転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



ときどき、QUEEN関連でメールを下さる方もあるので、
こちらでも、お知らせしてみます。ご存知かも知れませんが、
BS熱中夜話 QUEENナイトが再々放送されます!
12月30日(火)NHK-BS2
13時45分~:フレディ・マーキュリー編
14時30分~:ブライアン、ジョン、ロジャー編

私がどうやってクイーンと出会ったかは、以前書いたが
一時期、私の中で、偉大なる伝説になりかけていた彼らが、
ここ数年再び注目を集め、現在進行形で語られるようになり
ファンとして思いがけず、最近は熱い思いが再燃している。

・・・ということで、今夜は、ちょっとQUEENについて語ってみたい。
『CMで知って面白かったので、クイーンに興味を持った』
というメールを以前、頂いたことがあったが、
クイーンがどんなバンドか、を簡単に説明することは
私にはとても出来そうにないので、
とりあえず今回は、私がファンになりたてだった頃に
自分にとって重要だった曲のことを中心に、書いてみようと思う。
私の話は概して自分本位な昔語りが多いので申し訳ないが、
クイーンをこれから聴いてみたいとお思いになる方にとって、
どこかひとつでも、きっかけになる箇所がありさえすれば、
これ以上の光栄はないと思っている。

***************

私がファンになったとき、QUEENの発売中の最新アルバムは
『華麗なるレース』だった。
今ではQUEENというと『ボヘミアン・ラプソディ』がとても有名だが、
これは『華麗なる~』のひとつ前のアルバム『オペラ座の夜』の曲だ。
この『オペラ座~』と『華麗なる~』の二枚は、
70年代の、豪華絢爛のQUEENが最高の輝きを放った二連作ではないか
と私は今でも思っている。

私がQUEENの頂点の曲のようなイメージで記憶しているのは
この『華麗なるレース』のB面一曲目だった『Somebody to love』だ。
Queen- Somebody to Love(YouTube)
『華麗なるレース』は1976年12月にリリースされているので、
もはや30年以上前の作品ということになる。

Queen/Good Old-Fashioned Lover Boy(YouTube)
Queen - Millionaire Waltz (Live '77)(YouTube)
上記二曲も『華麗なる~』の収録曲で、当時も、そして今も、
私にとって70年代QUEENの象徴のようなナンバーだ。

この段階でファンになった私が、一日千秋の思いで待った次のLPは、
約1年後の1977年10月に発売された『世界に捧ぐ』だった。
ここからQUEENはひとつの転換期を迎え、
前作までの華麗さとは打って変わって、シンプルな音作りを行った。
私は当初、肩すかしを食らったような驚きがあったが、
聴いていると、それまで以上にQUEENの本質的な面白さを知るようになり、
今では、『世界に捧ぐ』もまた私の愛聴盤のひとつになっている。

中でも、ベースのジョン・ディーコンが書いた『Who Nees You?』は
発売当初から私を強く惹きつけた一曲だった。
ジョン・ディーコンはメンバー中、唯一ヴォーカルを取らなかった人で、
年齢的にも最も若く、終始、控えめな存在だったが、
彼の作品はいずれも珠玉のような名曲ばかりだ。
フレディに歌って貰うために曲を書いていたのでと、
彼の死後、ジョン・ディーコンは表舞台に立たなくなった。
Queen-Who Needs You?Tribute to John Deacon(YouTube)

時代的には80年代になるが、全米ナンバーワンとなった
『Another One Bites the Dust』もジョン・ディーコンの作品だった。
QUEENは全員が作曲ができ、皆がヒットナンバーを持っており、
それも彼らの作風を多様化させる要因となっていたことが
今になってみると、本当によくわかる。
Another One Bites The Dust (Queen Live at the Bowl 1982)(YouTube)

『世界に捧ぐ』の収録曲のうち、上記TV番組のQUEENナイトで、
勝山かほる氏が挙げておられる『My Melancholy Blues』も、
私にとって外せない、QUEENベスト5に入る曲だ。
My Melancholy Blues - Queen (Vinyl Recorded)(YouTube)
フレディはエレキ・ピアノなどという軽薄な(爆)ものを嫌い、
ステージでもグランドピアノを弾いていたものだった。
実は私は二十年くらい前、これを弾き語りしてみたことがあった。
若気の至りとはいえ、なんと大胆な試みだったことだろう(大汗)。

