萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

25回目の断食日

2007年05月31日 | 健康、ダイエット

<アジサイの花が咲き出した。梅雨近し。>

昨日の30日(水)が年一回の健康診断日だったので28日(月)を24回目の一日断食日とした。ついでに29日も断食を続け1~5月のノルマ25回目(年60回ペース)を達成してしまおうかとも思ったが、仕事に影響しそうなのでやめた。

29日はいつものようにお粥を炊いて断食明けの儀式とした。昼は会社の近くで鴨せいろをいただく。この時点で考えた。29日の晩と30日の朝と昼を抜いて30日の18時以降に食事をとれば、30時間以上の絶食になる。いつものパターンとは変則となるが、これも暫定一日断食としてもよかろう。これで25回達成となる。

ということで29日の晩は飯抜き。明日検診場所に行ってから社に出勤するので、会社のクルマで帰宅する。会社を20時に出て高速を使うと30分で家に着いてしまう。電車と歩きだと1時間半はかかるのに。やっぱ速いねクルマは。満員電車の不愉快さもないし。が、小生は電車通勤を選ぶ。健康と環境にやさしいからだ。(気が向いた時にいつでも呑める、という利点もあるし。)

30日午前中は健康診断。朝はもちろん、昼飯も抜く。変則25回目ラマダンを実施したので、結果的に日曜の夕方に南紀白浜で刺身で一杯やって以来、月曜、火曜、水曜の夕方までで水分以外で胃に入れたものはお粥と蕎麦とバリュームだけというひもじい生活になった。南紀での2日間の飽食が夢のようである。

もちろんタダでは帰らない。精進落しをせずにおらりょうか。近頃見つけた酒田出身の亭主のいる店によって、美味しいものとお酒を補給する。ここのお造り盛合せは新鮮なネタを使うのでいい。今日は雲丹、赤身鮪、カンパチ、鰈。どれも美味で酒がすすむ。価格も一人前千円とお手頃だ。酒は「飛露喜」や「田酒」などを良く冷えたグラスに注いでくれる。この他にお勧めの焼き魚もいただく。小ぶりで身がしまっていて、塩焼きにしたのをポン酢で食す。これも冷酒にあう。魚の名?えーとメバルじゃないし、うーん、思い出せん。二回も聞いたのに。歳はとりたくないものだ。

いい気分になった所で、雨の止んだ夜道を歩いて帰る。


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インドを走る! 第10話 「一難去ってまた一難」

2007年05月30日 | 自転車の旅「インドを走る!」


※「インドを走る!」について


 M君が高熱を発する。昨晩は頭痛腹痛の為一睡もしていないという。39.6度もある。さっそく、毛布を借り、トンプクを飲ませる。E君本にて病名を探ぐる。マラリアの疑いあり。マラリアというのは初期症状において、三日に一度ぐらい高熱を発するのだそうだ。M君は三日前にカンプールで高熱を発している。これは大事である。すぐに病院へ連れて行く。ドクター、普通の風邪だという。ひとまず安心する。

 ホテルに戻ってきてM君を寝かせつけると、私もE君も何故か疲れ、麻で編んだベッドに身を横たえる。柔らかなまどろみが気だるい全身を徐々に包み込んできて、いつの間にか深い眠りに陥る。

 目を覚ますと陽が大分傾いている。M君の様子をうかがうと気分は良くなってきたというので、E君を誘って夕食を食べに街へ出る。帰りにビスケットやバナナなどを買って帰るが、M君下痢もしているようでいらんといい、ウメボシ汁を飲んだのみ。明日も走れないであろう。

 昼寝をしたので、E君と二人でかなり遅くまで話し込んだ。日本にいる友人達のこと、日本でのサイクリングの思い出、繊細な味付けの日本食への憧れ等々。日本の話になると話題が尽きない。話が一段落すると、二人とも現実に引き戻され、大変な所に来てしまっているのだという思いが思考能力を鈍らせ二の句をつげなくした。

 部屋の中は闇である。天井に付いている直径一メートルぐらいの大きなファンのガラガラという音と、すでに寝ているM君の寝息のみが闇を通して聞こえてくる。私もE君もそのまま寝入る。

