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ノルムンリ(板門店)で始まった平和の波がジャカルタを越えて世界へつながるよう、インドネシアに居住する同胞とワンコリア共同応援団が集まった。

2018-08-21 | 青年が自分たちの問題として

「体育だけではなくすべての分野でコリア単一チームを作ろう」

登録:2018-08-20 06:30 修正:2018-08-20 07:53

 
「2018アジア競技大会」に出場する南北単一チームと南北選手らを応援するための「ワンコリア共同応援団」や現地海外同胞が今月19日午後、インドネシア・ジャカルタ・コリアハウスで「ワンコリアフェスティバル」行事を開いている=ジャカルタ/カン・チャングァン記者//ハンギョレ新聞社

 2018アジア競技大会(ジャカルタ・パレンバン)は4・27板門店(パンムンジョム)宣言以降、初めて南と北が一堂に会した国際スポーツ行事だ。ノルムンリ(板門店)で始まった平和の波がジャカルタを越えて世界へつながるよう、インドネシアに居住する同胞とワンコリア共同応援団が集まった。

 2018アジア大会のワンコリア共同応援団組織委員会は19日午後4時(現地時間)、インドネシア・ジャカルタのスディルマン・ミレニアタワーに設けられたコリアハウスで、「2018アジア大会ワンコリアフェスティバル」を開いた。イ・チャンボク組織委員長は「韓国と北朝鮮が平昌(ピョンチャン)冬季五輪で交流の突破口を開いたとすれば、今回のジャカルタ・パレンバン・アジア大会は両手をもっと固く取り合うことを約束する場」だとし、「遠からず体育以外にもすべての分野でコリア単一チームが作られるように力を合わせなければならない」と述べた。

 在インドネシア韓人会とワンコリア共同応援団員など約200人が、フェスティバルが開かれたコリアハウスで、翌日に予定された女子バスケットボール南北単一チームの第3戦を予め応援する場面もあった。彼らは前日開幕式場で公演をした農楽「サルパン」のサムルノリの曲に合せて「アリラン」を歌い、統一旗を振りながら「私たちはひとつだ」、「頑張れコリア」などの掛け声を叫んだ。サルパンのある公演団員はサムルノリの「獅子舞」の途中で、被っていた獅子の頭を脱いで、ト・ジョンファン文化体育観光部長官とキム・ドクリョン民主平和統一諮問会議首席副議長に渡した。受け取った獅子の頭を被った長官とキム副議長も舞台に出て、踊りながら会場を盛り上げた。続いての公演では、先週4月の平壌(ピョンヤン)公演に参加した歌手カン・サネ氏さんがマイクを握り、「(1人で)平壌に先に行ってきて申し訳ありません。だけど、私たち皆が自由に(平壌に)行ける日が遠からず来ると信じています」と話した。

 同日昼、コリアハウスの開館式に出席したト・ジョンファン長官とアン・ミンソク国会文化体育観光委員会委員長も、「ワンコリアフェスティバル」を訪れ、激励の言葉をかけた。ト長官は「先月、忠清北道忠州(チュンジュ)の漕艇競技場で、南北の選手たちが一緒に船に乗って練習する姿を見て、まさに『同じ船に乗った』という気がした」とし、「体育などの文化芸術交流を通じて、南北が平和に共存する体制を作るため、応援団員が先頭に立ってくれたことに感謝する」と述べた。アン委員長は「2020年に開かれる東京オリンピックでは、今回のアジア大会よりさらに多くの種目で、南北単一チームが構成されることを期待している」とし、「アジア大会が終わり次第、東京オリンピックの単一チームをできるだけ多く構成するための準備を開始するつもりだ。2年後には『ワンコリア』のイベントに北朝鮮代表団も一緒に参加し、文字通り『ワンチーム』になることを願う」と話した。

ジャカルタ/チェ・ミニョン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)

韓国5・18光州弾圧事件記録館、米機密文書完訳本1次分析を発表 

2018-08-21 | でっち上げ?

