転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



(以下は、雪組公演『カラマーゾフの兄弟』および原作小説に関する、
ネタばれを含む文章です。結末は自分で見る(読む)まで知りたくない、
とお考えの方は、絶対に下の文章をお読みなりませんように。
私は以下の記述で、殺人事件の真犯人および物語の結末を明かしています。)


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・全体としては、あの長い小説を、よくぞ二時間にまとめた、
と驚くような脚本の出来映えだったと思った。
私は今の宝塚には、殊更に贔屓の生徒さんはいなくて、
今回は題材に惹かれて見に行ったのだが、
私にとっては、期待を裏切られない充実した舞台だった。

・限られた上演時間、若い女性ばかりのキャスト、ミュージカル仕立て、
という、およそドストエフスキーとは相容れない(爆)条件にも関わらず、
原作小説の骨子となった部分を過不足なく巧く取り入れられるとは、
私は観劇前には予想もしていなかった。
特に、ドミートリーとグルーシェニカの恋愛を中心にしながらも
イワンの悲劇、スメルジャコフの存在意義、アレクセイの立ち位置、
など、触れるべきどころにはきちんと触れていたのが良かった。

・原作小説では、下男スメルジャコフの父親が誰なのかは不明瞭で、
訳者や解説者によっては父親はグリゴーリーとする説もあるが、
今回の舞台では、映画(1968年・ソ連作品)と同様、
スメルジャコフの父親はフョードルである、という設定になっていた。
これの御陰で、スメルジャコフもまた「カラマーゾフの兄弟」であった、
という筋が通り、タイトルの意味合いがいっそう鮮明になる効果があった。
また、スメルジャコフがイワンの思想に共鳴し心酔した理由も、
彼がカラマーゾフの兄弟のひとりであればこそ、
理論だけでなく「血が呼び合った」ような納得感があった。

・イワンの分身であり陰である彼自身のもうひとつの声を、
最初から『イワンの幻覚』として別の役者にさせる演出も秀逸だった。
『イワンの幻覚』は物語の大半ではイワンに寄り添い、
彼にとって不愉快ではない彼の内面を代弁する役割を果たすが、
終盤、法廷でイワンが証言したところから、
俄に『イワンの幻覚』はイワンとは別の自己主張を始める。
真犯人はスメルジャコフだと言明したイワンをみて、傍聴人たちは、
「下男に罪をかぶせて。次男が真犯人か」と誹謗中傷し、はやしたて、
彼らの得手勝手な興奮と悪意にさらされたイワンが
「何なんだ、こいつらは」と愕然とした時、
「これが、お前が救おうとした民衆の真の姿だ」
と『イワンの幻覚』が冷たく告げる、あの展開は素晴らしかったと思う。

・原作から入った者としてウケたのは二幕冒頭の『大審問官』だった。
原作ではこの部分は極めて重要な思想的ハイライトのひとつであり、
一大物語詩『大審問官』とそれに至るイワンの思考には
相当の頁数があてられているのだが、なんとこの舞台では、
「♪だ~い、しん!もん!かん!」
とスバラしく元気な長調の行進曲風になって登場したので畏れ入った。
しかも、「我々は、(貴族だけでなく)神をも裁く、大審問官だ」
という一言で大審問官を定義されていたのも凄かった。
あの長大なドストエフスキー作品をもとに、
『筆者の主張を二十字以内で簡単にまとめなさい』
と言われ、やってみたら、出来た、みたいな現実に私は脱力した(逃)。

・ラストは、有罪判決を受けシベリアに送られるドミートリーに、
グルーシェニカがついて行く、という結末だった。
小説では未来ある少年たちが、アレクセイを囲んで力強く万歳を叫ぶ、
将来を暗示するようなラストシーンになっているのだが、
映画と同様、この舞台もアレクセイの物語には力点が置かれていないので
少年たちも全く登場しないし、ロシアの未来への予感も描かれない。
何もかもなくしたドミートリーに、グルーシェニカとの愛が残り、
絶望したイワンのそばにはカテリーナが寄り添い、
アレクセイも俗世に戻ってリーズと婚約する、
という、いささかご都合主義だが後味は悪くない決着で、
このお芝居は閉じられている。
・・・そのあとにつく、超ポピュラーなロシア民謡のフィナーレは、
ベタな感じはしたが、宝塚歌劇なので、あれもアリかなと(苦笑)。
フォークダンスでお馴染みコロブチカなんかを
まさかカラマーゾフの悲劇のあとで聴こうとは思わなかった。
歌詞が橋幸夫と一緒かどうかは、確認しなかったが(爆爆)。


(続)

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