 翌早朝、M君疲れているためか、いきなり寝言で

 「行けぇー!」

 とわめき、

 「チキショー、うるせえなインド人はブツブツ・・・」

 と大声で叫びやがる。この声の大きさに私とE君ハッと目が覚める。M君もまた自らの声の大きさで目を覚ます。とんだ目覚し時計である。


 ヒンドゥ教の聖地バラナシという街がこのラクノーから南へ約70キロの所にあり、自転車で行く予定であったのだが、3人の体調及び日程的な問題から、宿に自転車・荷物等を置き汽車で行ったほうが無難であろうということで、午前中E君と二人でラクノー駅へ予約切符を買いに行く。
 
 外見は非常に立派な駅である。その様相はあたかもインドの寺院の如くに大きく色彩も艶やかである。だが、ひとたび構内に入るやいなや、外見とは大違い。天国と地獄を見るようである。薄暗い構内には浮浪者や列車待ちの人達が所狭しと寝たり、座ったりしており、それらの人々に混じって何をしているのかは分からぬが何頭かの牛が頭を出しておる。構内だからといってうっかりしていると牛の糞を踏んづけてしまう。蒸し暑い人いきれの中に糞尿の臭気が充満しており、まことに汚い構内であった。

 既に指定券は売切れていたので乗車券だけを買って宿に戻る。宿のオヤジが言うには乗車券だけでも99%は座れるから大丈夫だというので安心する。3人で夕食をすませてから駅へ向かったのだが、私の食べたチキングリルがどうも臭かった。これが数時間後私をのたうちまわらせる元凶になるのだが、その時の私には判るはずもなかった。

 汚い構内で一時間程待っているとバラナシ行の列車が入線してきた。大勢のインド人たちがホームに溢れ出る。待っていた乗客が狭い列車のドアに吸い込まれるように乗り込んで行く。この光景ばかりはインドも日本も変わらない。我々も勢いよく乗り込むが座れる席無し。「99%とはよく言ったものだ。あのくそオヤジめ。」三人揃って不平を云う。運悪く1%の確率に当たった模様。床もインド人で埋め尽くされおり、空いている床は汚い便所の前だけである。三時間も揺られて行かねばならないので仕方無く、そこに座ることにする。

 M訓に体調は大丈夫かと聞くと大丈夫だという。ひとまず安心。

 (後は多少匂う場所であるが、三時間我慢していればバラナシへ着く。)

 などと膝を抱えて考えていると、急に腹の具合がおかしくなってきた。腹に内部からの圧迫を感じるや否や急激に重くなり、痛み出してきた。胃袋の中で大反乱軍が暴れだしたのである。貧血にて脂汗をかき、目眩が生じ、とても三時間も列車に揺られて行く自信は無くなった。

「だめだ、どうもさっきのチキンが当たったようだ。俺は明日にでもバスで行くから先に行っててくれ。」

と発車十分前に彼等に言い、列車を出る。E・M両君、おまえを一人にさせられるかと一緒に降りてくる。美しき友情なり。結局三人とも列車を見送ることになる。

 腹痛はますますひどくなり、ホームのベンチに転がるが意識が朦朧としてきて口も聞けなくなる。両君が私を抱えるようにして構内を出、リキシャに乗せ、24時間営業の国立病院へ連れて行く。

 病院に入ると、まずベッドに寝かされた。一人の医者が来て私の左うでを捲り上げ押えつけて置き、肘の内側を手刀で薪でも割るかのように叩いた後、手を握って力を入れろ、という。何事が始まるのかと思っていると、もう一人の医者が牛か馬にでも打つような巨大な注射器を持って私に近づいてくる。針も長く、量も多い。下準備に凄味があったので、コリャさぞかし痛かろうと思っていると案の定、針が腕を突き抜けたのではないかと思うぐらい痛かった。薬も二粒ほど飲まされたが、仰向けの状態で水無しで口に放り込まれたので食道あたりに翌朝までひっかかっていた。なんとも凄まじい治療方法で恐れ入った次第である。

 M君何やら医者と話していたが、注射が効いたのかいつの間にか寝てしまい、M君が帰ったのは分からずじまいであった。

 (インドを走るということは恐ろしく大変なことであると、またまた痛感させられた出来事でありました。)

                                つづく
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「熊野詣自転車の旅」走破コース

2007年05月29日 | 自転車関連

<国土地理院20万分の1の地図。赤い線が走ったコース>

先週末の「熊野詣自転車の旅」の全コースをアップしてみた。

A地点がJR熊野市駅。26日11時着。大宮を出たのは5:17。東京から新幹線と特急を乗り継ぎ6時間弱かかったことになる。初日はここからB地点の那智勝浦までの海岸線を約40km走る。

