場数ハ有吉に二度多けれ共、世上にてハ公儀分別ハ松井佐渡守、武道ハ有吉頼母佐といふと聞、士ハ只武道計にて其外ハ無調
    法なるかよしと申きと云々、
    又或人の咄ニ、黒田如水近習の侍に向て被申けるハ、細川忠興ハよき家来を持れたり、羨敷き事共也、夫をいかにと云に、我等たとへハ二万の人
    数を指麾すへし、忠興と我等とハかはる事なけれとも、忠興二万を指麾せハ松井残る一万ハ指麾すへし、と被申たりと云々 

 

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成果

2013-05-23 16:37:46 | memo

   「ジョンマン」以降が、四月下旬以降約一か月間のオークション成果である。それぞれ面白く、「なかなかの目利きだなー」と自画自賛している。
   本棚が前後ろ二列状態になり収納が問題になってきた。

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■5:22  三くだり半 江戸の離婚と女性たち 高木侃

■5:22  江戸時代の交通と旅 

■5:19  熊本県指定重要文化財 旧細川刑部邸移築工事報告書 

■5:16  記紀歌謡 益田勝美 日本詩人選

■5:16  流人帖 伊豆・佐渡・隠岐の流人 森末義彰編

■5:14  江戸武士の日常生活 柴田純 初版 講談社選書メチエ

■5:11  本のある生活 高田宏

■5:09  私の東京切絵図 石川昌子

■4:27  開国と幕末変革 井上勝生 日本の歴史18

■4:27  織豊政権と江戸幕府 池上裕子 日本の歴史15

■4:25  ジョン・マンと呼ばれた男 漂流民中浜万次郎の生涯 宮永孝

■3:25  郷土史誌かわら 香春町歴史探訪

 

 

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御恵贈御礼 「肥後藩参百石米良家 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜」

2013-05-23 11:04:04 | 書籍・読書

 364頁に及ぶ大部の一族の譜であるが、これはまさに近世・近代を通しての歴史書である。すばらしい御著の発刊に先立ち御恵贈を賜り、深く御礼を申上げる。著者の近藤健氏・共著の佐藤誠氏とはご厚誼をいただいているが、誠に不思議な御縁であった。その御縁がこのような形で成就したのであれば、まさに望外の幸せである。

私はこのサイトの運営を通じ、多くの細川家家臣の方々のご先祖探しの御手伝いをしてきた。
何れの皆様も、いろんな文書や記録に触れられ遠いご先祖に想いをいたされ、新たなる感慨をもってご先祖の供養をなさっている。
米良家のご子孫である近藤氏は、同様の想いをもって代々のご先祖の事蹟について詳細な検証を為された。時代に翻弄された一族の姿が浮かび上がってくる。エッセイストとしてご活躍の氏であるが、近世史家・佐藤誠氏の協力を得られ、その資料の検証など厳密を究めまさに歴史書だあると申し上げる所以である。ご一読いただき、また新たにそれぞれのご先祖様に想いをしていただければ有り難い次第である。ご一読をお勧めするものである。

いささかの御手伝いが出来たのであれば、私の誇りとするところである。

 

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                                  花乱社HP  http://karansha.com/merake.html

 

