萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

しばし、喪に服します

2009年02月22日 | 日々の記録


闘病すること7年半のわが母が、本日、黄泉の客となりました。
長い間、本当によく頑張ってくれました。

しばしの間、喪に服します。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋保温泉雪景色

2009年02月21日 | 日々の記録

<秋保(あきう)温泉に雪が舞う>

先日の19日、20日は小生の本家筋の大座長が仙台地区の巡視目的で訪れた。小生は案内役、ま、付き人みたいなもんである。地元の座員との交流も兼ねて“仙台の奥座敷”とも言われる秋保(あきう)温泉で、会議&会食をした。小生と大座長はそのままホテルに宿泊。なかなかいい温泉ホテルで大座長にも満足していただいた。(と思う)

翌朝、起きて窓のカーテンを開けてビックリ!一面の銀世界だ。しかもまだまだコンコンと降っている。仙台というところは何回かこのブログでも書いたが、太平洋側でもあり、あまり雪は降らないところである。気温は低いが、概ね首都圏内とそう変わらない気候である。これから、クルマで大座長を乗せて得意先周りをしなければならない小生に、地元座員から電話がかかってくる。

「高速道路は雪で閉鎖です。下の道も大渋滞です。雪の道の運転は大丈夫ですか?いまから、行きましょうか?」

スキーに行く時などで雪道の運転経験はあるが、VIPを乗せているので地元の人間の運転のほうがいいだろうと思い、

「高速も使えないのか。じゃ、こっちに来てくれるか?」

と返すと

「今から、そちらへ向かうと何時に着くかわかりません。座長が運転した方が早いかと・・・。」

と言う。だったら、最初から、そう言えよ。まったく。

ということで、大座長乗せておっかなびっくり運転した。雪は途中から霙にかわり、やがて雨になった。心配した交通渋滞も左程ではなく予定通り行動できて、夕方、仙台駅までお送りして二日間の御勤めは無事終了したのだった。

この二日間自分では緊張したつもりはなかったが、普段の睡眠時間6時間の小生にしては、昨晩12時に寝て、今日は9時過ぎまで眠りこんでいたのを考えると、結構気疲れしていたようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

予定にない呑み会が突然に

2009年02月20日 | 日々の記録
本日は予定していなかった呑み会が突然に入った。小生若かりし頃、よくホッピーを奢ってくれた人が仙台に来たのだ。こういう機会を逃すのは男ではない。ということでさっきまで付き合った。おかげで、ちゃんとした更新はできずですが、悪しからず。また、明日。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郊外型大型店

2009年02月19日 | 日々の記録

<新名取店 7km>


<多賀城店 9.5km>

この前の日曜日、仙台郊外を自転車散歩している時のこと。いわずと知れた有名郊外型大型店の看板を目にした。一旦通り過ぎたが、「まてよ」と思って、振り返った。やはり。

一枚の看板の表と裏でそれぞれ異なる店の所在地を告知していたのだ。一枚の看板を上手に使って宣伝しているから感心したのではない。お互いの店の近さに驚いたのである。

こういう大型店の商圏はクルマで30分。郊外にあるので道路も空いているから半径20キロぐらいの筈である。この看板に表示されている7kmと9.5kmを足すと16.5キロしかない。商圏としてはバッティングするのだ。いうなれば母体は同じ会社でも、新名取店長と多賀城店長とは敵同士ということになる。

親会社としては二店を戦わせることで、どちらかでお客が買い物してくれればいい。他社に客を取られるよりはよっぽどいいのである。帰ってきて、調べてみてまた驚く。仙台市内には同社の店舗がその他に二店もあった。ついでに調べてみたが宮城県全体では10店舗。そのうち4店舗が仙台市及びその周辺にある。ちなみに北海道には8店舗あるが、そのうち札幌になんと5店舗もあった。

