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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



祭の騒動でこのところネット活動をあまりしていなかったが
ふと見ると、来年1月の歌舞伎公演情報が出揃っていた。

歌舞伎座:壽初春大歌舞伎(1月2日(木)~26日(日))
新橋演舞場:初春花形歌舞伎(1月2日(木)~26日(日))
浅草公会堂:新春浅草歌舞伎(1月2日(木)~26日(日))
国立劇場:初春歌舞伎公演(1月3日(金)~27日(月))
 
南座:前進座初春特別公演(1月4日(土)~17日(金))
大阪松竹座:坂東玉三郎 初春特別舞踊公演(1月2日(木)~27日(月))
国立文楽劇場:初春文楽公演(1月3日(金)~26日(日))

音羽屋ファンとしては、菊五郎・菊之助の国立劇場は外せないが、
ほかにも、演舞場は海老蔵が出るし、浅草は愛之助、
いずれも今をときめく人気役者の座長公演で、魅力的だ。
こうなると、このラインナップで仁左衛門や三津五郎を欠いているのは、
観る側としてはやはり光が減ってしまったような残念さがある。
だが勿論、御両名には当分の間、しっかり療養して頂かなくては……。

新春の歌舞伎座については、幸四郎・吉右衛門は楽しみではあるのだが、
……夜の部の『九段目』って、なんで(爆)??
11月12月と『仮名手本忠臣蔵』をやってきて、
二段目・八段目・九段目(・十段目)が余っている(爆)のはわかるが、
どして九段目をお正月公演に持って来たかなと(^_^;。
素人にはわからない構成の妙みたいなものが、あるのかこれは。

何にしても、私は年明けは多分、音楽は要らない。
師走のポゴレリチに何かされたら、私はそれから当分の間、
クラシック、特にピアノは聴けなくなってしまうだろう。
新春に歌舞伎が充実しているのは、おそらく願ったり叶ったりだ。

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2日が前夜祭・3日が本祭、そしてきょうが後片付け。
三日に渡った祭り騒動が、終わったっっorz。

前夜祭の日は、御帳場の総代さんにお茶やお酒を運んだり、
おつまみを出したりという仕事を手伝い、
神楽が終わって、社殿・神楽殿の片付けまで付き合ったので、
常日頃は早寝している私にとって、あり得ない深夜帰宅になった。
これだけでも疲れなかったというと嘘になるのに、
更に、その翌日がまた8時半集合だったのはキツかった。
午前2時頃寝て、翌日5時台に起床するという……。

3日は本祭で、雨の中、夕方まで、前日以上のフル稼働だった。
神社の大祭は町民運動会とは違うのだから(爆)
雨天順延などありえず、祭祀はすべて予定通りなのだった。
余興の餅まきは中止されたが、大人の御神輿はちゃんと出た。
神社ではなく地区にとっての資金集めでもあるので、
余興は余興で、簡単には中止できないとのことだった。

母や叔母の話によると、昭和40年代には姑の命令で、
嫁たちが集まって家で餅をつき、寿司も煮染めもこしらえ、
神社のお手伝いにも勿論参加したうえで、
前夜祭の夕方には一族揃って本家の座敷で食事を取り、
祭典の時間になると紋付きに着替えて境内にあがり、
拝殿に正座して祝詞を聞いたのだそうだ。
また、当時は神楽殿がなく、臨時の舞小屋を祭のたびに建てていたので、
本祭当日の朝は、その舞座を「こかす(倒して仕舞う)」作業もあり、
今よりもっと忙しかったということだ。
……ここで言う『姑』とはパンスーの祖母のことだが(^_^;。
昔は、これ以上のとんでもない労働をした上に和服まで着たのか!
と私は話を聞くだけでウンザリだった。
しかも神社の祭典が座礼だったとは。足がシヌ。
つくづく、そんな時代の嫁でなくて、良かったぜ!

そして本日は、午後1時半集合、
地元でいう「幟(のぼり)こかし」の日だった。
幟立てが祭の一週間前の日曜日だったが、
そのとき立てた幟を撤収するのが、きょうの作業だった。
幟をおろしたり竿を運んだりするような労働は主に男性たちの仕事で、
女性は祭のはっぴを畳んだり、社務所に掃除機をかけたり、
お茶出しをしたりした。

昨日の雨で幟は一旦はかなり濡れた筈だったのだが、
きょうは朝から晴れていて、しかもほどよく風があったので、
外にずっと立てられたままだった幟はどれも、
さながら、高いところに干してあった洗濯物みたいなもので、
とてもよく乾いていた。
好天の休日で参加者も多く、仕事はあっという間に終わったが、
「よし、終わったで。あとはもう、降ってもええで」
と宮司さんが言われた途端、空が曇って俄雨が降り始めて、
これには皆、笑うやら驚くやらだった。

ともあれ、終わった……。
これって、来年からずっとやるのかしらワタクシ……。
ああ、駄目だ、今そんなことを考えては……。

実家の両親から感謝された私は、帰りに、お供えの残りの和菓子を貰った。
ええい、これから、その菓子でひとり直会(なおらい)をしてやるっっ。

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(写真は、昨夜の前夜祭開始前の社殿と神楽殿(右)。
もっと良いのを撮りたかったが、あとが忙し過ぎてだめで、
これしか携帯に残っていなかった。)