途中、那智駅に自転車を置いてバスで那智の滝を見に行く。ここには熊野三山のうちの熊野那智大社がある(a地点)。結構な登りであったので、明日に備えての脚力温存は正解であった。滝はさすがに高度感があり姿もいい。宛推量であるが、本来「姿勢がいい」とはこういう景観に使う言葉であったかも知れない。


<“由緒正しき日本の滝”という印象でした>

27日は宿泊地那智勝浦(B)を6時前に出て、新宮の「熊野速玉大社」(b地点)によってから海外線を離れ、一路「熊野本宮大社」(c地点)に向かい、熊野川沿いの国道168号線を辿る。9時20分に本宮着。本宮の大社は緑の杜の中にこげ茶の神殿が溶け込むように配置されており、厳かな雰囲気をかもし出している。まことに「緑と茶色の国」の守り神にふさわしい佇まいであった。




午後は山道をひたすら白浜(C)を目指して走る。登りが続き、体力的にも結構辛かったが、走りにくいのにも辟易した。日本中どこでもそうだが、基本的には自転車が走ることは考慮されていない道路状況なので、クルマがビュンビュン追い越していく中を肩身狭く、走り続けることになる。

特にこの日は山道であったのでトンネルが多く(10箇所もあったろうか)、警笛をならして威嚇するクルマもおり、非常に恐い思いをした。もう少し快適なインフラが整備されないと日本でのサイクリングはマイナーのままだろうと痛感した。

この日は約120kmは走った。昨日も書いたが最終地点白浜温泉(C地点)を終点として、JALでとんぼ返りした。


コメント (4)
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秋のような朝

2007年05月28日 | 自転車関連


昨晩、南国の南紀白浜空港からまさにひとっ飛びと言う感じで戻ってきた。明けて今朝は寒いぐらいの涼しさで、秋晴れのような朝であった。

昨日の16時ごろ、温泉センターの前で輪行をすませた後、温泉に十分浸かって酷使した筋肉とサドルに痛めつけられた尻を癒した。風呂上がりは「食事処」でまずは生ビール。この瞬間が最高である。自転車の旅に限らず、山登りや野球でもこの一瞬のために大汗かいているといっても過言ではない。

その後は堅田産のさばやヒラメを肴に冷酒を3合ほどいただきながら、今回の旅を振り返る。いい気分になったところでタクシーを呼んでもらって空港へ。自転車は手荷物として預ける。

ANAはシステムトラブルとかで大幅にダイヤが乱れていたそうであるが、JALは19:20の定刻通り。疲れと酔いで着席とほぼ同時に眠りにつく。離陸したのも気がつかず、目を覚ましたのは着陸寸前。あっという間の移動である。20:20羽田着。

手荷物の自転車は丁寧に扱ってくれるし、カートも使えるので空港利用の輪行は快適だ。羽田から大宮駅へはバスを使う。20:45発、休日のこの時間は1時間もあれば着く。大宮着は21:45。南紀白浜空港から大宮駅までの所要時間2時間25分。なんという便利さであろうか。

1泊2日でも飛行機を利用すれば、遠隔地の自転車の旅も可能であることが判明した。「飛行機輪行」は使える、と強く思った次第である。(但し、カネはかかるが・・・。)


熊野に走りに行ってる間にスポーツ界に動きがあった。

白鵬は全勝で横綱昇進確定。「週刊現代」での八百長記事にたいして相撲協会はどうでるのか。こちらの方も興味はある。

アルディージャは川崎に1点リードされていた試合をロスタイムで同点。しぶとい!単なる勝点1ではない。次節以降に弾みをつけて欲しい。

巨人は4-6でオリックスに負ける。今年も交流戦は苦戦が続く。

ヤンキースも3連敗。ボストンに12ゲーム差をつけられてしまう。大丈夫かね。
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白浜無事到着

2007年05月27日 | 自転車関連


十五時半に白浜温泉に無事到着。今日はよう走った。120kmは走っている。
本宮の熊野大社はいいねえ。緑と茶色の芸術だね。見事でした。

輪行を終えてから温泉に浸かる。気持ちよし。生ビールが出て来たのでレポートはこの辺でおしまい。
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那智勝浦に無事到着

