魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

甦れ騎馬民族(2)

2009年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

「ハイブリッド車は農業発想」とは、大前提を換えない発想だからだ。

農業は土地と自然の大前提から逃れられない。
遊牧民である騎馬民族は、家畜を養う牧草が無くなれば、移動する。
遊牧民は常に「ゼロ」からの発想だ。

一つのもの(土地)を大切にひねくり回す農耕民だから、ガソリン車という大前提を、ひねくり回して、ハイブリッド車という複雑怪奇な「偽物」を生み出した。偽物はいつも複雑だ。

ハイブリッド車を、「偽物」と言えば叱られるだろう。
しかし、何が「偽物」かと言えば、「移動手段」という、究極目的から外れて、技術におぼれてしまっていることだ。
手段である技術が目的となって、「最善の移動」という目的が無視されている。

行き詰まった時、騎馬民族なら前提を捨ててしまう。
農耕民の粘りは人間が地球で生きていく上で、基本的には大切なことだ。しかし、状況によっては捨てなければならない時があることも、また、大切なことだ。
命に終わりがある、恋にも終りがくる。 見切り千両!

農耕民と違い、騎馬民族は固まって暮らすことは不利になる。
それぞれが、適度の間をとって牧草地を利用しなければならない。
そして、せっぱ詰まったら、徒党を組んで略奪に出かける。
一つの目的のために、互いに違う空間で生活している者が、一勢にまとまった動きをする。これはまさに、ネット社会だ。

混成列島
日本が、単純な農耕民の島でないことは、離合集散する戦国軍団にも良く現れていたし、近くは、70年の全共闘などもその例だ。

小集団が徒党を組んで、やがて大集団としてまとまって動き、しかも、何事もなかったように消えてしまう。
騎馬民族の創った文明は、よく、砂漠に消えたと言われるように、形を残さない。ゼロに始まりゼロに帰す。

共産主義も、騎馬民族の末裔のロシアはゼロに帰したが、万里の長城を残した農耕民の中華は、ハイブリッド共産主義に変えて、何とか維持しようとする。

農耕民の改革。遊牧民の革命。行き詰まりの度合いによって、どちらも大切なのだろう。

大転換には騎馬民族
産業革命パラダイムの250年目の大転換では、「ゼロからの発想」が求められる。もう、化石燃料には決別しなければならない。

ハイブリッド車どころか、自動車そのものの存在から考え直す必要がある。

新世界がどこにあるのか、我々がいかにして生きていくのか、そもそも、生きるとはどういうことなのか、そこから考え直す必要に迫られている。

射手座の効用