もうひとつ、『世界に捧ぐ』の中で私が愛しているのは、
『Sheer Heart Attack』だ。
中学生だった私には、これは早口言葉のように思えたものだった。
今聴いてみたら、歌詞の乗せ方としてはそんなに極端ではない、
と思えるのだが、当時は、とてつもないものを聴いた気がしたのだった。
何であれ、QUEENにはこんなハード・ロック的な一面もあった。
これもまたQUEENならではの魅力だった。
Sheer Heart Attack (Queen on fire live at the Bowl 1982)(YouTube)

ときに、自分の知っているあらゆるジャンルを通じて、
私がこれまでの人生で、容姿の面で最も惚れ込んだ男性は、
80年代初期における、QUEENのロジャー・テイラーだった。
今に至るも、私にとって彼を超えるイイ男は出現していない。
Roger Taylor - Rock Pop - Future Management(YouTube)

勿論、彼はワイルドなドラマーであり、
特徴的なハスキーヴォイスの、魅力あるヴォーカリストであり、
名曲『Radio Ga Ga』の作曲者でもあった。
Queen Radio GaGa Liveaid(YouTube)
もとは歯学部で学んでいたロジャーが、歯科医の道を放棄した理由は、
『一生分の歯を見た』と思ったからだった、というのも
私には忘れられないエピソードのひとつだ。

こうして振り返ってみると、本当に、
QUEENの中には、私の求めるほとんどすべてのものがあった。
フレディが逝ってしまい、彼らが永遠に思い出になったからこそ、
あの頃聴いた音楽と、記憶に残る彼らの姿が、私にとって、
なおいっそう貴重なJewelsになったのだと、改めて、思う。

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私が、ロシア演劇関連その他多くの面で深く敬愛する友人某氏が
きょう、名古屋から小倉への旅の途中に、広島に寄って下さったので
お昼に、ふたりで、お好み村へ行って、広島風お好み焼きを食した。
ちなみに、数日前にこの件について某氏からのお電話があったとき、
『小倉に行く途中に、広島駅で降りようと思いまして』
と言われ、一瞬、私は『国連に行く途中に』と聞き間違え、
うわー、モスクワの劇場では飽きたらずNYの国連本部!?と驚いた。
が、考えてみたら、新幹線で国連には行かない(爆)。

で。この、お好み村で今日偶然に入ったお店が、実に良かった。
見た目は、たくさん並んでいるお好み焼き屋さんのひとつで、
特別に広いということもない、普通のお店だったのだが、
お好み焼きの美味しさと同じくらい、店長さんの心意気が素晴らしくて、
なんとも、感じ入ってしまうような、見事さだったのだ。

そのお店の鉄板は、使い始めて二十年目くらいだ、という話から始まって
鉄板は新品のうちはとても難しくて、やたらと油を吸うのだが、
それが使い込むほどに馴染んで、使い手との呼吸が合ってくるとか、
鉄板は天候にも敏感で、使っているとその手応えでひとつで
『きょうは、これから雨になるな』と外の天気がわかるほどだとか。
一日の仕事が終わったら、熱を持った鉄板に氷水をかけて一気に冷まし、
隅々までコゲやヤケを落としてやると、毎晩、真っ新のように蘇るとか。
何であれ、その道のプロフェッショナルの感覚は並々ならぬもので、
そうした人の語る言葉は迫力があるなあと、改めて思ったことだった。

とりわけ、何枚、何十枚とお好み焼きを焼き続けても、
その一枚一枚に『気を込める』と言われたのには畏れ入った。
お客さんが立て込んで、一度に15枚並べて焼いていても、
それは決して、段取り作業で焼くようなものではない、
なぜなら、注文したお客さんにとって、その一枚一枚が、
自分の頼んだ一枚であり、特別なものであることが感じられるからだ、と。

ちょうど、昼食時のお客の流れが落ち着いた時間帯だったので、
店長さんは、そんなことを、特に力むこともなく、
にこやかに、話して下さった。そして、
「滅多にしない内輪話、しちゃって」
と笑われた。
この店長さんは、ごく小柄だが、きりりと筋の通った女性だ。
ここまでの話を読んで下さった方の中には、
男性をイメージしていらした方も少なくないのではないだろうか?