「光州で人民裁判」新軍部、5・18偽情報を米国に提供した

登録:2018-08-20 22:24 修正:2018-08-21 07:43

5・18記録館、米機密文書完訳本1次分析を発表 
記録館「新軍部、クーデター合理化のため情報ねつ造」

5・18記録館が20日発表した「米国のジャーナリスト、ティム・シャーロック記者が2016年に寄贈した米国政府の機密文書を完訳し、1次分析した結果」の一部=5・18記録館提供//ハンギョレ新聞社

 全斗煥(チョン・ドファン)新軍部が、1980年5・18民主化運動の時に武力鎮圧の正当性を確保するため、光州(クァンジュ)で市民軍が人民裁判をしたなどの偽の情報を流していたことがわかった。光州の状況を韓国の危機にねつ造し、自分たちの軍事反乱を合理化しようとしたという分析だ。実際、米国はこういう誤った情報を基に、新軍部の道庁鎮圧作戦を黙認したと分析された。

米国の探査ジャーナリスト、ティム・シャーロック氏=資料写真//ハンギョレ新聞社

 5・18記録館は20日「米国の調査報道専門記者であるティム・シャーロック記者が2016年に寄贈した米国政府の機密文書を完訳し1次分析した結果、当時米国の判断を誤らせるために、全斗煥など新軍部が“注入した情報”(プランテッド・インフォメーション)が多かった」と明らかにした。翻訳本は、1979~80年に米国務省と駐韓米国大使館の間を行き来した電文、米国大統領と行政府の首班が報告を受けた内容と、会議録が含まれたチェロキー文書、米国防総省・中央情報部(CIA)の機密文書など合計3530ページにのぼる。駐韓米大使館と軍事情報機関が、韓国の行政府、国防部、軍部、韓米連合司令部などの人々から入手し報告した情報だ。

5・18記録館のナ・ウィガプ館長が20日、ティム・シャーロック記者が2016年に寄贈した米国政府の機密文書を完訳し1次分析した結果を説明している=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 今回の分析結果で特に注目される内容は、全斗煥など新軍部が誤った情報を英語で作成し、米国の国防情報局(DIA)などに提供していたという点だ。1980年5月26日午後3時、駐韓米大使館が米国務省に送った韓国状況報告文を見れば、「5月25日の報告によれば(光州で)自警団員が活動し、回収された武器を過激派が確保し、さらには人民裁判が開かれ処刑もあったということ」という記述が出てくる。また、新軍部は「武装暴徒2000人が長期抗争のために無等山(ムドゥンサン)に逃避しひそんでいる」という虚偽の内容をねつ造し、米国に流していた。5・18記録館のナ・ウィガプ館長は「新軍部が、5・18は急進主義者によって指揮されており、放置すれば韓国が第2のベトナムになるように見えるよう情報ねつ造工作をした」と話した。

戒厳軍は1980年5月27日、5・18民主化運動を武力で残忍に鎮圧した。1980年5月27日、光州で鎮圧が終わった後、新軍部の核心だったチョン・ホヨン当時特戦司令官(右端)がチャン・ヒョンテ当時全羅南道知事と握手している=5・18記録館提供//ハンギョレ新聞社

 全斗煥新軍部は、光州刑務所襲撃説もねつ造して米国に伝達したものと推定される。この機密文書には「暴徒はさらに300人余りの左傾分子が収監されている刑務所も攻撃したが、今後彼らが地下共産主義勢力の操縦を受けているという憂慮を生み出すことになった」という内容が出てくる。だが、5月光州地方裁判所民事23部(裁判長 キム・スンフィ)は全氏が出した『全斗煥回顧録』で「光州刑務所襲撃事件」は虚偽だとし、削除するよう命じた。

全羅南道地方警察庁が80年6月3日に作成した原資料によれば、羅州警察署の潘南支署攻撃時刻は戒厳軍の集団発砲以後の午後5時30分と書かれている=資料写真//ハンギョレ新聞社

