転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



飛鳥見学の最後に、畝傍山の麓の橿原神宮に参ったのだが、
これが、もう、ドギモを抜かれる大きさだった。

観光地にはよく大きな神社があるが、
ここはどうも、神社としての格が段違いだという趣があった。
こういうものに詳しくないので、単にシロウトの印象なのだが、
この神社は、何か、尋常でないものがありそうな雰囲気だった。
とにかく圧倒されるような社殿だった。

神社の由来としては、神武天皇の宮があったとされるこの地に、
神武天皇をお祀りするために、明治になって建てられた官幣大社で、
伊勢神宮のようにとてつもないものではない筈なのだが、
伊勢の外宮より大きいだろうと思われる敷地面積だった。
橿原神宮の北側には神武天皇御陵もあるのだそうで、
登ってはみなかったが、想像を絶する規模だということはわかった。

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蘇我氏の氏寺で、蘇我馬子によって596年に建てられた。
もとはもっと広大な敷地の寺院で、
中大兄皇子と中臣鎌足が出会った蹴鞠会なども、
この寺院の庭園で催されたと言われているが、
後に、農地改革で縮小されて現在のかたちになったようだ。
蘇我入鹿の首塚も寺院を出てすぐの場所にあった。
大化の改新で処刑された蘇我入鹿の首が、
火を吹いてここまで飛んできた、という伝説があるそうだ。

飛鳥寺の本尊は、推古天皇が帰化人の鞍作鳥に命じて、
609年に造らせたという金銅仏の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)で、
東大寺の大仏より更に150年ほど昔のものだと推定されている。

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丘の上(上るのがちょっとキツかった)に酒船石と呼ばれる、
用途不明の、花崗岩の大きな板みたいな平らな石があって、
それには太い溝が何本も彫り込まれており、
付近には水を引いたと見られる地形も残っているのだが、
そこから少し下ったところに、この、亀形石がある。

飛鳥時代は、何かというと「亀」で、
これも円形部分が亀のかたちになるように細工がされている。
斉明天皇禊ぎの場と言われているのだが、定かでないようだ。

今の、天皇皇后両陛下が来られたことのある場所で、
記念の立て札があった。

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岡寺は、日本最古の厄除け霊場で、
奈良時代末につくられた塑像観音像があることで有名だ。
内部は撮影禁止になっていたので、観音像の写真は無いのだが、
土で作られた如意輪観音座像としては日本で最古・最大のものだ。

ここまで連れてきて下さったタクシーの運転手さんが、
「観音さんだから、奥さんが厄除けするのに良いよ。
女は観音さん。男は不動明王だからね」
と仰ったとき、咄嗟にヤンクミ@ごくせんを連想した私は、
どんだけマンガに毒されてますか(爆)。

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横穴式石室を持つ7世紀頃の方形墳。
昔は土で覆われていたようなのだが、
今は石室部分だけが露出したかたちになっている。
近くに蘇我邸があったと考えられているので、
これは蘇我馬子の墓ではないかという説があるが、
定かではないようだ。

昔は、付近の子供達は上に上って遊んだりしていたのだそうだが、
今は勿論、乗ったりしてはいけないことになっている。
が、内部には入ることができる。広い石室だった。

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亀石の東のほうにあるお寺で、聖徳太子生誕の場所と言われ、
かつては欽明天皇の《橘の宮》という別宮のあったところ。
天台宗の寺院。

本尊は聖徳太子35歳の像だそうだが、
非常に顔つきがりりしく品格の高い仏像だった。
庭には飛鳥時代のものだという石造仏二面石があり、
善の表情と悪の表情が背中合わせになって、
ひとつの石造仏になっていた。


・・・聖徳太子というか、厩戸の王子というと、
山岸凉子の『日出処の天子』のいろいろを思い出してしまうのは、
さすがに、家族でも私ひとりのようだった(汗)。

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さきほどの鬼の雪隠やまな板の近くに、「亀石」があるのだが、
あたりは田園地帯で、家屋と田畑が続くのどかな風景なので、
それらの間に観光名所が点在しているのは不思議な感じがした。

亀の背中側は天然石のままのようだが、
顔のあたりは細工されたものだということがわかる。
推古朝の頃のものだという説があるが、
誰がどういう目的で造ったものかは不明であるらしい。

ユーモラスで可愛い顔をした亀に見えるが、
この亀が生の国と死の国を分ける位置にいるのだそうだ。
亀石から南側は古墳の多い「死の国」、
北側は別の家並みが連なる「生の国」、ということだった。

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「鬼のまな板」から坂を下ったところに、この「鬼の雪隠」があった。
実は、さきほどの「鬼のまな板」の上に乗っていた部分だそうで、
何かの拍子に転がり落ちて、ここに収まったということだった。

「雪隠って、・・・どっちむきに使うんかね」
と主人が知りたがっていた(--#)。

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飛鳥資料館が年末の休館日に入っていて、
高松塚古墳やキトラ古墳についてはほとんど見学できなかったが、
キトラ古墳のほうは、発見場所を外から見た。
小屋のようなものが横に建てられ、
そこで古墳内部の湿度管理がされていると
タクシー運転手さんが仰っていた。

付近は竹藪が多く、山のかたちも古墳を思わせるお椀型で、
もし大規模な発掘調査が行われたならば、
さらにあちこちから古代遺跡に類するものが出そうだった。
が、竹藪もそれぞれ個人所有であるため、
国が、アテもなく掘り返すワケにはいかないのだった。

それで、キトラ古墳の次に行ったのは、この「鬼のまな板」。
鬼だとか、まな板だとか言うのは、勿論、後付けの伝説で、
これもやはり古墳の何かで、石でできた基礎の部分らしかった。

「鬼のまな板」「鬼の雪隠」や「石舞台古墳」など、
古代の明日香村界隈は、大きな石がごろごろあったようだ。

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晴れた日は巨大仏を見に(爆)。

宮田珠己氏の『晴れた日は巨大仏を見に』を思い出して、
娘とふたりでオオウケしてしまった。すみません。

これの右手の山の中腹にも、もう一体、
ギョっとするような巨大観音があった。

これらは、比較的新しいものだった。

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