思うに、自分の気に入るようなお好み焼きを、
自分や、数人の家族のために、ちょっと上手に焼くくらいのことは、
しばらく練習すれば、シロウトにも出来るかもしれない。
だが、一見、大量のお好み焼きを一度にさばいているようなときでも、
一枚一枚のむこうに、ひとりひとり違うお客さんの顔を、ちゃんと見て、
どの一枚にも気を込めて焼き上げる、というのは、
プロだからこそ出来ることだ、と私は痛感した。

仕事として焼く以上、一定水準のお好み焼きを出すのは当然のことだが、
手順や分量や温度調節さえ一緒なら、誰でも同じものが焼ける、
などということは、あり得ないのだ。
お客が「美味い!」と感じて、出るときに店の名前を見直し、
「今度来るときは、またここにしよう」と思って帰っていく、
そんな店であるために、
誰の目にも見えない、店長さんの熱い熱い『気』が、
ここのお好み焼きには、込められているのだった。
本当に、道を究めている人の言葉は、凄いものだと、
きょうは、つくづくと思った。

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昨日は、広島高裁の『小1女児殺害事件一審判決破棄』について
大変いろいろと言いたいことがあったのだが、
裁判所の判断の全文を丹念に読んだわけでもないのに、
安易にシロウトが勝手なことを言うものではないだろう、
と考え直して、ここに書くのを、敢えて、やめた。

しかし、「裁判員制度」に関して、改めて不安に思ったことだけは
現時点の感想をとして、やはり記録しておく。
今回の、高裁判断について、要旨を読んだ限りでは、
私などは、自分が裁判員になっても、ピントはずれなことしか出来ない、
という印象を持った。
端的に言うと、現在の私の理解力では、
高裁が新たに指摘した問題点の重要性がわからなかったうえ、
いちばん注目していた箇所については、回答が得られなかったのだ。

私は司法の手続きの根本がまるでわかっていないようなので
裁判員候補としては、本来対象外となるべき人間だと思った。
娘の持っている「公民」の教科書でも読んで出直してからだ。

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1月19日にはサントリーホールでポゴレリチを聴く予定なのだが。
今回は宿泊必至なので、翌日も朝から東京に居ることになる。
広島には晩までに帰るとして、何か、昼の間に、
都内にいる時間を利用して観られる舞台はないだろうか、
・・・と思っていたところ、格好のモノを見つけた。

歌舞伎座さよなら公演 壽初春大歌舞伎

『さよなら公演』たって、そのものに関しては焦ることはなくて、
現歌舞伎座の本当の最終公演は再来年の4月だ。
怒濤の勢いでサヨナラ公演を繰り出すどっかの劇団とは大違いで、
歌舞伎座の『さよなら公演』は、なんと延々16ヶ月間もあるのだ。
だがまあ、この1月からいよいよ、さよなら興行の幕開けとなるし、
何より今回は音羽屋(尾上菊五郎)さんがお出になるしで、
やはり自分の思い出として歌舞伎座の見納めをするなら、
音羽屋さんのときに、まず一度は行っておきたいと思った。
ちょうど、旧宝塚大劇場の見納めに花組公演を選んだように。

それで、昼の部というと、演目は、
三番叟(さんばそう)・俊寛・十六夜清心・鷺娘。
菊五郎の清心を観るなんて、十五年ぶりくらいではなかろうか。
前に観たのは90年代初頭で、一等席で観たあと
翌日にまた幕見に行った記憶がある
(『扇屋の夕霧だ!』事件のときだ・爆)。

