津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」七、大儀滅親

2021-10-07 07:29:52 | 書籍・読書

      七、大儀滅親

 田邊城の奥の一室、人目を避けて、藤孝父子は何事か密談している。春の霜夜はい
たく更けて、めづらしくも深く曇った藤孝の眉のあたりを、短檠の光が寺してゐた。
 信長が細川氏を丹後に封じたのは、當時同國の領主一色氏の失政により騒亂絶えな
かつたので、これを平定せしめんためであつた。藤孝入部して一色義道を攻め殺した
が、その子の義定は、弓木城に據つて抵抗を續けた。義定は忠興の妹を娶り、藤孝の
婿である。
 天正九年三月のこと、忠興は辭を設けて妹婿をおのれの居城、宮津の八幡山に招待
した。義定もさる者、これは少々怪しいと勘付き、騎士三十六人、雑色三百人を随え
て宮津に乘り込んだ。藩譜採要には斯う書いてあるが、何ぼ何でも大袈裟すぎるやう
ではある。ともかく、義定は十分用心して御馳走になりに行つた。從兵等は城外に留
め、家老日置主殿助と二人ぎりで書院にとほつた。義定は忠興とさし向ひ、家老は忠
興の右手に座つたが、まさか襖障子のうしろに十七人の暗殺協力者が隱れてゐるとは
知らなかつた。やがて膳が運ばれた。茶人の宗堅といふ者、肴を据えるとき、忠興の
脇に置かれた「波股」の大業物にわざと袴の裾を障らせ、
「御無禮仕りました。御免を。」
とあやまりながら、刀を取つて戴き、そっと鯉口を緩め、抜き勝手のよいようにし
ておいた。義定杯を手にした瞬間、肩先から脇腹かけ、一刀に斬りさげられた。家老
は柱を楯にとつてしばらく防いだが、衆寡敵せず、どつと縁側に倒れた。暗殺成就の
合圖の狼火を擧げると、直ちに田邊城から繰出された軍兵が、弓木城を取巻き、一色
氏の殘黨は殲滅させられたのである。
 藤孝弓矢を取つて三十年、今日ほど辛いおもひをしたことはない。だまし討は當節
の流行だ。巧言も令色も、毒殺も、焼討も、戰國の習ひ、敵も味方もすることだ。時
と場合によつては致し方ない。乍併、現在の肉親、可愛い娘の婿をさへも、かやうな
殺し方しなければならぬのか。無慙だ。非人道だ。例えば類似の所業は武田もした、
上杉もした、誰もした、彼もしたと數へたところで辨解になるか。百萬人がしても、
悪事は悪事だ。治國平天下、大義親を滅すと、おのれを叱つて見たが、藤孝は夜もす
がら眠れなかつた。その年の初冬の冬、一色氏の禮拝した天橋立切戸の文殊閣に、藤
孝は黙然として端座してゐた。須彌壇に向つて數珠つまぐり、義道父子の冥福を祈る
のであつた。暁千鳥の聲がするまで、藤孝の姿は動かなかつた。

 

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