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石垣原の戦い・13

2013-05-23 07:09:44 | 史料

敵味方入乱れ互にはけしく戦ひ、可児清左衛門も敵を鑓付て首を取、此時敵軍の内より胴はかり着て鑓に赤紙の印を付進んて懸るを、有吉家士葛西彦四郎詞を懸てしハらく突合けるが、鑓付て首を取、立あかる所に、又敵壱人懸合せ彦四郎か真向を一太刀切る、彦四郎も刀を取直し切払ひ猶踏込打たる、太刀腕にかけて中りけると覚へ敵は其まゝ引取、彦四郎も面の疵深手にて追かけ不申候、谷村長次郎大勢に渡り合鑓を合、岸助之允力戦して首を取、松井家士田中清三 一ニ清蔵 ・平井助太夫・前野九兵衛・上原長三郎首を取、此外高名する者多し、其余の宮津衆はげしく働き大伴勢を馳立る
    考ニ、伊佐源七鑓脇の働能仕候由ニ而、豊前御入国の上御切米御扶持方拝領、其翌年地方ニ被直下御知行七十五石拝領と家記に有之、大槻か
    家記に、大槻仁右衛門丹後にて被召出、石垣原にて働候ニ付御知行七十五石拝領と有、須崎久左衛門も相応之働有之、其為御褒美新知七十五
    石拝領と家記に在、丹後にて足軽ニ被召出候と也、魚住家記に、市正か家来斎藤甚助と申者鑓武者を討取、分捕いたしたる刀今以持伝とあり、右
    の働等いつれも此時の事なるへし
時枝等の一手是に気を得、勝に乗て追討に敵を討取尚も進んて追掛る、敵立石際迄引付奇兵を以稠敷鉄炮を打かけ、崩る人数も一同に大返にかゝり来れハ、母里・時枝戦ひ負て引返す、松井・有吉使を馳せて、か程迄の勝軍に負軍する事やある、敵をこと/\く討取か、左なくハ本陣に追込へしと申遣せ共、聞もいれす引退く、有吉四郎右衛門は時枝かつらに麾を打つけ、返せといへとも返答にも不及、ときに二陳につゞきたる久野次右衛門・曽我部五郎右衛門云、甲斐なき事に存候や、敵の旗本を目懸真中に馳入り、大勢を討取、終に討死をとくる、当手ハ思ひ/\に敵を討、勝軍しなから、時枝を追たる敵後に廻り、敗敵も色を直し味方捴負軍に及ふを見て、康之死を究め敵中ニ馳け入らんとするを、中間弐人次郎三郎甚助轡にすかりて放さす、近藤弥十郎正元傍をはなれす、鍵鑓は田中清三取て居たる処に坂本三郎右衛門乗たて来りてしたがふ、立行も馬を乗廻し家来塩屋八郎兵衛・永野甚兵衛に申付、手負等かたづけさせ、昇さし、彦右衛門と云者を馬のそばに引付居候間、家士等見付て追々に実相寺山に引上け、もの色を見合せ候
    一書に、此折黒具足に唐冠の兜を着面頬したる武者一騎馳来り、松井殿々々々と呼掛る、誰そと問ヘハ、井上九郎右衛門と名乗て懸るも引も習な
    り、不入深入大将に似合す、如水もやかて着陳せらるへし、其時我々も一同にかゝるへし、急き打入玉へと堅く制して引返す、其時康之、有吉ハ如
    何にと尋ぬれハ、早とく御退候と弥十郎答しかハ力なく引取候と云々
    関原軍記大成に、松井佐渡・有吉四郎右衛門ハ実相寺山の南なる小山に陳をすゑたりしか、如水の先鋒母里・時枝も利を失ひ、久野・曽我部か一
    隊も引色になるを見て一文字に馳かゝり、久野か一手に備へたる黒田安大夫・池田九郎兵衛其外久野か属兵七八人、松井・有吉と一手に成て都
    甲兵部か手の者と相戦しか、忠興の兵士魚住右衛門衛・中村平左衛門傍輩に先立てはせかゝるを見て、松井か従兵中川下野・井口六兵衛・下津
    半左衛門・坂下三郎右衛門・杉崎作左衛門・今井源六等勇を震つて敵を追立、松井加兵衛・坂下三郎右衛門・前野九兵衛・近藤弥十郎・上原長三
    郎并ニ有吉か従兵岸助五郎・八坂又助・葛西彦四郎等其場におゐて首を取、久野か従兵荒槇軍兵衛は敵の物頭竹田津一卜を突ふせて其首を
    取、陳将都甲も此戦ひに討れけれハ、敵兵怺かねて引退く、然れ共吉弘加兵衛か一隊時枝・母里を追立て跡を取切やうに見へけれハ、松井佐渡・
    有吉四郎右衛門・黒田安大夫・池田九郎兵衛等敵を追捨て軍を返すと云々
    如水記に、井上九郎右衛門ハ三の目の大将にて備を立て居たりしか、我行て先手の様を可見と、唐冠の冑を着、鳥毛の棒の差物さし、唯一騎歩
    士十人はかり召連一町はかり行て見れハ、久野・曽我部討死し、松井・有吉戦ひつかれ本陳に引取ケれハ、敵方芝居に折敷扇つかひ居たり、井上
    是を見て見て能時分と思ひ、麾を以てはやかゝれと招くと云々
康之も実相寺山の方へ引取に、向の左の方に人数見ゆるは何者そ、と坂本三郎右衛門に問候に、如水衆ハ右へ敗軍仕候、是ハ大友衆と見へ候と申、何れも歩武者なれハ左あらめと云、是宗像吉弘等百四五十はかりにて、実相寺山に松井残置たる昇を見懸け来るにてそ有ける、康之実相寺山の麓に着バ河北藤平迎に参候とて出向ふ、又松井の足軽来て、あの敵へ鉄炮を打懸申へし、御覧候へ、とて一町程にて二ツ放す、康之馬をひかへて、見事討たり、供せよと云てやまに打上る、康之初め旗を立置たる所に有吉・魚住・可児等居たるに、松井来て馬より下り、四郎右衛門も下られ候へ、爰そ我々か墓所なり、是より一足も引じと誓言す、有吉尤と同する所に初め旗をあつけたる下津半左衛門は康之を待受て、やかて馬を乗下し、歩立に成て鑓を合せ敵を突倒し候を、敵大勢にて引包むにより、又馬に打乗り鑓を横たへ、輪を二三度懸け透間を見て乗抜け候也、退口に鑓を合せたりと云伝しハ是なり、夜討の時の鑓よりも是を自慢せしとなり、松井・有吉以下八分程乗下し、敵陳を窺候に、敵鉄炮を放す事雨の如く、足下に来る魚住・市正両人か前に立塞り、松井殿・有吉殿ハ大将にてハ無御座候哉、敵の望所に陳を居られ、雑人の矢先にかゝり玉ハん事口惜存候、某御楯に参候とて矢面に進ミ出れハ、杉崎作左衛門も御楯には某参候とて、矢面にふさがるを見て我も/\と進ミ出る、松井・有吉も左程には思ハさりしとて初め旗立たる所に陳をすへ、魚住組の足軽康之・立行か鉄炮の者をも前に備へ小つるへにて立て打出す、其折山下を篠の丸の黒あなひ差たる武者一騎乗立へ馳来る、其外打散たる士卒等旗を見て追々に集り人数かざみけれハ、吉弘等深入ハしたり、つゝくみ方ハなし、馬をひかへて見合居候所に、井上九郎右衛門・野村市右衛門等中津の後軍千余人走来て手痛く戦ひ、大将吉弘をも討取候 合戦の様子略之、松井・有吉は実相寺山にて人馬を休め、若井上等戦ひ利なくハ二度入替て、十死一生の戦を遂んと暫見合居候に、井上・野村等きびしく働、敵崩るべき勢ひゆへ、いつ迄見合居るへきとて鬨を発しかさよりかゝりけれハ、大友勢弥乱れ宗徒の者五六十人前後の戦ひに討死して、残る者とも立石さして逃行を、木付・中津の両勢追討に首少々討取、数刻の戦ひに味方も労れ候間、長追せす一丁ハかりにて追留め、引返して備を堅むる、折節雨ふり出数度のかけ合につかれたる上、殊に難儀に及候へとも、味方ハ弥陳を堅ふして実相寺山に居申候、如水ハ十三日の朝富来の城を巻ほくし立石表発向、途々も取合有之候間隙入、頸成 一ニ頸無シ と云所迄押来られ候時、井上等か使馳着て勝軍を注進す、如水より田代彦助を使者として感せられ、且猥に働へからす、陳を堅ふして着を可相待由被示越、松井・有吉にも岡田三四郎を以戦功を感賞有、両人対面して軍物語等有之内暮比に如水着陳あり、松井・有吉出向けれハ今日の戦功抜群なる由を被感、如水も実相寺山の北の方に陳せられ候、十四日立石へ軍勢を被向、松井・有吉も攻口を請取、打向ふ所に義統降を乞、其夜 一本十六日又十五日朝 母里太兵衛か陳所に来られ候間、如水より人を添て仲津城へ被遣候
 