他社に食われるよりは自社で潰しあうほうが親会社としてはいいということであろう。各店長の敵は他社だけではない。自社の他店舗とも戦わなければならないのだ。いや、むしろ、商品や価格、ブランドは同じなので、自社店舗との戦いの方がやっかいだろう。特に古い店は苦戦する。同じ会社の店舗なら、立地条件や建物の設備、大きさ、新しさが有利となる。

以下は想像であるが、

全国店長会議で前年実績を大きく下回る店長が社長や重役に叱責される。

「昨年に比べ、実績が大きく落ちている。君は何をやっているんだ。」
「今年一月に近隣に当社の新店舗ができまして、そちらに客が流れ苦戦してます。」
「それはいいわけだ!君の店舗を維持するのにいくらかかってると思っているんだ。条件が悪くなった時になんとかするのが店長だろ。それができなきゃ店長などいらねぇ。このままだと廃店になるぞ!」

やだね~。どこもかしこも商売は厳しいね。

(上記はあくまでも小生の想像です。事実とは無根です。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬の札幌自転車通勤

2009年02月18日 | 日々の記録


昨日の札幌の天気は最悪であったが、一昨日の札幌はまあまあの天気であった。朝、クルマで移動中に札幌市民の通勤、通学シーンを眺めた。高校生達は男子は学生服でコートなし、女子はミニスカートにバックスキンのハーフブーツ姿。これが流行のようである。雪が舞い、マイナス10℃前後という気温でも、皆平気のようだ。

雪が降っていても傘をさす人はいない。コートに付いているフードや帽子をかぶっている。高校生などはそれすらしていない。我々首都圏に住むものからみると、信じられない光景だ。むしろ、都内の女子高生の方が、マフラーしたり、手袋したりと厚着に見える。

車道はもちろん、歩道にも雪がびっしりついていて、寒い朝などはアイスバーンになる。そんな中を颯爽と走るMTBを発見。思わずカメラに収める(上の写真)。タイヤは自転車用のスパイクタイヤを履いている。であるから、固めの雪道にもかかわらず、しっかりと前に進んでいた。

皆が皆こういう通勤スタイルをしてくれると、クルマの渋滞も緩和され、乗り手も健康になり、地球も救われる。いいこと尽くめなのであるが、なかなか札幌での自転車通勤者は増えない。都内にしても、その数は増えつつあるものの、いまだ少数派である。まだまだ、人類は刹那的な“楽”の方を優先するとみえる。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またもや“新千歳空港”

2009年02月17日 | 日々の記録

<大雪で新千歳空港大混乱。あきらめて函館へ。>


<我々を函館へ運んでくれた頼もしき“スーパー北斗”の勇姿。>

調度一年前、札幌出張中に大雪に会い、帰ってくるのに大変な目にあったことがある。今回も二月中旬の出張とあって嫌な予感がしていたのだが、その予感は的中した。今日の札幌は朝からコンコンと雪が降り続き、午前十時の時点で新千歳空港から飛ぶ便が次々と“欠航”。その数44便に達した。

この時点で我々は座用を早々に終わらせ、帰路に向かうことを決断。東京に帰る者二人、仙台に帰るもの二人。昨年、悲惨な目にあった経験者が小生の他にもう一人いたので決断は早い。新千歳空港は雪が降っているが函館空港は通常運航だという情報あり。但し、函館~仙台間は飛行機便はない。

昨年は新千歳空港で夜の8時過ぎまで待ってから、欠航と決まった。その時点で電車はポイント切替機故障とやらで不通。戻るに戻れない。仕方ないのでレンタカーを借りて、吹雪の中を6時間半もかけて函館に移動したという、地元の人でも怖くてやらないことをやった。小生は幸いにして翌日の便であったのでそのグループにはいなかった。今回、そのグループにいたK池氏が、その時以来一年ぶりに札幌に来て、このありさまだ。

「俺が雪男だったんか!」

と彼は疫病神を自覚していた。ま、彼の経験から、今回はともかくも電車が動いている内に函館まで行き、東京組は飛行機で羽田に向かい、仙台組はJRで仙台に帰ろうと決めた。