 新軍部は1980年5月21日午後1時、道庁前集団発砲に対しても偽の情報を流した。機密文書には「暴徒が攻撃を繰り返したが、戒厳軍は一発も発砲していない」とされている。当時、新軍部も市民が武器を奪取して自衛権確保次元で道庁前集団発砲をしたと繰り返し主張してきた。しかし、実際には非武装の市民に対し戒厳軍が無差別的に集団発砲し、数十人の死傷者が発生した。さらに保安司令部は、1988~89年の国会聴聞会にまで市民の羅州(ナジュ)警察署潘南支署武器奪取時間を1980年5月21日午前8時と改ざんして報告した。しかし、光州市民による武器奪取時刻は、戒厳軍の集団発砲以後の午後5時30分だった。

 米国は、新軍部の全羅南道庁鎮圧作戦も事前に把握していたことが確認された。国務省東アジア太平洋局が5月25日に受けた状況報告には、「陸軍の実力者である全斗煥は、自身が光州の過激勢力にだまされたとして、軍事行動が必要だと結論付けたという。クライスティン駐韓大使は、月曜日午前に政府高位代表団が光州に行き、状況解決のための最後の試みをする予定だと話した。しかしもし彼らが失敗した場合、都市を再掌握するための軍事作戦がおそらく24~36時間以内に実施されるだろうと言う」と記されている。こうした新軍部の無慈悲な道庁鎮圧作戦に対して、米国は何の対応もしないことにより、事実上これを黙認した。新軍部の偽情報が米国の黙認を引き出したわけだ。

チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

手をつないで2時間ずっと語り合う  北に置いてきた二人の娘に会った母親は  老病でも娘たちの顔すぐに分かる 

2018-08-21 | 板門店宣言を次々実行

「サンチョル!」生き別れから67年ぶりに母は息子を抱きしめた

登録:2018-08-21 06:09 修正:2018-08-21 07:34

南北離散家族再会の初日 
すでに亡くなった夫の写真に涙 
手をつないで2時間ずっと語り合う 
北に置いてきた二人の娘に会った母親は 
老病でも娘たちの顔すぐに分かる 
「アイゴ」頬ずりしながら嗚咽

20日、金剛山ホテルで開かれた第21回南北離散家族再会行事で、南側のイ・グムソムさん(92)が避難途中で別れた当時4歳だった北側の息子、リ・サンチョルさん(71)と67年ぶりに会って抱きしめている=金剛山/写真共同取材団//ハンギョレ新聞社

 母親は67年前に避難の途中ではぐれた息子をぐっと抱き寄せた。「サンチョル!」数十年間忘れられなかったその名前を、何回も呼んだ。

 20日、金剛山で開かれた第21回離散家族再会事業でイ・グムソムさん(92)は、北側から来た息子のリ・サンチョルさん(71)の顔を撫でながら嗚咽した。彼女は朝鮮戦闘当時、避難途中で夫や4歳の息子とはぐれた。「お父さんです、お母さん」。サンチョルさんが生前の父親の写真を見せながら、こう言った。息子は、南北のように分断された両親の人生を無念に思ったか、涙を堪えられなかった。「子どもは何人いるの?」90代の老母は、これまで胸に納めてきた疑問を速射砲のように次々と吐き出した。2人は手を握り締めて積もる話をしていた。無情な時間が光のように流れた。

 催し初日のこの日、韓国側訪問団89家族197人が金剛山を訪れた。百寿を目前に控えたハン・シンジャさん(99)は、北に残してきた二人の娘、キム・キョンシルさん(72)とキョンヨンさん(71)に会った。北朝鮮から来た二人の姉妹は母が近づいてくると、腰を90度曲げて挨拶してから、涙をこぼした。言葉を詰まらせたハンさんが「アイゴ…」とうめき声を漏らした。戦争当時、ハンさんは生まれたばかりの末娘だけを負ぶって避難した。当時15歳と14歳だった姉妹はそれぞれ叔母の家と実家に預けた。2、3カ月で帰って来られると思っていた。子供たちを孤児にしたという自責の念に、数えきれないほどの眠れない日々を過ごした。老病で耳がよく聞こえなくなってから10年が過ぎており、白内障のせいで目もかすむ。それでも二人の娘の声と顔はすぐに分かった。

第21回離散家族再会行事1回目の初日の20日午後、高城の金剛山面会所で開かれた団体再会で、南側のハム・ソンチャンさん(99)が北朝鮮側から来た弟のハム・ドンチャンさん(79)と抱き合って喜んでいる=金剛山/写真共同取材団//ハンギョレ新聞社