昨日から実家の村の氏神さんのお祭りで、
昨夜はなんと午前1時半帰宅だった。
今まで娘がいるのを理由に、私は祭典が済んだら帰っていたのだが、
今年からは私はほぼフリー(笑)ということと母が動けないのとで、
フルに、おしまいまで居たのだ。
祭典のあと余興の巫女舞と神楽。
滝夜叉姫とか紅葉狩りとか、歌舞伎と同じ題材があるのだな、
……などと思いつつ眺めていたが、それにしても延々と終わらず、
最後に八岐大蛇(やまたのおろち)が出た頃には午前様。
タクシーで帰るほかなかった。しかも深夜割増し(T_T)。

しかし、きょうもまた午前8時半集合。
何をするかというと、男性陣が餅まき用のお立ち台を設置するので、
女性陣は例によって、そのお茶出しと後片付けである。
その他、きょうは私は担当ではないが、
御神輿や俵もみの「お花」(ご祝儀)を集めて歩く係や、
村内を練り歩く彼らについてまわる係などもある。
当然、かつぐほうに参加する男性や子供達もきょうは大わらわだ。
終われば地区ごとに打ち上げもあるし。

……ってこんな時間にパソコンやってる私は、遅刻フラグ立ちまくり。
しかも今朝から雨。予報によれば一日じゅうやまないらしい(泣)。

行ってきます。。。。

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(写真は、頼山陽史跡資料館の門を入ったところにあるモニュメント。
昭和10(1953)年からあった山陽記念館は原爆で大破し、戦後に修復されたが、
平成7(1995)年に現在の史跡資料館へと全面的な建て替えが行われた際に、
当時のバルコニーの一部が切り取られ、このモニュメントとして残された。)

頼山陽史跡資料館の平成25年度企画展『菅茶山と頼山陽』を見てきた。
平日午後のせいか、初めは私以外に誰も展示室内にいなくて、
貸し切り状態で、資料や説明文を存分に熟読させて貰った。

漢詩を読む者にとっては、菅茶山・頼山陽はともに大変重要だ。
いずれも江戸時代後期の漢詩人として優れた詩を多数残しており、
鑑賞や詩吟の場で触れる機会も多い。
きょうの展示でも、過去に漢詩の会で読んだ詩の直筆を見ることができ、
私にとっては、これまで以上に、そうした詩の詠まれた時代や背景を
現実のものとして手応えを持って感じることができた。
とりわけ、山陽の代表作のひとつである『泊天草洋』の書を
実際に軸装で見ることができたのには感激した。
解説によると個人所蔵の品であるらしい。
まことに得難い機会だった。

山陽が茶山の依頼を受けて書いた正慶尼の伝記というものは
私は全く知らなかったので、その書とともに、
彼女の存在や逸話そのものにも大いに興味を持った。
彼女は名を『阿雪』といい、江戸中期に名を成した画家であったが、
娘時代から武芸を好み、奇行でも有名であったということで、
『奴の小万』の異名を持つ、いわゆる女伊達であった。
『正慶尼』とは、隠居後に仏門に入った彼女の名前だ。
彼女の真実の姿を伝えるべく、山陽は茶山の依頼で伝記を書いたそうで、
今回はその一部が山陽の書として展示されていた。

山陽の恋人であった平田玉蘊や江馬細香もある意味で同じだが、
『三従』などという考え方が生きていた時代においても、
印象的かつ個性的な女性たちが活躍した場は確かにあったわけで、
私は彼女たちの存在それ自体に、改めて感じ入った。
勿論、その人生は、現代の私達が想像する以上に、
人々の好奇の目にさらされた過酷なものであっただろうけれども、
彼女たちの生き様は、やはり抜きん出て精力的であり活動的であり、
それゆえにこそ、茶山や山陽のように、
こうした女性たちのことを記録しようとした人々もあったのだ。

しかしきょうの展示で私が何より感銘を受けたのは
茶山の弟の菅恥庵の墓碑銘としての山陽の書(の拓本)だった。
山陽は『備後菅圭二墓』の文字とともに、
自ら撰んだ墓碑銘を書いているのだが、
それがあまりにも見事な楷書だったので、私は目を見張った。
頼山陽の楷書などというものを、私は完全に初めて見たと思った。
恥庵は茶山より20歳も若い弟で、京都で私塾を開いたが、
すぐに病臥し、手当の甲斐なく、三十代初めに亡くなっている。
この墓は現在も京都の某地にそのまま残されているそうなので、
叶うことなら私はいつか実物をこの目で見たいものだと思った。
チラシにも図録にも、この恥庵の墓碑銘については取り上げられておらず、
特別に話題性のある展示ではなかったのかもしれないが(拓本ではあるし)、
しかし私にはこの山陽の字が最も強烈に印象に残った。
一級の美術作品と言える、見事な、風格のある楷書だと思った。

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