しかし夜の部も、これまたなかなか良さそうではある。
曽我対面・鏡獅子・鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)。
音羽屋さんが曽我十郎でご出演になるとは、
さすがに歌舞伎座さよならだけのことはあって豪華なキャストだ。
そういえば今年は6月に博多座で、御曹司世代による、
新人公演のごとき曽我対面を見たが、
今度は吉右衛門・菊五郎という本公演版(苦笑)で、
菊之助が化粧坂少将あたりにまわっているという贅沢さだ。
夜の部とはいえ、うまい具合に最初の演目だし、
着いた19日に幕見でこれだけ入って観るか。
そのあとサントリーホールに直行すれば・・・。

・・・と、ここまで考えたのだが、私は、
この「夜の部・幕見プラン」を、やはり断念することにした。
観るなら、演奏会の済んだ、翌日の昼だけにすべきだと思った。
ここは一本に絞るのが、真の追っかけの正しい姿です
と、以前、宝塚ヲタ仲間に認定されたことを、思い出したからだ。

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マイ書斎もどきが曲がりなりにも完成した今、
次に欲しいものは、なるたけ大きな本棚だ。
何を入れるってアナタ、それはもう、
ポゴレリチに関する資料一式だ。

CDやDVD、レコードなどのディスク類以外に、カセット、ビデオ、
来日公演を中心とする演奏会プログラムの類が山ほどあり、
さらに記事の切り抜き、コピー等の紙類がファイル7冊分、
ほか、未整理の記事をとりあえず入れた書類ケースと、
切り抜きをする前の雑誌のままのものが十数冊。
これらは収納する場所や形態が定まらないまま、
ただ「イーヴォ・ポゴレリチに関する第一級資料」(爆)
として、長年、私と、あちこち転居をともにして来たのだ。

神戸から今治に行ったとき、この中の「英字新聞記事」のファイルが
完全に行方不明になってアセったことがあった。
80年代の終わりにワシントンDCの議会図書館で取ってきたコピーや、
90年代初頭に飯田橋のブリティッシュカウンシルに通い倒し
The Timesのマイクロフィルムを見まくって集めた資料が、
ごっそり消えたかと思ったときには、気が遠くなった。

結果的に、このファイルは後に広島に来てから発見されたのが
もう二度と、こんな心臓に悪い事件が起こらないよう、
私は、官舎暮らしが終わった今こそ、
彼の資料を本格的に整理したいと考えている。

娘「それにしても、凄い集めたね」
私「それはもう。これだけ集めるのは並大抵のことではない。
 だが言っておくが、これらは私があの世へ行った後は紙くずだからな」
娘「どーして!?貴重な資料である、っていつも言ってるじゃん!」
私「『私にとってのみ』貴重なのだ」
娘「………(^_^;」
私「厳密に言うたら、私と同程度のポゴ・ファンにとってのみ、だ」
娘「じゃあ、ネット・オークションに出したら売れる?」
私「ふぅむ。場合によっては、売れるかも、な」
娘「おかーちゃんみたいなファンが、欲しがるかもしれないよね?」
私「期待はせんほうがええとは思うが。もしかしたら、だな」

虎は死して皮を残す、転妻死してスクラップブックを残す。
スキンヘッドのオッサンが、金ぴかの衣装を着て扇子を翻している、
という妖気の漂うスクラップブックを。

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先日、ピアニストの尾野 かよこ様がメールを下さり、
光栄なことに、Kayoko様の運営されるサイトと拙サイトとの
相互リンクをお申し出下さいました。ありがとうございました。

Kayoko様のサイト:WHAT Is Classic?

鍵盤教育を初めとする各種プロジェクトのトピック、
交流をお持ちの様々な演奏家の方々のプロフィール、等々、
たくさんの魅力ある記事の掲載されており、
素晴らしく読み応えのあるサイトだ。
楽器としてのピアノの扱い方、テクニック上の問題、
ピアノ教授法の諸相、精神面との関わり、
さらには音楽が個人の「治癒力」に与える影響、
などについて独自のご見解が展開され、
大変多くの可能性について考えさせられる内容になっている。

また、もうひとつ、私が天の恵みのように嬉しく思ったのは、
Kayoko様が、かのブルーノ・レオナルド・ゲルバーの薫陶を
十数年に渡って受けられ、今も親密な交流をなさっている、
という事実だった。
私はゲルバーを大変敬愛している。
彼は何を弾いても超一流だと私は強く思っているが、とりわけ、
ベートーヴェンの素晴らしさは私の中で永遠のベストワンだと思う。
今年5月の福岡公演も本当に圧巻の演奏会だった。

参考:以前書いたゲルバー関連記事
ワルトシュタイン抄
ブルーノ=レオナルド・ゲルバー ピアノ・リサイタル
いわゆるひとつのマニエリスム?

