魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

硬直社会

2012年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

「白黒映画」を上げて、寝て起きて見たら、シリア戦をイラン戦と書いていた。こういう勘違いに、一々、訂正線を引いて訂正する人がいるし、自分でも訂正コメントを入れたい衝動に駆られるが、読む側からすれば、目障りで読み辛い。

本の場合は校正があるが、ブログは書きながら校正するしかない。
あえて、コメントせずに、修正して置いた。

昔から、新聞の誤字脱字を探して訂正することを趣味?にする人がいた。テレビ時代になって、リアルタイムに電話を入れる人が増えて、アナウンサーがこわばった顔で訂正を始めると、その顔を見るのが快感なのか、益々増えたようだ。

有名人のブログなどでは、ちょっとした気の迷いで「書いてしまった」ことを、5分後に取り消しても、炎上したり、「5分後に取り消した」と、取り消したこと、そのことが悪いかのように、また炎上する。
ここまでくると、もう、「クレーマー症候群」で、社会的「病」だ。

新聞の時代なら、新聞代を払っていたのだから、抗議する権利はあったかも知れない。テレビ時代になって、NHKに抗議するのも解らないではない。しかし、民放でも抗議は絶えない。
親切心で教えてあげる人もいるだろうが、ほとんどは「抗議」だ。

これを抗議する側の理屈で考えると、公共の電波を使い、公に情報を流布する者の責任として、正確な情報を流す責任がある・・・ことになるのだろう。

イチャモン社会
報道される当事者が正確な情報を要求するのは当然だが、情報を受ける側が、ニュースの補足として付け加えたテロップの、漢字の人偏と言偏が間違っていたようなことを一々指摘する感覚は、相手の弱みにつけ込むイジメ快楽でしかない。

テレビに対しては何を言っても反撃されない気楽さが、取材する当のテレビ側にまで広まり、事件の被害者に「説明責任があります」などとマイクを突きつけることが、当たり前になってしまった。

新聞テレビに突っ込んだり、抗議をしていたのは、メディアからの一方通行に対し、個人の意見発信の手段が限られていたからだ。

ネット以後、個人の情報発信は自由になった。同時に、情報発信者に直接突っ込む手段を持ったことで、旧メディアに対すると同じように突っ込むから、「炎上」といった現象が起こる。
突っ込むために、情報ミスを探してネットをうろつくハンターも溢れている。

本来、言論の自由とは、言論に攻撃をする自由ではなく、自分独自の考えを述べる自由のことだ。情報発信時のミスは、「発信者の恥」ではあっても、受ける側に攻撃の権利が生まれるわけではない。
異論があるなら、自分の考えを打ち上げれば良いだろう。人の揚げ足取りは単なるイチャモンだ。

何時の頃からか、陰湿なイジメが常態化し、自分の意見を言うことより、他人の粗探しをすることしかできない社会になった。
江戸幕府の監視抑圧の時代に、出る釘を打つ足の引っ張り合いが染みこんだ日本人は、少し安定すれば、直ちに互いの牽制を始める。

言葉狩りや自粛が横行し、組織や社会の中で画期的な意見が出なくなった。今日の日本の停滞は、戦後70年の安定がもたらした老化「硬直社会」だ。


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