 キム・ヘジャさん(76)は北側から来た弟のキム・ウンハさん(75)と話を始めてから5分後にようやく涙をこぼし始めた。「私の弟に間違いない!」。解放後、キムさんは父親と南に、母親は弟と母方の実家に行っていたが、戦争が起きて生き別れた。弟のウンハさんが亡くなった母親の写真を取り出して見せた。「お母さんに違いない、アイゴー、お父さん!」。キム・ヘジャさんは1983年にKBS(韓国放送)の離散家族捜索生放送をした時も、立て札を持って家族を探そうとしたことがある。「73年ぶりだよ、解放の時に別れたから。ああ、本当に嬉しい。もしかしたら違うかもしれないと心配していたけど、間違いない!」

 「ふろしき包みを背負って学校に通うときに」別れた南側のキム・ビョンオさん(88)と北側の妹キム・スノクさん(81)は、元教師と医師となって再会した。「再会が決まった日からほとんど眠れなかった」と兄は言った。「兄さん、これは私が医大在学当時の写真だよ。私、平壌医大を卒業した女医だよ。平壌で本当に尊敬されて暮らしている。ガスも毎月もらっているし」。妹のスノクさんは65年以上の歳月に追いつこうとするかのように、語り続けた。「妹がこんなに立派になって、本当に光栄に思う。私は30年間高校の先生をして、校長として定年退職してからもう10年だ」。兄妹は互いに顔を見合わせながら笑った。「血筋は隠せない。兄さん、本当に私にそっくり。兄さん、統一したら、どんなにいいか。統一したら、たった1分でもいいから、一緒に住んでから死のう、兄さん」

 兄のチョ・ジョンイルさん(87)は、北側の末弟、チョ・ジョンファンさん(68)を見た途端、涙をこぼした。「越南した家族が再会を申し込んだら、被害が及ぶかもしれないと思って」再会の申請すらとまどっていた彼は、「生死が確認できただけでも嬉しい」と話した。ジョンイルさんが直接名前を付けてあげた、戦争が起こった年に生まれた末弟は、家族写真を取り出した。色あせないようにきっちりコーティングした写真だった。「私と似てるでしょう。私は父にそっくりだよ」。チョさんは写真に見入っていた。

第21回離散家族再会行事1回目の初日の20日午後、高城の金剛山面会所で開かれた団体再会で、南側のチョ・ヒェドさん(86)が北側から来た姉のチョ・スンドさん(89)を見て嗚咽している=金剛山/写真共同取材団//ハンギョレ新聞社

 同日、南北の離散家族らは、写真を見ながら歳月をさかのぼり、年老いた顔から互いに幼い頃の面影を見つけようとしていた。キム・ダリンさん(92)が北側の妹キム・ユドクさん(85)に「年取ったね」と言うと、妹のユドクさんは「兄さんに会いたくてこんなに長く生きてきた」と言いながら涙を浮かべた。「どうしてこんなに年を取ってしまったの。子どもの頃の面影が薄くなった。目が大きかったのに。本当にお母さんによく似ているよ」。ムン・ヒョンスクさん(91)は北側の二人の妹から母親の面影を見た。北側の姉チョ・スンドさんに再会したチョ・ヒェドさん(86)は「美人のお姉さんがこんなに年を取ってしまうなんて。それでもすぐにわかったよ。私にそっくり」と言いながら笑った。「夢か現実が分からない」「嬉しすぎて、足が震える」「娘の結婚式を延期してきた」という家族もいた。

 南側の離散家族たちは同日、朝8時35分にバス20台に分乗して東海線陸路を経て、金剛山に到着した。その後、団体再会と北側主催の歓迎晩餐会に出席した。晩餐会で南側の老いた母親が震える手で箸を付けようとすると、北側の娘が素早く“唐揚げ”を母親の口に入れてあげる場面もあった。兄弟たちは大同江ビールで乾杯していた。21日には「個別再会」が午前10時から午後1時まで、外金剛ホテルで開かれる。

金剛山/共同取材団、ノ・ジウォン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)