Kayoko様という、意欲的で魅力あふれる演奏家・教育者であられる方と
インターネットの世界で偶然に巡り会えたこと、
そしてその彼方に、かのゲルバーが存在していたことを
私は途方もなく幸運なことだと、今心から感謝している。
私がネットという手段を手にすることがなかったら、
これは決して起こり得なかった幸運だと思う。

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先日、なーちゃん(大浦みずき)が急病のために
予定されていた舞台を降板するという出来事があった。

大浦みずきが胸膜炎で舞台降板 代役は杜けあき(ORICON)

降板決定以前に、『スーザンを探して』の制作発表の会見を
なーちゃんが欠席したことはニュースで読んで知っていたのだが、
宝塚時代、およそ病気休演など考えられなかった彼女でも、
長い舞台人生にはこんなことがあるのだなと、驚き、また心配にもなった。
なーちゃんが休むというのは、よくよくのことだと思ったからだ。

幸い、後日のニュース等では、彼女の容態そのものは安定しており、
ただ公演日が来月で、治療の後では充分な稽古ができないという理由で
降板を決めたと書かれてあったので、一応、安心することはできた。
胸膜炎は原因疾患が何であるかによって、治療内容も予後も違うが、
何であれ、普段はない、休養のための良い機会ということで、
体のメンテナンスの時間を取られるのが良いのではと思った。

********

私が宝塚で最も敬愛した男役スターは、この、大浦みずきなのだが、
私が宝塚に熱中した80年代後半から90年代初頭にかけては、
彼女ほど、男役としての美学と、技術的なレベルの高さが
見事に釣り合っていた男役は、ほかに無かったと思う。
その彼女の舞台のうち、サヨナラ公演(91年)の映像が、
このほど初めて、DVDとして発売されることになった。

大浦みずき のサヨナラ公演、初DVD化!

収録が「東京宝塚劇場」というのが、とても嬉しいことだ。
これは勿論、今とは違う、旧・東宝の映像だ。
当時、宝塚大劇場での公演から、東京公演までの期間が、
今よりもっと開いていて、数ヶ月はかかっていたので、
大劇版と東京版は、内容的に、微妙に違うことが多かった。
この公演も、私は東京版のほうが遙かに気に入っていたので、
そちらがDVDとして残るのは大変喜ばしいと思っている。

だが、大浦ファンだったら、ほとんどの人が最も観たいのは、
『ロマノフの宝石』『ジタン・デ・ジタン』の東京公演(89年)
のほうではあるまいか、と私は思っている。
恐らく、トップとしての大浦みずきが一番輝いていた時期の公演だった。
NY公演後の晴れがましい気分の中、退団発表の気配は未だ遠く
(今みたいに、トップ就任直後に退団発表などということは当時は無かった)、
そこに、まさになーちゃんのために書かれた二作品がまわってきて、
演技者の充実と作品の方向性とファンの高揚感とが、
絶妙な配置でバランスの取れていた、実に幸福な時期だったと思うのだ。

勿論、今回発売されるサヨナラ公演あたりも文句はないし、
堂々たる余裕の主演者ぶりで、とても素晴らしいのだが、
なーちゃんに時折、疲労の色が見えるので、その点が私には少し切ない。
サヨナラのひとつ前、『ザ・フラッシュ!』で疲弊しきったあと、
回復しないまま、退団公演に突入してしまった印象が拭い去れないのだ。
でももしかしたらそれは錯覚で、必死で観ていた当時の私が、
とても疲労していたことを、思い出しているだけかもしれないが。

何であれ『ロマノフ』『ジタン』が見事な公演だったことは間違いない。
大劇場版の『ロマノフ』だけはテレビ放映があったのだが、
あれは実は、東京ではかなり手を入れられて、完成度が全く違った。
加えて、『ジタン』は大劇・東宝ともに全く放映されておらず、
当時のことなのでビデオ販売もなく、完全に幻の公演になっている。
これらがDVD化されることがあれば、私は必ず、
鑑賞用と保存用の二枚は買う(爆)。
それくらい、私にとっては最高の公演だったのだ。

TCA様、お願い致します<(_ _)>!!