善は急げでそそくさと駅に行って、函館駅までの指定席を買ったのだが、もうちょっと遅かったら、満席で函館までの3時間近くを立って帰るハメになるところであった。早い判断が幸いした。おかげで、羽田組も仙台組もさしたる苦労なしに無事帰宅できた。一年前の苦い経験のおかげで同じ目にあわずにすんだのだった。

イヤ~。メデタシ。メデタシ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌で仕事

2009年02月16日 | 日々の記録

<寒いのは寒い。クルマの下にツララが簡単にできてしまう。>

昨日の晩から札幌にきている。例年より圧倒的に雪が少ないとのこと。3月、4月でドンと降るのではないかと地元の人達は心配している。

雪は少ないが寒いのは寒い。さすがに日中でも氷点下である。但し、屋内はどこでも暖かい。汗ばむぐらいだ。仙台あたりだと、店に入っても隙間風や暖房不備でコートを脱ぎたくないような店があるが、こっちは何処に入ってもコートや上着は脱がないと汗をかく。

それぐらいであるから、ビールが旨い。北海道のビール消費量は夏より冬の方が多いというから驚きだ。その昔、冬のCMで

♪暖っかいお部屋でカルピスだ♪

というのがあったが、まさにあれのビール版である。今晩もそのビール他を一座のモン達ちと呑みに行かねばならない。こっちの奴らは呑みだすと延々と呑むので、今日中にブログ更新する自信はない。ということで、今のうち携帯電話から記事を送ることにした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

am.自転車散歩 pm.札幌へ

2009年02月15日 | 日々の記録

<仙台空港。手前の水路は“貞山掘”。>

今朝は昨晩呑みすぎで電気をつけたまま、寝てしまったこともあり、4時には目が覚めてしまう。お陰でいろいろと滞っていた私事を片付けられた。洗濯もしたし。

仙台は今日も暖かい。しかも昨日のような強風は吹かない予報。自転車日和という奴だ。ということで、前回は名取川河口の閖上(ゆりあげ)大橋を越えて、貞山掘を南へ進んで阿武隈川まで行ったのだが、今回は進路を北に取り七北田川河口まで行ってきた。

但し、本日午後札幌へ移動する予定あり。仙台発14:20の千歳行きの飛行機に乗らなければいけないので、午前中が勝負だ。往復でざっと40kmと見当をつけて8時に出発した。気温は丁度よかったのだが、帰りは向かい風にやられた。西南西の風7~9mはあろうか。昨日の20mはないが、かなりきつく、距離が稼げない。途中、寄り道したり、道を間違ったりで走行距離は約50km。帰り着いたのは12時過ぎ。

仙台空港まではクルマで30分程なのであるが、もっと早く帰って来れると思っていたので出張の準備を何もしていない。慌ててパッキングして、クルマでマンションを出たのは13時過ぎ。休日の買い物でクルマが多い。少々イラつきながら、空港へ。なんとか、13:50には着いた。

朝飯は食べない主義なので昨日の晩から何も喰っていない。さすがに腹が減った。簡単に生ビールとカツ丼の昼食をすませ、飛行機に乗り込む。何とか間に合った安心感とビール付の食後ということもあり、深い眠りに着く。気がついたら千歳空港上空。

朝から慌ただしいまま、あっと言う間の北海道!

という感じであった。

(貞山掘北コースの自転車散歩は別途アップします。これから、皆と札幌の街に繰り出します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インフルエンザに御注意を!

2009年02月14日 | 日々の記録

<記事とは関係なく、仙台郊外の閖上(ゆりあげ)サイクリングロード沿いの景色。山上の池塘のようにも見える。>

昨日、今日で行くはずだった青森、盛岡の座用が中止になった。

同行するはずの人がインフルエンザに罹ってしまったからだ。同行氏の言うに

「普通の風邪なら、なんとしてでも行くがインフルエンザを人にうつすわけにはいかない。医者からも外出禁止令が出てるのだ。」

と、ガラガラ声で携帯電話の向こうで話してくれた。都内に住んでる人なので“寒さ”にも慣れていない。雪の降る青森や本州一の寒冷地盛岡は避けた方がいいだろう。小生は案内役であったので、案内人一人で行くわけにも行かず、結局、中止となった。個人的には今週から来週にかけて過密スケジュールであったので、ホッとしている。