2007年05月26日 | 自転車関連


朝、四時半に家を出、大宮で輪行して五時十七分の電車に乗る。東京発六時二十分ののぞみで名古屋へ。南紀一号に乗り換え熊野市駅に着いたのは十一時。組み立てて出発したのは十一時四十分。

最初の新宮までの二十キロは調子上がらず。一汗かいてからが勝負。ピッチィングと同じだ。気分のいい海岸沿いを走り、那智勝浦に着いたのは十五時頃。

今日はジャブの日なので那智ノ滝へはバスを使う。滝の感想は別途整理してから報告します。宿には六時頃に着いた。勝浦の町に繰り出し、温泉に浸かって、今、居酒屋で一杯やりながらこれを書いている。

いまアジの焼いたのが来たのでレポートはひとまずこの辺でおしまい。呑みに集中するのだ!
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熊野詣(もうで)

2007年05月26日 | 自転車関連
この連休は熊野詣を計画。桜の季節の頃、西行の事績を追っていると熊野詣に行きついた。平安時代末期、白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院などやんごとなき御人たちが何十回と行った熊野とはどんなところかに興味を持ったのだ。

一週間ほど前の天気予報ではあまり、空模様はよくないとのことだったので、迷っていたが、二日間とも晴れるようなので自転車を持っていくことにする。行きは新幹線と特急を乗り継いで「熊野市」まで行き、そこで自転車を組立て那智勝浦まで走る。初日はここまでで、時間があれば新宮や滝を見ておく。二日目は本宮を見てから田辺まで走る。帰りは南紀白浜からJALで戻ってくる、というのが大まかなスケジュールである。

事前に知識を詰め込んでおこうと思っていたが、時間切れ。走りながら考えよう。では、行ってきます。
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日傘

2007年05月25日 | 散歩


昨日「日傘」についてふれたが、今日は朝からの降りで雨傘のお世話になっている。ネットで日傘について調べてみたら、さすが「生き馬の目を抜く」日本ビジネス界。日傘の成り立ち(傘物語)も載っているし、男性用日傘も商品化されており、これでもかって言うぐらいに宣伝コピーが付いている。

「傘物語」によると傘というのは「日傘が最初にありき」だそうだ。その部分を以下引用する。

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古代では東西いずれにも共通して、傘が貴い人を強い日差しから守ることが目的であったと同時に権威の象徴であったともといえる。英語のアンブレラ(Umbrella)はラテン語のウンブラ(Umbra)からきているがその意味は日陰または蓋うもののこと、それがイタリア語でOmbrella(日傘)になり英語のアンブレラになった。英語のアンブレラは主に雨傘の意味となってしまった。

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日傘を雨傘にしたのは雨の多い英国だったようだ。その辺の説明を「物語」では、以下のように記述している。

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傘を男の雨の道具として広めたのは18世紀の後半、イギリスの旅行家であり、著述家、商人でもあったジョナス・ハンウェー(1712-1786)である。彼がペルシャを旅行中に見つけた中国製の傘を雨傘として使われていたのに感激し、これを広めようと思って防水を施した傘をさしてロンドンの町を歩いたという。

その大胆さに変人扱いをされたとされるが、そのころイギリスでは傘は本来女性のもので、男性は雨の日には帽子で雨をよけるのが当たり前で雨具として男が傘を使うのはペチコートを着るのと同じことだというほど奇異に思われる時代のことだった。

ところがジョナスが約30年間も手に持ち歩き雨傘として使い続けたことで、イギリスの男たちの目にも次第に傘が見慣れたものとなっていったという。イギリスの紳士用の傘は現在でもハンウェーが使った傘をモデルにしているのである。いつの時代も先駆者というのはすぐに世に受け入れられないようだ。

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日傘は昔から貴人や女性に用いられ、一般庶民の男は使わなかったようだ。しかしながら、上記のハンウェー氏よろしく、「男がミニスカートをはくようなものだ」といわれようが、しつこく使い続ければ、日本での男性日傘のパイオニアとして、歴史に名を残せるかも。


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気温上昇

2007年05月24日 | 日々の記録

<暑くなると噴水の存在感は増す>

最近、暑かったり、寒かったりするので、ノド風邪をひいた。ここ四五日ノドが痛い。うがいをするがなかなかよくならない。季節の変わり目、ということか。

23日は気温上昇で29℃まであがったようだ。屋内で仕事をしていたのでそれほど上がっているとは思っていなかったが、いよいよ夏が近づいてきた。朝の散歩でも日差しが強くなり、紫外線に肌が痛めつけられるのがよくわかる。一時間も散歩するためにはそろそろ、着替えを持って歩かないといけない季節がきた。