*************

ちなみに、今回の大浦降板で代役となる杜けあきの、
旧大劇場におけるサヨナラ公演が、忠臣蔵(92年)だ。
この公演、日本物を得意としたカリンチョ(杜けあき)さんが、
もう、本当に輝くばかりに美しくて、しかも伸びやかな歌声が素晴らしい。
一路真輝を二番手で使ってしまうという贅沢も、どうですか、これ!
また、キャストには出ていないが、若き日のたかこ(和央ようか)さんが
読売役で「さぁさぁ」歌っているのが観られる公演だ(爆)。
しかし冗談ではなく、このたかこさんを観ると、
この段階で既に明らかなトップ候補だったことがわかる役付で、
私は、彼女は将来、雪組でトップになる人だと信じて疑わなかった。
宙組が出来るなんて、考えてみたこともなかった。
・・・どういう大昔の話なんだ。

もうひとつ、前の記事で触れたシメ(紫苑ゆう)さんは、
紫禁城の落日(92年)に二番手で出ている。
ネッシー(日向 薫)さんのサヨナラ公演の映像だ。
当時、日向薫・紫苑ゆう・麻路さき、というと、
もう、目のくらむようなきらびやかさだったものだ。
こちらはデータを見ると大劇場での収録となっている。
私は東宝しか観ていないので、これもちょっと欲しかったりして。

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ここ数日、アクセス解析を見ると、この日記の検索ワードの第一位が、
連日、『紫苑(しおん)ゆう』になっている。
例年、『再会』のあとは増えるものなのだが、今年は特に多い。

シメ(紫苑ゆう)さんご本人が、オフィシャルサイトにて、
直筆メッセージで言及なさったので、私もわかる範囲で書いておくが、
こんな辺境サイトまで来て下さっている皆様が、
今、いちばんお知りになりたいのは、これ↓ではないでしょうか?

2009年11月 紫苑ゆう宝塚バウホール公演

シメさんは、例年秋に神戸で開催して来た『再会』が、
来年で第10回目を迎えるということで、
「バウをやる決心ができました」
と、今年のショーの中で仰った。
時期については11月というお話だったと記憶しているが、
確定的な日時までは言われなかったので、
変更の可能性はあると思うし、正式発表を待ちたい。
ただ、複数回の公演が予定されているとのことではあった。

内容については、「演出家の先生について頂いて」と
シメさんが仰っていたので、なんらかのショー形式になるようだ。
が、それ以上の話は『再会』の時点では出なかった。
どのようなものになって行くかは、まだこれからということだろう。
毎年、「老化した、老化した」と笑っていらっしゃるシメさんなので、
とりあえず激しいダンス・ショーにはなるまい、と思うが(爆)。

そして来年は、このバウ公演のほか、『再会』もあるそうだ。
なんと、来年の秋は、宝塚バウホールと、ホテルオークラ神戸の、
両方で、シメさんにお目にかかれることになりそうだ。

・・・が、バウはチケットが取れるかどうか、と考えると、
私は今から絶望的な気分だ。
チケットを一般発売していない『再会』だけでも、
毎年必ず、一度に1000名以上がやって来るのだ。
たった500名しか入らないバウ公演で、
もしチケットが普通にプレイガイドで販売されるとなると、
私など、どうやっても入手することは出来ないと思う。orz

あ、いや、こんな、はるか手前の段階から
早くも諦めたりしては、いけない・・・(涙)!