インフルエンザとか寝込む程の風邪というのに、この25年間無縁でいる。花粉も含めて、鼻水は年中であるが、熱を出して寝込んだ経験は25、6歳以来無い。丈夫なのか、バカなのか。

インフルエンザは風邪の一種ではなく病原体の感染によって起きる病気で、病原体の毒性が強いと致死率も高い。1918年から19年にかけて発生したスペインインフルエンザ(スペイン風邪)は世界で感染者数6億人、死亡者5千万人という猛威であった。第一次世界大戦終結の遠因であったというぐらいだ。

日本には江戸時代に長崎経由で全国にひろがり、名横綱「谷風」もこのインフルエンザで亡くなった。終身記録258勝14敗、勝率95%の偉大な横綱もこの風邪には勝てなかったというのが、江戸庶民には余程な衝撃であったと思える。以後このインフルエンザを「谷風」と呼ぶようになったことでも、そのショックの大きさがうかがえる。

そういえば「谷風」は仙台出身の横綱である。勾当台公園に立派な銅像がある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花巻 鉛温泉「藤三旅館」

2009年02月13日 | 山と温泉

<藤三旅館正面。雪の中の木造三階建てだ。いい雰囲気。>


<泊まった三階の部屋からの眺め。今年は雪が少ないとのこと。>

 11日の建国記念日は平泉を見学した後、花巻駅までJRで移動し、無料バスで鉛温泉は「藤三旅館」へ行く。花巻温泉郷は大変賑わっていた。バスは6~7箇所の温泉地を巡って乗客を降ろしていくのだが、補助席を使うほどの賑わいだった。

この前、行った十和田山中の蔦温泉とは雲泥の差である。交通の便が違うのだろう。八戸から二時間余バスに揺られて二千円近くの料金を払うのと新幹線の「新花巻駅」とJR「花巻駅」から無料バスで30~40分で着く場所との差であろう。首都圏や仙台の人口密集地から行くには十和田山中はあまりにも遠いということか。

途中、大きなホテルの温泉地で大勢降りて行った。小生の泊まった「藤三(ふじさん)旅館」は「秘湯の会」の会員宿だけあって、小生好みの渋い外観だ。木造三階建てでエレベーターは無い。旅館部と湯治部に分かれており、湯治部では自炊設備もあり、一泊5千円台で泊まれる。

温泉は宮沢賢治も愛したという“日本一深い岩風呂”「白猿の湯」(引き戸を開けると地下二階ぐらいのところに湯船がある。)をはじめ、渓流を眺めながらゆっくり浸かれる露天風呂「桂の湯」など、露天2、内湯5というバリエーションである。

小生は例によって、着いて一風呂、夕食前に一風呂、就寝前に一風呂、目覚めて一風呂、朝めし前に一風呂。計、五回ほど浸かる。バリエーションが豊富なので楽しめた。夕食も朝食も丁度言い味付け、分量でごはんも大変美味しかった。

朝、出発前に風呂の写真でも撮ろうと、“日本一深い岩風呂”「白猿の湯」の引き戸を明けて上から覗くと、湯船に人は居なかったが、よく見ると隅の脱衣所に女性の全裸姿が(゜o゜)・・・・。そうだ。ここは混浴だった。あわてて、引き戸を閉める。気づかずに写真などを撮ったら大変なところであった。

一泊二食付で一万円で泊まれる(呑み代別)温泉宿で、比較的交通の便もいいし、湯のバリエーションが豊富だ。機会があれば、また来ようと思って宿を後にしたのだった。

え、「白猿の湯」にいた女性ですか?
決まってるじゃないですか。お婆さんでしたよ。(と、ブログには書いておこう。



<夕食メニュー。生ビールと冷酒300mでいただく。>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々、平泉を訪ねた