 

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石垣原の戦い・12

2013-05-22 07:38:57 | 史料

十三日寅ノ刻黒田衆二千余の人数木付の城を押出す、松井・有吉も手勢を卒し魚住以下の宮津衆捴兵合千余の着到にて打出る、城の留守には松井新助吉長 沼田上野介光長庶子、康之か妻の弟後ニ河内改て蔵之允と云・松井与三 井上紀伊子・後改勝右衛門・村尾勘兵衛 初与茂助・藤村平兵衛・中川下野・井口六兵衛・中川伊与・元嶋豊後等を留て堅く城を守る
    考ニ、松井佐渡守木付へ下向時、馬乗廿一人召連候処、七人ハ興長の供をして関東へ下り、七人ハ木付の城へ残し、七人ハ立石の供に召連しと
    云り、然るに右城を守処の侍八騎にて一人の過あり、但松井新介ハいまた康之家来にてハなく、縁によつて扶持し置、其余の家士七騎なるにや
木付中津の両軍ハ難所を凌き、一騎打にあゆませ行、時枝・井上、野村等の黒田勢手の者のおくれたるを待受け、神尾山と云野山の傍におりたち居たる処に、松井康之来て申けるは 一ニ木付勢ハ所の案内者なれハ神尾山と云処にて下立、如水勢を待受とあり、昨日おの/\へ如水公まちうけんといふをも用ひられす、また此所は越中守領分なり、我等とも先を仕るへきと申をも用ひられす候、此方ハ身にうけたる敵なり、これより立石に一里内外なれハ今よりハ先を仕るへしと申けれハ、井上・野村聞て、我等は跡勢なれハ先手の者に申され候へと答ふ、松井即時枝にむかつて其旨を述けれハ、時枝聞て我々如水の先手として是まて御先をいたし、今少になり後ロ備とならん事思ひも寄らすといふて前後を争ふ、康之眼色のかはるを見て井上・野村中に入、双方の申分無余儀、馬をならへて人数を出さるへきかと申せハ、松井も承引して其旨にまかす、大伴方には黒田・細川の軍勢立石に寄来るよしを聞、宗像掃部・吉弘加兵衛を先として、宗徒の者共大勢を卒し石垣原に出張す、松井ハ士卒をすゝめ下知して先ツ兵粮を遣ハせけるに、時枝か勢実相寺の谷道へ打向ふ、敵の先手竹田津志摩是を見て狼煙を揚れハ、義統の本陳立石にも狼烟を合す、此石垣原ハ南下りにして壱里の野なれとも長ク見へて、横は実相寺山と立石の間弐十丁はかりにして、荊棘ハびこり石高くして足立よからす 関原軍記大成に、石垣原ハ東西一里南北二十四五丁の平野にて目にさはるものなしと云々、康之馬に打乗て桑原才蔵に道筋を見分よと申含め、家士坂本三郎右衛門もつゝいて乗出シ、両人鶴見の村中に入て見れ共、此程の騒動にて百姓等一人も見へす、辻堂の下に乞食の居けるに尋けれハ、如何程の御人数にても此道筋能候と教へ、大友勢打出る事を語けれハ 後に此者を尋けれとも行衛知れすとなり 、三郎右衛門立帰り彼道筋を案内し、実相寺山は打上り、此山高陽の生地なれハとて爰に旗を立備を設く、時枝ハ山谷の道を通り、一手の人数広野に北向に立、井上備は一里はかり隔て陳を張る、大友方も弐間五町計ニなりて味方の備を弓手に見なし、東向に折敷て備を立、木付勢の実相寺山へ押上るを見物す、松井・有吉山上より敵陳を下墨足軽をかけ、時枝か備もともに進ミ敵味方相懸りにせり合を始む、松井家士下津半左衛門ハ夜討の時鑓疵を被りしゆへ、木付に残し置へきと有しかとも、達て断を申、今日の昇を預りて実相寺山の八分目に立る 此山ひきゝ野山にて麓より峠迄五町有 、たとひ千万の働ありとも昇を離レ候ハゝ切腹すへしと申付て馬を進む、半左衛門野中の体を見て昇を山より下す、松井かへり見て使を立、待候へと両度迄云送れハ、先を御覧不被成哉、はや取結ひ鑓きハになり候に不心得と申せは、旗を山に立置事子細あり、不用ハ半左衛門を討て参れ、と近藤弥十郎 正元後号八兵衛 に云付て此旨を申渡によりて、本の如く昇をやまへ打揚る、先手ハ次第に詰寄敵合壱町の内外になる、坂本三郎右衛門是を見て、只今先手鑓を可仕候、是に御陳ハ如何と申す、松井時分を見合馬を乗出せハ、有吉四郎右衛門・魚住市正等同麓へ打出る、大伴勢時枝か備にしきりに鉄炮を打かくるを見て、魚住市正馬乗廻し、組の足軽をすゝめ鉄炮を稠敷打せ、松井・有吉か足軽とももおとらしと打出す、康之馬を早め鉄炮のきわにせまれハ、有吉も馬より下りて鉄炮を取る、時枝の一手ハ敵の鉄炮に打立られて進ミ得す、木付勢ハ互にしり/\と寄けるか、敵合三十間はかりにて敵を打倒せは、康之、見事なり、今一ツ、といへとも二ノ矢を込る隙なく鑓を取る、松井も鑓よといへハ長き鑓来つかす鍵鑓を差出すをおつ取て振直す処に、はや左の方ニて魚住衛門兵衛一番に鑓を合せ不相劣、松井家士中川五兵衛 後改後藤権内伊与子、一ニ五郎兵衛 有重も鑓を合せ各首を取 康之鑓場より少間あり、中津勢の方也 、松井は敵二十はかり鑓長刀にて討て懸るを、鍵鑓にて突はらひ首弐ツ討取り左の手に疵を蒙る、押並んて有吉四郎右衛門大伴方の物頭深須主水と鑓を合せ、組伏せて首を取る、松井と有吉とか間に松井嘉兵衛 後号掃部 ・坂本三郎右衛門、松井か右にて近藤弥十郎、有吉か左に桑原才蔵、其脇に八坂又助、一面に同時に鑓を合、首を取、
    一書、後に吟味の時魚住と中川と互に功を譲りけると云々、又一説、一番鑓魚住衛門兵衛、弐番桑原才蔵、三番松井十文字をつきつけられし也、
    四番有吉も衛門兵衛と立ならんて鑓を合すと云々 