ということで、2009年はシメさんの貴重な舞台が、実現する予定です。

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本日のネタは、仮装ぴあにすと様がお書きになった日記から、
勝手に引っ張って参りましたので、
先に、仮装様宅のほうをお読み頂ければと思います。
こちらは、『そういうお身内がいた』転勤族一家の物語です。

**********

うちの舅は、七十代になってから、パジャマで出歩けるようになった。
きっかけは、食道癌の診断を受けて入院したときからなので、
病気療養と関係のないパジャマ姿では、当初は、なかったのだが、
だんだん、それが日常着になり、退院しても彼は着替えなくなった。

おじーさんらしく、舅は昔からずっと浴衣で寝ていたのだが、
71歳にして入院に際し、初めてのパジャマを買った。
「わしゃー、こがいなもんは、着たことがなかったけえのう。
パジャマのズボンは、前が開いとらんけえ、
便所へ行っても不便なことよのぅと思うとったんじゃが、
この前、外へ立って煙草喫いよって、腰に手あてたら、
ズボンの尻のほうに、ぶすっと、指が入っての。
なんじゃこりゃ、今まで後ろ前はいとったんかと、わかったんよ」
と得意そうに語っていたものだった。

この話を私から聞いて主人は、
「甘いんよアンタは。どうしてそこでオヤジに、
それは大腸内視鏡検査用の特別のパジャマズボンです、
って言ってやらんかったんよ!」
と気色ばんでいたものだったが・・・

ともあれ、最初こそ、そのように不本意な思いもしたが、
舅はすぐにパジャマに慣れ、愛用者になり、手放せなくなった。
当時、私たちは転勤で今治に住んでいたので、
手術を受ける舅にも、松山の四国がんセンターに転院して貰い
(今思うと、よくぞそんな知らない土地まで来てくれたものだった)、
パーキンソン病が悪化していた姑には今治市内の病院に入院して貰い、
家族全員で、愛媛での生活になっていた。

舅は偉い人で、初めての松山を、彼なりにエンジョイしていた。
特に、食道癌手術前の抗癌剤治療の段階までは、
すこぶる元気で、日常生活上の制限も少なかったので、
道後温泉に行き、松山市内のデパートをハシゴし、
パチンコ屋を開拓し、松山城の周囲をしょっちゅう散歩していた。
パジャマ姿で(泣)。

あるときなど、私が見舞いに行くと病室のベッドがモヌケの空で、
しばらく待っていたら意気揚々と舅が戻って来、
「いやー、すまんかったの。ちょっとそこらへん歩いとって」
「・・・・・・・・(^_^;」
「三越まで行ってみたんじゃが、まあ、どういうこともなかった」
「おとーさん、無茶なさっちゃ、いけませんよ」
「わりぃわりぃ。外出届くらい出さんといけんかったよの」
そーじゃなくて、そんなパジャマ姿で三越に(涙)。
よくぞ補導ってか、保護されませんでしたね。
・・・・って、え?届けも出しとらんかったのか!?

舅が四国がんセンターを退院し、我々も広島転勤がかない、
転勤族一家で佐伯区の舅宅に帰ってきてからも、
舅は、パジャマを脱がなかった。
「じーやんじゃけ、えかろ」
とつぶやいて、そのままのナリで外出したものだった。
足下は勿論、サンダルばきだった。

姑が敗血症で長期入院したときも、舅は毎日見舞ったが、
やはりパジャマ姿のまま、自家用車を運転して出かけていた。
病院に着いて車を駐車場に入れてから、
「なんか、入院患者が外から来たみたいなのぅ」
とさすがに状況を把握しているところを見せていたが、
行動が改まることは、なかった。

姑を見舞ったあと、舅はエレベーターの中で、
「あちゃ、しもうた!」
と言い、見たら、病室のスリッパを履いたままだったことがあった。
姑の部屋で過ごすのに、サンダルをスリッパに履き替え、
帰りは忘れて、そのまま出てきてしまったのだ。
しかし彼はこれまた、
「ま、めんどくさいけ。明日も来るしの」
と、その日は、もう病室まで履き替えに戻ることはしなかった。
確かに、水虫対策の草履のようなサンダルと、病院スリッパとでは、
スタイル的に言っても、あまり落差はなかったかもしれない。