弊社は幸い6月1日からノーネクタイ可。いわゆるクールビズという奴だ。Tシャツとスラックスで通勤して、会社での仕事用のYシャツまたはポロシャツを着替え用として持っていく、というパターンになるか。念のためにジャケットとネクタイの一本ぐらいはロッカーに用意しておかねばならない。

また、夏日に一時間も歩くとなると帽子などの日除け対策が必要だ。女性なら日傘をさせるからいいが・・・。そういえば、なんで男は日傘をささないのだろうか。雨の日は男女平等に傘をさすのに、日傘は女性だけの特権だ。なんでだ。男は日焼けした顔がいいのだろうか。江戸時代あたりは公家や上級武士などは日傘をさしていたのではないか。

時間があったら調べてみるか。
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インドを走る! 第9話「カンプールからラクノーへ」

2007年05月23日 | 自転車の旅「インドを走る!」

<ガンガ中流に架かる橋の上で>

※「インドを走る!」について

カンプールでの三日目の朝、重い眠りから目を覚まし、いやいや旅仕度をしていると、M君も起き出してカワヤへ行くが、戻ってきてまたベッドにもぐり込む。様子が変だ。どうしたと聞くと、熱と下痢で行けそうに無いという。さっそく熱を測ると39度もある。

 大事である。毛布を借りたり、日本から持ってきた「トンプク」を飲ませたりの看病が始まる。午前中は彼を寝かせつけておいたが、夕方の涼しくなった頃を見計らって、病院に連れてゆく。待合所で三人腰掛けているとなんと女医さんが出てきた。美人である。彫りの深い顔立ちに大きな瞳、褐色の肌に純白の白衣がよく似合う。M君ベッドに寝かされ、脈拍を測る為手首を握られる。M君、非常に嬉しそうにしてはしゃいでおる。

 (あいつは本当に病気かね。)

 私とE君ははなはだ疑問を抱く。すっかり元気になったM君を連れてチャイニーズレストランへ栄養補給に行く。

 チョーメン(焼きソバ)
 スプリングロール(春巻)
 半ライス
 コーヒー

 の食事をすませて、3人で43ルピー(約1300円)。ちなみにここは高級レストランである。店を出るとトヨタのコロナが横付けしてある。インドを走っている自動車のほとんどはインド国産であるので、客の中の金持ちのものであろう。歩いて宿まで戻る。

 明けて翌朝、3人とも体調良し。ウッタラプラデシ州の州都ラクノーへ向けて出発。途中、聖なる河“ガンガ”(ガンジス河)の中流あたりに架かる橋を渡る。中流といえども川幅は広く、橋も長い。水は不透明なエメラルドである。ゆったりと流れていくその様は聖なる河にふさわしい重々しさがある。河辺では数人のインド人がゆっくりと静かに沐浴をしていた。

 この日は、陽射しは強かったが追い風であり、距離が稼げた。早めにラクノー市街地入りを果たした我々は、満足げに顔を見合わせ「早かったなぁ」とお互いの健闘を称えあったのも束の間、我が愛車インドに来て二度目のパンクである。

 何故、俺ばかりが・・・。M君、追い討ちをかけるように、

「大変だゾー。市街地だゾー。人が集まるなァ。熱いゾー。」

と半分はしゃいでいやがる。案の定たちまちのうちにインド人に囲まれる。一重目幼い子供達、二重目少年少女、三重目は大人たち。全部で五十人もおろうか。風と光が遮断され、大汗かいて修理する。M、E両君面白がってシャッターを切る。

 ラクノーでの宿は駅のそばのホテルである。蚊がいなかったのでグッスリ眠れる。翌日はM君の調子を考え休息日とする。洗濯したり、ゴロ寝したり、旅行記つけたりでくつろぐ。

 昼頃、M君が郵便局へ行った帰りに珍客を連れてくる。オーストラリアのサイクリストである。背高く、幅あり、全体的にどっしりとした風貌は弁慶の如し。その太い左上腕に碇と蛇の刺青あり、ポパイの如し。服装はといえば、帽子の変わりにボロ布をアラビアン風に巻きつけ、ジーンズを引きちぎって作った上下を纏う。よく日焼けしている。自転車はインド国産ヒーローサイケレ(実用車タイプ)。リアキャリアにバッグ一つ括りつけてあるのみ。中身は寝袋だという。着の身着のままと見て間違いなし。雲水行者の如し。

