萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

ウィーンの歴史

2007年08月04日 | 中欧の旅

<18世紀のウィーン>

朝八時からの、会社の野球チームの練習をこなして、12時前に家に戻る。風呂に入って、ビールを呑みながら、マリナーズ対レッドソックスの試合を観る。城島の12号ツーランホームランなどでボストンを破る。これで首位エンゼルスに2.5差。ヤンキースは勝ったので、ボストンに7ゲーム差と迫った。いい傾向だ。

さて、今日はウィーンの歴史を見てみる。
(以下は主にウイキペディアから引用)


◆ローマ時代

ウィーンはローマ帝国の北の境界にあたる位置にあり、ケルト語源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。


◆ハプスブルク家の帝都

中世、ドナウ河沿いの交易地として発展したウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに都を移したことに起因する。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。

14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院(シュテファン大聖堂)やウィーン大学(1365年)が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。

16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。一時はオスマン帝国による第一次ウィーン包囲(1529年)など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあったが、ハプスブルク家のもとで帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外に造営された(現在は市内)。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。

1809年にはナポレオン軍が占領。19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは農村からの人口流入により急激な人口増加を経験した。1869年に63万人であった人口は、1910年には、203万を数え、当時のヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年には万国博覧会も開催されている。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状の道路(リンク)と置き換え、路面電車を導入するとともに、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造によっている。

帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。

◆第一次大戦と帝国の崩壊

1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ帝国・オーストリア帝国の敗北をもって終了。ハプスブルク家のオーストリア帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。このような時代をウィーンで過ごしたヒトラーはやがてドイツで独裁者となり、ヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。


◆永世中立国の首都として

1945年、第二次世界大戦はドイツの敗北に終わり、ウィーンは米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれた。1955年にオーストリアは主権国家として独立を回復。旧ハプスブルク帝国の継承国家の殆どが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党は国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。オーストリア人のクルト・ワルトハイムは国連事務総長としてウィーンをニューヨーク、ジュネーブにつぐ第三の国連都市にすることに成功した。ウィーンは数々の国際機関の所在地となった。しかし、鉄のカーテンにより、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口はゆるやかに減少を続けた。人口100万人以上の大都市のうち、20世紀を通して人口が減少したのはウィーンだけである。


◆現代のウィーン

1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンのもつ価値を蘇らせた。ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてはプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっている。


プラハ同様、ヨーロッパの真ん中に位置するため、さまざまな欧州の事件、出来事には巻き込まれている。ただし、「ハプスブルク家の帝都」として栄えた700年間という歴史上の重み、存在感がプラハとは違うようだ。
コメント (2)
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