その帰りの車の中で、舅は私に、
「どや、メシ食うて帰るか」
と言った。誘ってくれたのは嬉しかったが、
「え・・・。い、いいんですか、おとーさん」
「ええよええよ!遠慮しんさんなや!」
いやその、遠慮っていうか、あのですね、
パジャマ着て、病院スリッパで、ファミレスに行くのが、
おとーさんが、いいのかなって、思って・・・・・・・・・。

**********

今でも、舅宅に行くと、愛用のパジャマが何枚も残っている。
これ着て、冬は襟巻きして、ちゃんちゃんこ羽織って、
くわえ煙草で、ばりばり運転して、パチンコに行ってたなー、
と、ロクなことを思い出さないヨメなのでございます~(逃)。

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この10月から漢詩を習いに行っていることは以前書いた。
なんで唐突に漢詩を始めたんだと言われると、
一応、天中殺だから決めました、というのが直接の答えなのだが(汗)、
漢詩を読む、という勉強は、「いつか、やりたい」ものとして
私の中に長年あったのは本当だ。

漢詩との出会いは中学2年か3年のときだった。
国語の時間に、教科書の「古典」の単元で出てきた、
『黄鶴樓送孟浩然之廣陵』という李白の七言絶句に、
私は一目惚れしてしまったのだ。


黄鶴樓送孟浩然之廣陵
 故人西辭黄鶴樓
 煙花三月下揚州
 孤帆遠影碧空盡
 惟見長江天際流

黄鶴樓(こうかくろう)に
孟浩然(もうこうねん)の 廣陵(こうりょう)に之(ゆ)くを送る
 故人 西のかた 黄鶴樓を 辭(じ)し、
 煙花(えんか) 三月(さんがつ)揚州(ようしゅう)に 下る。
 孤帆(こはん)の 遠影 碧空(へきくう)に 盡(つ)き、
 惟(た)だ見る 長江の 天際(てんさい)に流るるを。


友人の孟浩然が広陵(揚州)に行くのを黄鶴楼で見送った、
という、唐の時代の李白の詩なのだが、
日本語で書かれた文学にはあり得ない言葉遣いや韻律に、
私はろくに意味もわからない段階から強烈に惹かれた。
今まで読んだこともなければ、勿論書いたこともない種類の言葉で、
文語調の日本語として知っていた響きとも違い、衝撃的だった。
けぶるように美しい春霞の光景を「煙花」、
ぽつんと遠くにひとつだけ見える帆掛け船の姿を「孤帆遠影」
と表現する漢字の威力にも感銘を受けた。

何より最後の「惟見長江天際流」、
「惟(た)だ見る」のは単に長江の流れる様を見るのではなく、
ましてや友人の乗った船の姿を見続けるのでもなく、
船の影が消えてしまった=友人が行ってしまったあとを
ただ、見ている、……という描写の余韻に私は畏れ入った。
姿が見えなくなっても、友人の行く先となったであろう方を
ずっといつまでも見つめ続ける李白の、断ち切れぬ思いが、
「天際流」という語に込められていると思った。


がつがつ勉強なんかして何になるのか、と問う若い人や、
学校の成績なんか意味がない、と仰る識者の方もいらっしゃるが、
私は少なくとも、公立の学校の、普通の授業で教えて貰ったことが、
四十歳を過ぎた今でも、こうして自分の中で大きな意味を持っている。
全く実用的でなくとも、社会に出て直接使えることでなくとも、
私を変えた出会いのいくつかは、教科書の勉強の中に、確かにあった。

国語の時間に習わなかったら、私は、
このような種類の文体の美しさや、中国文学の見事さを
知る機会が、もしかしたら無かったかもしれないのだ。
そうした教科書を使い授業で漢詩や漢文を勉強した御陰で、
私はこんなオバさんになっても、心震えるような瞬間を持つことができ、
それらを習った十代の日々のことをも、懐かしく大切に思い返している。
教科書にも、授業をして下さった先生にも、学校にも教室にも、
私は今でも、とても感謝している。

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