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週刊新発見!日本の歴史

2013-05-21 14:50:00 | 書籍・読書

朝日新聞出版が6月11日創刊の「週刊新発見!日本の歴史」を発刊するようです。
全50冊の予定だそうで http://publications.asahi.com/rekishi/ でご覧ください。ちょっと興味をそそられますね・・・・・

           

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石垣原の戦い・11

2013-05-21 07:02:58 | 史料

外輪に居候松井家士中川下野・井口六兵衛後改将監・下津半左衛門・坂本三郎右衛門坂本閑斎(イニ水)養子実ハ荒木山城二男・今井宗兵衛後西垣庄大夫と号原の城にて討死・杉崎作左衛門康之乳母の子等直に敵に向ひ、城中よりも鉄炮を発し、魚住組の足軽汗水に成て討出す、有吉立行は此時迄も本丸に有て軍議をなしたるか、康之へ能々本丸を守られ候へと云捨て三の丸にかへり、士卒を下知し堅く城門を守らせ、鉄炮きひしく打出し、ミつから大筒を取て敵を討倒し候、此時鉄炮の者岸助之允肩台にて大筒をうたせ候なり、暁の比少雨降候へとも城下の町こと/\く焼け、漸に火もしつまり夜もほの/\と明行比、中川下野敵方上野弥平を目掛て切て懸る、弥平長刀にて渡り合、下野を溝へ切倒し首を取んと押付候を、下野か中間甚六と云者後より弥平を切、弥平ハ下野をすゝて起上る、甚六は初太刀切れさるに依て長刀を奪取て戦う処に、また下野か小姓少九郎高麗人走来るを見て、主人を退候へと申処を弥平甚六か首より左の頤(ヲトカヒ)へ切付る、さのミ深手に非されハ、長刀を捨大手を開けてつかミかゝる、弥平如何思ひけん、引退を猶取付けれ共振切て引取により、甚六と少九郎と両人にて下野を引退る、此時下野ハのどぶへをかゝれけれ共刀に取付ける故、ふゑに不当手の内をくられ候也、弥平は三ヶ所手負、甚六は五ヶ所手負
    又一説ニ、上野弥平を上野長介と記す、大反(友)かたに上野長介と云者なしと云、又説に森長介と云、是は後に森清左衛門と云て木下右衛門大
       夫殿ニ奉公す、此時吉弘加兵衛被官なりと云々
柴田小六は上野弥平を助んとて進ミ来るを、井口六兵衛渡り合、互ニ名乗て鑓を合せけるか、小六ハ左の脇をつかれ、六兵衛も疵 一ニ太刀疵と を蒙る故相引にしけるか、小六刀を抜かたハらを見廻しける処を、三の丸より放す鉄炮にて額を打ぬかれ死けるなり
    一書ニ、小六手負候間不叶と思ひ逃行を三の丸より打取と有、又一書に、有吉も鉄炮にて敵数多討倒し候に、柴田小六床机にかゝり軍卒を指揮す
    る様子、立行遥に見て小筒にてハなりかたき故大筒を取寄、鉄炮の者岸助之允か肩台にて放、小六を討取と云々、又一書ニ、松井家来合戦する
    処に、有吉四郎右衛門立出鉄炮ニて敵数多打倒し人質も過半取落す、松井も同く討出へきとせしか共有吉押とゝめ、其方は城主なり、城を守りてこ
    そ本意ならめ、と制しけれハ、尤と感心し手廻り計ニて堅固に城を守しとなり、考ニ、有吉城外に討出たるにてはなく、本丸に有けるか、三の丸に帰
    りて鉄炮を放しける也、松井も城外へ打出んとすへき様なし、前後籠城之様子考へ見るへし
又百姓逃散りたる跡の焼屋敷に敵弐拾人ハかりかたまり居けるを見かけ、下津・坂本・杉崎・今井等家来壱両人つゝ召連行しか、人顔かすかに火縄の火見へけれハ、今井惣兵衛あの火は人と見へ候、一ト矢可仕と雁股を打番ひ切て発すに、胸板のはつれを射けつり咽ひへに立て即時に死す、是運の天助にて二十七八の若者也、下津半左衛門ハ大神賢助と鑓を合せけるか、賢助ハ胸板をつかれ、半左衛門ハ左の脇をつかせ相引にす、坂本三郎右衛門ハ 一ニ杉崎作左衛門 江藤又右衛門 入江又左衛門と有ハ誤なり、又右衛門ハ武功の士、石垣原ニてもよく働たる由、衛藤元常の先祖なり と鑓を合せ、杉崎作左衛門も鑓を合せ、各手つよく相働、城中よりハ一騎もいでず堅固に守りて 稠敷鉄炮を発し、外に有合もの計働候也、吉弘加兵衛も二ノ丸迄押来りけれとも、手負討死多く城内よりの鉄炮にうちしらまされ、軍勢共町のたかみに追あけられ、手負の首をミつから取て引退く、城兵追討にせんと勇むを松井下知して不追、勝鬨を揚首共実検せしに、今井惣兵衛か討取たる者は故ある者と見へたりとて、木付右馬之允 大友家士、此時松井康之扶持ス 、清田寿閑 大友家士、此時松井康之扶持ス、清田石見父也等に問、右馬之允ハ豊饒弾正かといふ、寿閑か言ふ、是ハ運の天助とて府内浪人平林津之介と云しか、大伴につかへて武功の者なり、今日討死仕候か、とて落涙しける由、惣兵衛には褒美として即座に康之より小袖を与へ候也
    平林津之介、運は天に有と云けるを常言を以て名とせしと云り、扨此戦に野原太郎右衛門を初め城内に取込置候者共、大伴にこゝろを寄するとい
    へとも、木付右馬之允無二の忠節を存る故、返り忠をする事不叶、夜討も利を失ひ、吉弘加兵衛一生の不覚と取沙汰なり、内通の者後に顕ハれ
    て、或ハ磔にかけ、あるひは首を刎申候