 彼はまず、カルカッタからダージリンへ行き、一旦カルカッタに戻り、北上してネパールはカトマンドゥへ。また、南下してラクノーに着いたと言う。途中、鉄道やバスも使ったらしい。彼のサイクリングは非常に合理的だと思った。身一つでインドへ来て、インド国産のサイケレを購入(約六千円)。自転車の多いインドであるから、パンク修理、部品交換等は容易にできる。疲れて無理だと思えば電車に乗る。インドの汽車へは輪行しなくてもそのまま自転車を乗せることが出来るから、これも容易である。

 かたや我々のサイクリングはというと、なまじ、チェンジギアだのフレンチチューブだのトゥーストラップだの、インドでは入手できない部品をつけた自転車に乗っているがために、心配の種も予備パーツも増える。疲れても意地を張って自転車に乗り続けるから、名も知らぬ村の道端で動けなくなったりするのである。なんという不合理さであろうか。彼の旅に比べると我々のそれは非常にぎこちなく、無理、無駄があるような気がするが、開き直っていえば、自転車の旅の本質は苦労するところにあり、それがゆえに便利な鉄道やバスも使わず、馬鹿のひとつ覚えみたいにペダルをこぎ続けているのではなかったか、と思うと我々の旅の不合理さも納得できる。

夕刻、彼帰る。ヒーローサイケレに乗って走り去ってゆく姿を見て、あの自転車なら珍しがられて、インド人たちが集まるようなことは無いだろうと思い、多少羨ましく思った。

 翌朝、目を覚ますと、M君が真っ蒼な顔をして「吐き気がする。」と言って震えている。熱を測ると39.6度もある。またまた大事である。今日も休息日か。

茫漠たるヒンドスタン大平原を走り抜け、ネパールに入りヒマラヤ山景を仰ぐのはいつの日か。

                              つづく





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大宮公園の桜は今・・・

2007年05月22日 | 散歩

<4月1日、日曜日。宴もたけなわ。>


<5月中旬、早朝の葉桜。>

大宮公園の桜がどうなっているか、チェックしてきた。4月1日の日曜日はまさに満開で公園は花見客で大賑わい。多数の屋台も出て、おのおのが我が世の春を謳歌していた。あれから、1ヶ月半余、同じ場所から写した葉桜の風景。

花が咲くと皆、大騒ぎして、見逃すまいと集まってくるが、話題にならない新緑の葉桜には見向きもしない。ほとんど無視されていたサッカーくじが、一たび6億円という大輪の花を咲かす可能性が話題になるや殺到する国民性であれば、いたしかたなしか。

こんなひっそりとした葉桜の下で、じっくりと呑む酒の方がうまいに違いない。

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オリジナルテンプレートを作ってみた

2007年05月21日 | 日々の記録

<この写真を加工して使用>

ブログのテンプレートを今まではgooで用意していた有りモノを利用してきた。いわば、ヤドカリみたいなものであったが、昨日の日曜日にオリジナルを作ってみた。コンセプトは「緑と茶色の国」とでも言おうか。

日本は緑の美しい国だと以前に書いたが、茶色の国でもある。圧倒的な緑の源の木々。植物を育む豊饒の大地。自然の景観と一体になるように作られた木造建築物。それらの茶色が緑をいっそう際立てる。緑と茶色のコントラストがマッチしている、という表現が許されるならまさにそういう国だ。

そんなコンセプトをキチンと盛り込めたかというと怪しいが、小生が撮った画像を使っているのでオリジナル性だけは高い。

画像は朝の散歩コースの「圧倒的な緑」を使用。テンプレートの背景は薄い茶色。日々のタイトルは濃いグリーンにした。これで「緑と茶色」を表現。苦労したのはブログタイトルの色だ。画像が明るい緑がベースなので白でも黒でも目立たない。試行錯誤を繰り返し、アルディージャを象徴する濃い目のオレンジに落ち着く。文字を記述する部分の背景はシンプルに白にした。

ま、とりあえずはこれでいく。気に入らなかったり、飽きたりすれば、また修正します。
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大宮アルディージャ今季2勝目!

