日朝協会「京都府連合会」です。韓国・朝鮮との友好を進める、日本人の団体です。1カ月¥500 841-4316福谷気付

 世界の出来事から日本・韓国・朝鮮の未来を見る。
 皆さんの声を生かして活動を進めます。

芳洲庵を訪ねて No.7

2008-05-20 | 投稿・投書・私の意見

NO.7享保の通信使と芳洲

  第9回1719(享保4)年の時2度目の通信使を護行して江戸まで行き来していま

す。この時芳洲は52才でした。将軍吉宗のお祝いの使節でした。

前回の改革が元に戻されたこともあって穏やかな交流が行われました。

  通信使は毎回、日本訪問の記録残しています。

この時の記録は、使節の中の製述官申維翰の紀行本「海遊録」に詳しく残されて

います。

  申維翰は芳洲のことを「雨森はすなわちかれらの中では傑出した人物である。

よく三国語に通じ、よく百家の書を弁じ・・・よく漢語に通じ、詩文を解し日東国の

ぎょう楚(抜群の人)である。」と賛辞を表しています。


芳洲庵を訪ねて、 NO.6

2008-05-20 | 投稿・投書・私の意見

NO.6 正徳の通信使と芳洲

  第8回1711(正徳元)年の通信使のとき 芳洲は初めて真文役をつ務

めています。

 この時芳洲は、44才でした。将軍家宣の襲職を祝う使節でしたが、幕府

の中心で活躍することになった新井白石の提案で通信使の接遇などをめ

ぐる改革が行われいくつかのトラブルが生じました。

  中でも将軍の称号をめぐる問題や朝鮮国王と将軍の交わす書簡の中

の一文字をめぐって両国の間で紛争がありました。

  外交文書や応接について芳洲は、使節と幕府の間に入り、対馬藩の立

場を考えながら友好のため、激しい反論やねばり強い調整に務め、友好関

係を損ねることなくその職を勤めました。