十一日之朝夜討之次第を如水へ注進、木付より富来江は七里なれとも、敵地にて使之者難所をしのきける故、其日ノ申ノ 刻如水の陳に参着候、如水此注進を聞て森・小田原に残し被置たる軍勢に使を立、木付表へ打出、松井・有吉に力を添へ、我等着陳を相待候へと云送らる、此使十二日の朝森江着て口上申達ける故、二千余の 一ニ三千計 黒田勢某日木付に到着す
    一書ニ、此使ニ河北藤平参り道筋難通所を弓にて射払ひ、往来無恙木付の城に帰候と云々、如水記九州記に云、松井・有吉か注進の様最よし、
    臆して使を差こさハ加勢をこそ乞へきに其事を不謂ハ志有らん、我越中と無別儀中なるに、松井・有吉を捨、木付を敵に攻落されては無詮、後詰
    を遣せとて赤根峠と云所より引分て各を被遣候と云々、又夜討を十一日の寄る共有
松井・有吉参会して軍議しけるにも、兎角如水の着陳を待受、木付勢先手を致し立石表へ相働へしと申けれ共、時枝平大夫不承引、如水先手として我らを越被申候得は、何事も御城主次第ニ而候得共、眼前ニ敵を見懸殊に当城に取懸け、慮外をしたる敵勢を如水の手にかけさせ給ふハ口惜き次第ならすや、急き大伴を討取、立石にて如水を待申さんと評定し、ついに十三日寅の刻に木付を打立んと一決しけれハ、松井・有吉も同しく可打出と議定し、康之家士志水五郎助を使として如水江申送けるは、御着陳を待受可申と色々断候へとも、御手の衆許容なく被打出ニ付、最寄の御相談もいたつらに成、御人数の案内を仕候由申送候
    関東軍記大成に、宗像掃部・都甲兵部・吉弘加兵衛等義統の下知を請て弐千四五百を従かへ、翌十一日木付に至りひた/\と城を攻め、囲之外
    廓を攻破りけるに、黒田如水木付へ後詰せらる聞へあるにより、寄手の面々義統の下知に随つて立石は引かへす、去程に如水の先鋒井上九郎右
    衛門・野村市右衛門・久野次左衛門・時枝平大夫・曽我部五右衛門・母里与次兵衛・池田九郎兵衛・黒田安大夫等は木付の城下へ着陳せしに、寄
    手彼地を引退くによつて此上ハ立石へ馳向ひ、義統を討果すへきの相定めけれハ、忠興の城代松井佐渡・有吉四郎右衛門も千三百計にて如水の
    先鋒と一手になり、九月十二日立石へ兵を進むと云々、考ニ右之通にて夜込の事無之、日時其外相違多し 

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オークションで

2013-05-20 16:39:33 | 史料

                                                        オークションで手に入れたものです。(未だ手元に届いておりませんが・・・・)

                                                          

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石垣原の戦い・10(開戦)