2007年05月20日 | 大宮アルディージャ&サッカー


「いや~。やってくれました。嵐の為の中断20分にもめげず、頑張ってくれました。終了間際のCKからの富田のヘッド。見事に決まりましたナ。見に来たかいがあったというものだ。

とこんな書き出しで始めたかったのであるが、なんと昨日は突然の休日返上会議が勃発。場所は都内にある会社の会議室。

しかも、午後から。(゜o゜)・・・・

勤め人の辛いところではあるが、今年はどうもホームゲームと仕事の相性が悪い。今回は間違いなく行けると思っていたのに・・・。

ま、勝てばいい。4時半には仕事から釈放、もとい解放され、大宮駅に着いたのは6時。高崎線と宇都宮線が9時過ぎまで不通、ということで構内は戸惑う人でごった返していた。バスもタクシーも長蛇の列。小生は待ち合わせた友人とそそくさと呑み屋に潜り込む。携帯電話で試合のチェックすると、1-0で勝利!タイミングよく、生ビールが運ばれてくる。(こういう相性は昔からいい)一緒に居た友人とすかさず乾杯。祝杯をあげる。

ここ数試合は守備が安定しているようだ。あとは数年来の課題である得点能力の向上をどうするかだが、トリノの大黒獲得に動きだしたらしい。移籍が解禁になる7月20日以降に正式オファーするようだ。大黒は得点能力もあるし、ネームバリューもある。これ以上の補強はない。観客動員数に大きく貢献するだろう。11月の“聖地大宮”での初ゴールを決めてもらいたい。

実現することを切に望む。
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親不知子不知

2007年05月19日 | 日々の記録

<北陸道最大の難所「親不知子不知(おやしらずこしらず)」>

この所起きた陰惨な事件を聞いていて、北陸道の難所を思い出してしまう。「親不知子不知」この名称はあまりの難所の為、親が子を、子が親を振り返る余裕もなく、振り返ると姿が消えていた、そんなことから付いた名だそうだ。

会津で子が母親を殺害して、首を切断したと思ったら、大阪府能瀬町では親が一歳の子をバイクのヘルメット収納スペースに入れて死亡させる。愛知長久手では親が2人の子を銃で撃ち、元妻を人質にして立てこもり、警察官一人が犠牲になる。犠牲になった警察官は10ヶ月前に親になったばかり。

こうも目も当てられぬ事件が立て続けに起きると日本という国は大丈夫なのか。とさすがに思ってしまう。今後取調べが進めば動機はあきらかにされていくのだろうが、共通しているのは義理の親や子ではなく、自分の実の母や子に手をかけたことである。人間関係の中で親子ほどつながりの強いものはないはずだ。であるからこそ、冒頭の「親不知子不知」という名が生きてくるのである。兄弟は「他人の始まり」と言われることはあっても親子をそう言う人はいなかったのが、今までの日本だ。

今の日本は北陸道の難所のように、断崖絶壁の道で波が押し寄せる、親も子もかばいあうことも出来ぬほど危うい環境ということなのか。ならば、自分の身は自分で守るしかあるまい。それにしても、自分の身を自分で守れない一歳児が実母に殺されてしまったのでは救いが無い。
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雨の書斎と22回目の断食日

2007年05月18日 | 散歩

<天然書斎の弱点、雨。>

昨日も公園には早く着くがあいにくの雨で、天然書斎は使えず。雨にゃ弱い。(あたりまえか。)喫茶店にでも入ろうと思って、以前から目星をつけていた店に行ってみるが、休みなのか、まだやっていないのかシャッターが閉まったままだ。仕方がないので駅前まで戻り、ドトールに入る。ブレンドコーヒーLが280円。ここで30分ほど本を読んでから出勤した。

今週は月曜日に一日断食をやったのだが、今週末から来週にかけて断食がやりにくいスケジュール(つまり呑む機会が多いということ)なので、昨日を一日断食日とした。本年22回目となる。年60回を目指しているので、月5回やらないと達成できない。単純計算だと5月末で25回すんでいないといかん勘定になる。今月は後3回がノルマだ。こうやって追い込んでおかないと自分に甘くなって回数が伸びない。

なぜ年60回か、といわれても根拠はない。週一回なら52回でいいはずなのであるが、きりがいいので60を選んだ。60を目指していれば確実に52回、つまり週一回が達成できるだろうぐらいで組んだのだと思う。その辺は自分で立てた計画ながら、(正月の一杯気分で決めた為)曖昧である。何はともあれ、健康な人間が365日の内、5、60日は何も食べない日があるのである。よく考えると、こっれって、結構すごいね。
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