魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

検定家元

2009年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム

漢字検定の騒ぎは、騒ぐこと自体があほくさい。
あらゆる「OO検定」というものが、もともとナンセンスだ。

近代の試験制度は、産業革命パラダイムでの、人間の画一化から生まれた近代教育と、中国文明の科挙が合体したものだ。
ある事柄に関してだけの能力を測り、必要部署にはめていく。

システム化した社会の歯車作りとしては、一見、実に合理的で、唯一無二の公平な方法に見える。

科挙制度の伝統がある東洋人は、欧米の学校でも、軒並みすばらしい成績を上げる。
ところが、何かがおかしい。確かに成績は良いのだが、社会的存在として影が薄い。
これには様々な要因があるので一概には言えないが、
成績を上げることが目的になって、実力を付ける過程の人間性が欠落しているからだろう。

本来、人を判断するのは、判断する側の、能力人格が至高でなければならないのだが、試験というシステムを使えば、試験官がボンクラでも、基準の回答を満たしていれば、判断できたことになる。

古来、学問や人間養成の場では、師や親方が、教えながら判断をして、一人前と認める。だから、試験の必要はなかったし、師弟が積極的に関わり合うことが必要だった。ことに西欧では、学術と人格は一体だった。

ところが、東洋では、科挙制度という合理システムが、登竜門という門さえくぐれば良いような価値観を植え付けた。
大陸では、親子三代に渡って、科挙の浪人といったことが社会化した。
ここでは、学問と人格形成が全く無縁になってしまったのだ。

そこに、産業革命の大量生産に対応する、大量の高度技術者が必要になって、近代の学制が生まれ、試験が必要になった。
しかし、それでも、欧米の場合は徒弟制の学問が基本にあるから、試験は、あくまで参考でしかない。
推薦や面接が重視されるのは、この流れだ。

明治の初め、欧米の先生が日本に来て、生徒が先生に接触してこないことに驚いたのは、学問に対するこの考え方のちがいだ。
日本の生徒は、先ず本を読もうとする。試験のために独習する考え方と同じであり、先生は、いわば、雲の上の試験官だからだ。

今の日本人は、相当、アメリカナイズされたとはいえ、いまだに東洋の科挙制度のくびきのもとにある。
学問は独習が基本で、技は親方から盗むものであり、先生は技術知識を教えるマシーンであり、学校は単なるラボラトリーだ。

そして、自分の価値を決めるのは全て、「試験」だから、「OO試験」「OO検定」と聞けばじっとしていられない。

その習性を見抜いて横行するのが「検定」商売で、それを宗教システムにしたものが「家元」だ。