2013-05-20 12:28:12 | 史料

同日九日如水より使を以相談有度事候間、四郎右衛門高森の 如水今朝中津を出馬、今晩は高森に着、十日豊後国内に打入られ候、高森は如水の臣黒田兵庫か居城なり 城迄参候様ニと申来、立行急き罷越候処に、暫く内談あつて後人数まて被為見馳走有之候、四郎右衛門やがて高森を立ち、十日帰路を急き候となり、吉弘加兵衛ハ九日富来より陸地を経て安岐の城主熊谷内蔵助直陳留守居熊谷久蔵と内談するに、木付の城に松井・有吉小勢にて楯籠り、事もなけなる体也、是を攻討て武運の程をも試ミらるへしと云けれは、吉弘同心して木付の城を可攻術(てだて)テを謀る処に、大伴旧臣都甲兵部尉木付の城にありなから、旧主に志を通し、尚城近辺へ寄られ候ハゝ、裏切すべき由言送りけれハ、吉弘歓ひ使を以義統に伺ひ、十日に人数弐百計を卒し、大内木田台若宮馬場の尾通りへ人数を繰り出す、木付の城より十五六丁ばかり也、松井康之敵の働様を櫓より見すまして申候ハ、敵白昼に人数をくり出し小人数にて城下を通るを推量するに、当国は大伴累代の領なれハ、内通の者あつて城内を焼立る謀をなし、味方を引出すと覚ゆるそとて、自ら大手の門に出て下知をなして一人も不出、此時野原太郎右衛門なと云者内通し、城を焼き立べき約をなしけるも不叶、吉弘か謀案に相違しけるとなり、其間百姓丸には下津半左衛門を遣し、番等ゆるかせになき様に尚又様子を見はからハせけるに、百姓等兼て内談し、半左衛門来らハ酒をしひ呑せ、誰ハ右誰ハ左よりよつて組伏打殺すへきと計り、半左衛門に酒を進め数盃をかたふけ酔けれとも、きこふる大兵健なる男なる故、兼ての用意と違ひおくして近付者なし 此儀は後に野原太郎右衛門以下誅せらるゝ時白状いたし候也 、偖吉弘加兵衛は森末といふ在所中野惣右衛門と云百姓か許にて弁当をつかひ、ゆる/\と休ミ居たるを、知行方に付居たる桑原才蔵其近辺に有けれハ、城内に使を立、幸の折節なれハ御討取可然や、其まゝかへし可申や、と申越候を松井聞て、左様の事使を以申条沙汰の限り也、自身来て申候へとの返事故、即刻才蔵来りけるを、其まゝ城内に留め置候、吉弘ハ城兵一向に取合さる故、無為方森末を出て上八坂を通り、日出より廿丁計此方辻の堂と云所にて日を暮し候となり、松井ハ有吉方に飛脚を以大伴方の人数少々城辺を打廻り引取候間、其心得すべき由申越候、途中にて此旨聞届立行具足を着し供の者ニも用心すべき由申付、野中にて具足箱に腰を懸、何も能折柄供に参り合、功名可仕間仕合たるの旨申、敵合近く成候ハゝ、下知に随ひ粉骨を可尽旨申渡、弁当の酒なと何レもへ給させ、葛西彦四郎ハ鉄炮之者を召連先へ参り、敵近候ハゝ鉄炮を打せ可申、其時下知を加へ鑓をも可入と有に依て、彦四郎先に参り峠を下り候、時分ハ漸暮に及ひ、山賀の谷に一揆共大勢集り候と見へ、火縄の火夥敷有之ニ付、此方の火縄を短く数々切らせ火を付て手々に持物毎に結付候得は、一揆共ハ如水より人数を付送り被申と存候哉、引退く様子にて火縄の火もなくなり候、彦四郎才覚勝れ候とて四郎右衛門大に感し候也、扨山賀の谷に下り、村に使を立飯拵等申付、夫より所々の庄屋を人質の様に致し、道筋の案内に召連れ、大伴人数の陳取たる八坂の前を通り候へとも、其節は敵引取候跡故無異儀城へ帰り、本丸に入て康之と軍議をなす、黒田如水ニも此日康之以飛脚、大伴義統昨九日申の刻速見郡に着船、立石村に本陣を被居候、急き御人数を被出、義統に勢の不付内御退治可然かと申遣けれハ、如水兼て覚悟せられしに依て、一番備久野次右衛門・曽我部五右衛門・母里与三兵衛・時枝平大夫等千余、弐番備井上九郎右衛門 後ニ周防守元房剃髪道柏と号す ・野村市右衛門・後藤太郎介 又兵衛子後隼人と号す等千余、都合二千余人国崎郡之内森・小田原に陳を張せ、其身は富来を攻られ候なり、吉弘ハ辻堂にて日を暮し、夜かけに木付を攻落すへしとて、岐部山城入道玄達一ニ玄琢・吉良伝右衛門・江藤又右衛門・上野弥平・吉弘七左衛門炮長・柴田小六・小田原又左衛門・大神賢助・富来兵内・一万田民部・平林津助此時運之天介と云、此外新参之侍十人・雑兵数百人を卒して暁天に馬場尾白水迄押来る、柴田・平林等の案内者十四五騎ハ生地通干潟伝ひに朝日寺の外一ニ下安住寺の大松の陰川辺に付節所を越、相図の火を見ると我先に城に乗いらんと進ミよる、此城の要害東南北は海にて西一方口の地つゝき也、城内には都甲兵部允相図の火を揚、其外旧主を慕ふ者多く、外輪に居たる頭百姓或ハ降参の者とも示合せ、面々の持口に吉弘勢を引入、町屋を委(悉)く焼立、都甲を初め各人質を捨て吉弘勢に馳加る、此敵方の様子世静り、大神賢助疵平癒の後、松井康之に謁して物語なり
     一書、人質の番に有ける松井家来火を消んと馳行けるに、夜討の士卒足下より起り切て入る、松井者とも防戦ひ、有吉家来谷村長次郎も其夜
     人質の番に有て俱に働、近付敵を突払ひ人質をとられす、太平の後忠興君是を賞し給ふと云々 

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那波活所(なばかっしょ)

2013-05-19 18:57:30 | memo

 那波活所(なばかっしょ)は元加藤忠廣家臣、のちに徳川頼宣に仕えた儒者で、藤原惺窩の四天王の一人だとされる。

紀伊家の家訓・頼宣の「紀南龍公訓諭」(武士道家訓集 コマ番号104)に少なからずの影響を与えたといわれる。
 
  

