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<浅間山、鬼押し出し>
この前の社内旅行で鬼押し出しに行く途中、バスガイドさんが鎌原(かんばら)観音堂を通り過ぎる時に、車内でガイドしてくれた。
「天明3年(1783年)夏に浅間山が大噴火し、溶岩が流れ出て鎌原村を襲いました。500人の村人が亡くなり、観音堂に逃げた93名だけが生き残りました。観音堂の階段は現在、地上に出ているのは15段ですが、昭和54年に発掘調査をしたところ、50段あることがわかりました。また、発掘の時に女性の遺体二つが発見されました。これは、嫁が姑を負ぶって逃げる途中に溶岩につかまってしまったと言われています。この嫁は自分だけが逃げていれば、助かったのに姑を負ぶっていたために命を落としてしまいました。」
という、エピソードを語ってくれた。
これを聞いて「美談だ。けなげな嫁がいたもんだ。」と感心したが、200年後に発見された女性の2遺体が“嫁と姑”だとどうしてわかったのか?疑問に思った。
そこで家に帰ってからネットで調べてみた。ウィキペディアの記述は以下の通り。
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浅間山噴火と観音堂
天明3年(1783年)7月8日、火口より13Kmにある鎌原村は、浅間山の大爆発による火砕流に襲われ、壊滅。この際、火砕流に気づき、階段を上り観音堂まで避難できた僅か93名のみが助かった。この災害では当時の村の人口が600人程であり、477名もの人命が失われた。
昭和54年の観音堂周辺の発掘調査の結果、石段は50段あることが判明、現在の地上部分は15段であり、その少し下で女性2名の遺体が発見された。
また、下流の吾妻川では、川原から観音堂(旧延命寺)の石標も発見された。
村がまるごと飲み込まれたことから、東洋のポンペイと呼ばれ、その様子は隣接した郷土資料館に展示してある。
現在、火山災害から命を救った観音堂は厄除け信仰の対象となっている。
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女性2名の遺体発見は事実のようだが、“嫁と姑”ではない。他のネットで以下の内容の記事をみつけた。
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1979年夏、地中に埋もれた階段の発掘調査が行われた。パワーショベルで5m掘り進むと、階段の延長が現れた。そしてそこには2体の女性の遺体が横たわっていた。一方は若い女性で、他方は年老いた女性だという。骨の鑑定から親子らしいということがわかった。1783年夏、迫り来る若い女性が母を背負って熱泥流から逃れようと観音堂の階段を上がろうとしたところ、間に合わずに飲み込まれてしまったようだ。
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この記事では「骨の鑑定から親子らしいということがわかった」と書いており、どうやら実の親子のようだ。“実の母と娘”ではニュース性が薄いと思った村の実力者が“嫁と姑”として話しを面白くしたのかもしれない。犬が人を噛んだのではニュースにならぬが人が犬を噛めばニュースになる、という類か。