魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ジュラシック・パーク

2009年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

最高裁が、何でもかんでも「体罰」とするな、と判決を出した。
この2、3日、の話は、ちょうどこれとリンクする。
酔っぱらいを逮捕し、虐待は見ぬふり、良いことをしている人に「ほどほどに」とは言えない。
春の珍事昔には帰らない悪役のすすめ

人間として、バランスのとれた判断が無くなっている。
人間性が失われると、教条主義が横行する。

自分の判断力がないから、四角四面にルールを適用し、少しでも反則を見つければ、その規則を盾に、相手を攻撃しようとする。
自分の判断力もなく、他人の諭しも理解できないから、話し合いより、誹謗キャンペーンや訴訟に走る。
何かあるとすぐ先生に告げ口する、子供のレベルだ。

人間性が失われるのは、社会が崩壊しているからだ。
安定した共同体での対立は、当事者同士の話し合いや、仲立ちをする人が存在して、理解や妥協が可能となり「手打ち」ができる。
つまりは、近年、それが不可能になりつつあると言うことだろう。

世の中に、限りなく白か黒に近いグレーはあっても、白黒はない。
科学的にも人間は、「純水」は飲めないそうだから、面白い。

どうなるんでしょうねえ
最高裁で、人間性を諭すような判決が出たのは、判事の世代が影響しているのだろう。だとすれば、世代が代われば心配だ。

ジジイ、オヤジ世代にあったようなことが良いとは思わないが、現代に失われた、「体温」があったことは確かだ。

昭和30年代の中学の体育館で、男女全員座らせて校長が延々説教をしていると、軍隊帰りの教師が、中に入って、態度の悪い生徒を片っ端から「ボカッ」「ズコッ」と殴り倒していく・・・
どこでも見られた光景だ、
戦後教育の理念とこの現実の矛盾が、学園紛争に繋がった側面もあるのだろう。権威と暴力による統治に反乱を起こした世代にも、同じ「体温」が残っていた。

その世代が、暴力や束縛を拒否して、子育てをしている間に、「体温」が失われて、理想や思いは化石になった。
杓子定規な体罰やDV問題。束縛からの解放や放任は「乱れ」となり、
そもそも、こんなことになったのは恐竜のせいだ、ということになって、団塊叩きや年寄り批判が始まった。

圧力には反乱を起こすが、圧力がなければ文句を言う。
どこまで行っても人間は、独り立ちできないものらしい。