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石垣原の戦い・9

2013-05-19 18:03:24 | 史料

廿八日、忠興君江木付より頃日之様子等言上候

    如より人を被差下之由候条致言上候
 一、七月晦日如御使ニ捧一所候、定而可致参着候事
 一、其以後弥普請無油断申付仕置等丈夫致覚悟候間、可被思召御心安候事
 一、輝元・備中納言殿・三奉行・石治・大刑少より使として太田美作守うすけへ罷げ、右各より被対松井折紙もたせ候間、作州一札佐渡・四郎右衛門両
      人へ宛所ニ而使は差越、当城相渡候様ニと色々様々被申様ニ候、各一途に存切存之候条、別ニ御返事無之候、然上は御状共此方ニ留置不入由
   申候而、一通も不残なけ返し、重而人を被越候ハゝ討捨可申由放し使者返し申候事
 一、太田飛騨・美作親子船にて相催し、深江の古城ニ夜籠に舟を着、足懸可拵旨申候由ニ候間、本丸・二丸迄念を入引破申候、一分之働は中々成申
   間敷、日向・薩摩衆相催由申候事
 一、大友義統へ当郡之儀奉行衆より進候、中国迄被下之由候、うすき・府内・熊谷・垣見城四ヶ所之内へ被着、当郡へ之行可仕と存候、在々人質弥丈
   夫ニ明〆申候、誰々何程ニ而参候共堅固に相抱可申候条、御気遣被成間敷候事
 一、如より色々様々御心付、大筒も三丁御いれ候、先度舟ニ而御出候て被成御見廻城、無越度やうに相抱候へ、何時も可有後巻由、頼敷被仰やう申
   計無御座候
 一、主計殿追々人を被下御懇共ニ候、兵粮府内ニ而御借候而弐百石計被入候、玉薬五千放被下候、何程成共申次第可被差越旨候、御心入之段書中
   不被申上候事
 一、田辺之儀、御堅固之由候間珍重奉存候事
 一、加主御女中盗出一昨日廿六中津へ下着、昨日隈本へ御通之由如より申来候、珍重無申計候事
 一、竹豆州は煩とて于今不被上候、当城へ一段懇にて御座候事
 一、早主馬丹後へ被立候得共、内右衛門ハ一段無踈略候、万事心付ニ而御座候
 一、毛民太も丹後へ被立よし候ニ候、是も留守居者当城へ申通候事
 一、中修理今ニ不被上候、四語日以前平右衛門被上候、妻子新駿へ奉行被預候故あいしらひと聞へ申候事
 一、毛壱去十八日罷下熊本へ被越候旨ニ候、輝元奉行衆より主計殿へ使として被下候由候、今度伏見ニ而森九左衛門・同勘左衛門其外数多致討死
   候、家中弱り無正体旨ニ候、如ハ人数被集何れ成共働構ニ而候条、小倉不成大形気遣之旨ニ候、然ハ主計殿大坂へ之御返事使者ニ而被申登、主
   ハ上洛あるましきと存候、もじの城拵申由候、是も毛壱被相抱義不罷成、輝元人数可被入やうに申候事
 一、御吉左右之御返事奉待存候、此旨宜預御披露候、恐々謹言
          八月廿八日                            松井佐渡守
                                              有吉四郎右衛門
                                              魚住市正
                                              河喜多藤平
                                              松田七右衛門
                                              岡本源三郎
                                              桑原才蔵
                                              速水孫兵衛
                                              可児清左衛門
                                              上村孫三
               加々山庄右衛門殿
               牧      新吾殿
 

大友下向之儀清正よりも告知らせられ候
    急度申入候、其城之儀大友方江秀頼様被遣由にて、差下之由申上関辺迄被下候由、我等所江申越候間、城中御用心百姓等至迄御由断有間敷
    候、為其態如是候、随分各御機遣止候やうニ才覚仕候間、其首尾相調候は重而可申入候、委細之段斎藤伊豆守可申入候、恐々謹言
                                              加主
          八月廿八日                              清正
               松井佐渡殿
               有吉四郎右衛門殿
                          御宿所

 

木付の城中弥用心稠敷、寄来ル敵を相待候、大伴譜代之家臣田原紹忍・宗像掃部は義統浪牢之時名ある者なれハとて、紹忍に三千石、掃部に二千石の領地を賜て、中川修理大夫之旗下に附置る、大友下向以前には康之等へ書を通し関東御味方の由なり、此事を松井・有吉に告、又上方の様子相聞へ候間肥後へ申越候、返書同日に木付に到着
    去廿七日の御状今日廿九日令拝見候、仍田原紹忍書状之写給候、又御返事被仰遣通尤ニ候、我等方へ拵候様ニと紹忍・掃部かたより申越候、
    表向ハ 内府公へ右之両人非無沙汰之通、我々ニも表裏無之可為同意之旨誓紙を差越候、其分ニ仕置心は由断無之右之御心持御由断有之間
    敷候通、以飛脚申入候キ、今朝大坂を廿三日ニ出船之者参候、内府公廿五日に清須へ御着之由候、吉左右共相談候、下々迄其段被仰聞候、若
    大友方百姓成共催於被及行は為後巻熊本を捨候而成共、拙者可罷出候間可有其御心得候、猶伊豆守可申候、恐々謹言
                                              加主
          八月廿九日                              清正
                松井佐渡殿
               有吉四郎右衛門殿
                          御返報

    
    去十五日之御状廿七日之御報相認候、跡々参着候、大坂十八日之出船之者口上之趣、一々被仰越得其意候、此方へ廿三日出船之者今朝参着
    候、内府公廿五日清須へ御着必定之由ニ候、羽左太ハ清須を内府公へ相渡こまきを相拵被取出之由ニ候、勢州口御書中同然ニ候、長大あるの
    津辺ニ而少越度之様ニ相聞候、此面之儀伊豆守可申入候条委細ニ不能候、恐々謹言
                                              加主
          八月廿九日                              清正
                松佐渡殿
               有四郎右殿
                     御返報 

其後紹忍・掃部は大伴下向を聞て、中川をはかり義統の許に至り、毛利・石田を叛て家康公の御味方たるべき由、色々諫言いたし候を義統許容なかりしかとも、旧恩を存出し、せんかたなく大伴にしたがひ候となり、吉弘加兵衛統幸ハ柳川に蟄居したりしが、江戸に下ッて大伴義乗一ニ義延勤仕せんため、小倉より船に乗りけるに、防州上の関にて不慮に義統に対顔し此度の様子巨細に承り、是も諫を入候へとも用ひなく候間、力およハす義統に先達て引返し、豊後国富来に至り城主垣見和泉守家統留守居の者に閑話し、廻文を以速見・国崎両郡之旧臣を招く、義統九月八日の暁安岐・富来両城の間に船を寄せ、城代の者に対面し其夜又船に乗り、木付の沖を渡り高崎表に船を繋き一ニ同国深江に着とあり、宗像掃部に命して廻文をはせけれハ、旧好を慕ふ者数百人参陳す、また佐伯権佐惟重ハ日向堺の輩を催し、不日に馳可来と注進し、彦山の座主も一山の衆徒地下人を語らひ旗下ニ属すへきのよしなり、然れハ戦地の便りもよく且ハ吉例なれハとて、翌九日立石に本陳を被居
    私ニ曰、此段敵方の事無益なれ共かく敵蜂起候へとも、松井・有吉勇気を屈せさるを示すへき為、敵の形勢を出し置申候
松井・有吉は兼てより木付の城内に一丸普請して、速見郡六万石在々所々の庄屋頭百姓を取込、家士を添て外輪の持口を定め、二の丸に蔵を拵、其者ともの人質を入、番の者稠敷居置候か、義統立石表着の由を聞、弥油断なく可守旨を命す
    右人質取入候時、安岐八郎兵衛本名片山・木村右馬允・今井惣兵衛なと云豊後侍申談、志を顕ハし候なり、右八郎兵衛ハ大伴之時に安岐の領主
    の由、忠興君木付御入部之節御庄屋被仰付置候、豊前御入国以後右之功を被賞、御召之御具足被為拝領候、右八郎兵衛嫡子片山甚十郎肥後
    へ御供仕、嶋原ニも罷立候、其以後御知行百石拝領、今の片山八郎兵衛祖なり、右の具足も今以伝来仕候、右右馬允・ 惣兵衛は浪人にて居候
    を、松井被官にいたし候となり

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白銀は「しろがね」、白金は「しろかね」・・?

2013-05-19 09:40:42 | 徒然

細川家八代(肥後細川藩主・六代)の重賢公を銀台公と尊称している。細川家下屋敷が白銀に在ったことに由来するという。 

石川昌子著「私の東京切絵図」を読んでいたら、『白金の地名は、古書に銀、また白銀とあったのを、のちに「白金」と改めた』と有る。p172
いわゆる白金長者が地名の由来だとされており、「白銀」には「しろがね」とルビがふられているが、なにか特別の意味があるのだろうか。「白金」から「しろかね」となったのだろうか・・よく判らない。
ウイキペディアで眺めてみると脚注に、[ 作家今東光は、谷崎潤一郎と話していて、うっかり「芝のしろがね町の……」と発言したために、「芝はしろかね。白金と書いてしろかねと言うんだ」「牛込のはしろがね。白銀と書いてしろがねと発音するんだ。明治になってから、田舎っぺが東京へ来るようになって、地名の発音が次第に滅茶苦茶になってきたな」と怒鳴りつけられたとのこと(『十二階崩壊』中央公論社1978年。p.250) ] とある。

うっかり津々堂も東光和尚の如く、しろがね邸などという事があるが、こころして「しろかね邸」と申上げなければならない。

 

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口にチャック

2013-05-19 07:21:38 | 徒然

 こんなバカなことをもう九年ばかりやっているが、いろんな情報を頂戴し有り難いことと役得の楽しみとしている。
お問い合わせをいただく中で、学術的に見てもビッグな情報と思われるものにも出会う。これらはご当人の研究中のこともあって、他人様にはとてもお話はできないのだが、お喋りできないことの辛さを実感したりする。一方、情報をオープンにされていていろいろご教示いただくことも有り、たくさんの事を知る事も出来た。先祖附も沢山読んだが、御家の事情が吐露されていてこれとてわが胸の内に留めておくべきと思う事がある。いずれにしろ「口にチャック」である。まとめれば一冊の本にでも出来そうに思うのだが、そんな能力も持ち合わせていないから、宝の持ち腐れと云う事に相成る。
思いもかけずいろんな方々との出会いがあり、今も長くご厚誼をいただいたりしている。時には突然数百年遡るご先祖さまをもって、新しいお付き合いが始まったりしてお喜びの言葉を頂戴したりすると、誠に望外の幸せである。
しかし、「口にチャック」が大原則で、情報の開示や提供は慎重を期すことが第一であることを、サイトの運営を通じて強く認識している。

それにしても「歴史」は誠に面白く毎日あれこれ励んでいると、私はたぶんボケ老人には成らないだろうと一人思っている。

 

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史談会5月例会

2013-05-18 14:15:34 | 熊本史談会

                                  

                                             熱心に説明を聞く諸氏

 
                 

                       御物である絵詞の写真判(右手)と見比べながら拝見

 

                 
                 

                         絵には彩色の為の色の指示が為されている。

 

 

 史談会の5月例会は、明治23年宮内庁へ納められ御物となった竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」について、旧持ち主であった大矢野氏の現当主(会員)から貴重なお話を伺った。持ち込まれた無彩色の「蒙古襲来絵詞」は、御物となったものの下絵ではないかと思われる。それは御物には書かれていない部分の絵が描かれていたり、筆跡がほとんど同じであったりすることからも伺える。誠に繊細な線や、豊かな表情、行き届いた考証など無彩色故に感動的に伝わってきた。誠に有意義な時間を堪能した。 

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