2009年02月12日 | 散歩

<陸奥の道>

昨日、平泉駅で降りて、無量光院跡、高館義経堂、中尊寺、金色堂などを見学してきた。藤原三代の夢の跡を久しぶりに観て来た。大学生一年の夏、社会人一年目の初冬、そして仙台に住んで一年目の冬。平泉はこれで、三度目である。過去二回は束稲山(たばしねやま)の存在など知らないで来たが、今回はこの山をしっかりと観て見たい思いで訪れた。西行が平泉を訪れた時、この束稲山の桜があまりにみごとなので、

 ききもせず たばしね山の さくら花
 よしののほかに かかるべしとは

と詠んだ。奥州藤原氏が都をまねて、この束稲山に一万本の桜の樹を植えて毎年花見を楽しんだという。藤原清衡が平泉に居を構えたのは1095年頃。西行は1118年~1190年の人である。二十代後半に初めて平泉を旅したというから、1140年頃に詠んだ歌ということになる。今は真冬なので寒々とした趣であったが、是非、桜の咲く季節に再訪しようと思った。

平泉散歩についてはまた、別途詳細レポートする所存。本日はとりあえずご報告まで。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅間山の噴煙

2009年02月11日 | 日々の記録

<噴煙をあげる浅間山>

昨日、群馬県高崎市をクルマで移動中に浅間山の噴煙を見た。陽が没しようという夕刻の空に榛名山や奇怪な妙義山の山影とともに明らかに噴煙を上げている浅間山があった。頂上付近に濃い噴煙の塊のようなものが見え、それが山のカタチを変えてしまっている。噴煙は上空に薄っすらと広がっていた。大規模な噴火には至らないが中規模程度は起こりうる、という予報だ。

浅間山が大規模な噴火を起したのは1783年(天明三年)である。
天明三年浅間山噴火関連

ウィキペデイアを見ると面白い記事があったので以下引用する。

*******************************************

1783年9月1日(グレゴリオ暦)(天明3年8月5日) 大噴火。溶岩流(鬼押し出し溶岩流)と火砕流が発生、群馬県側に流下。長野原町や嬬恋村鎌原地域など吾妻川流域を中心に1,500人の死者を出した(浅間焼泥押)。

江戸時代の天明年間には東北地方で約10万人の死者を出した天明の大飢饉が起きた。同じ天明年間に浅間山が天明の大噴火を起こしていることから、浅間山の影響で飢饉が起こったと長い間認識されてきた。

しかし、天明の大飢饉は天明の大噴火の前に起こっており、また大飢饉の前にアイスランドでラカギガルの大噴火により大量のエアロゾルが放出されていたことがわかったため、気象的条件からもラカギガルの影響が強いと今日では見られている。

ラカギガルのエアロゾルはフランスでも不作を招き、後のフランス革命の遠因の一つになったという。また、気象変動ではないが、火山灰はロンドンでも記録されている。

*******************************************

天明の大飢饉は浅間山の噴火ではなく、アイスランドの山の噴火が原因だったのか。しかも、フランスでも飢饉が起き、フランス革命の遠因になっていたとは。噴煙に国境は無かった。「お釈迦様でも気がつくめぇ」とはこのことだ。

パリ市民が王に「食べるパンがありません」と訴えたら、王妃マリー・アントワネットが「だったら、ケーキを食べればいい」と言ったという逸話も思い出した。民衆の食べるべきパンはアイスランドの噴火によって、無くなっていたのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週はドタバタスケジュール

2009年02月10日 | 日々の記録

<阿武隈川河口付近>

昨日は“一日中会議で夜会食”という、ブログにとってはもっとも危険なパターン。朝のうちにブログを書いておこうと思ったのだが、起きるのが遅くできず。案の定、そのまま、午前様。帰ってきたのが一時過ぎ。万事休す。

今日からしばらく、また“旅の空”である。本日はこれから大宮経由で群馬県は高崎の会合に参加。夜は大宮に戻る。明日は休みであるが、休日明けは盛岡なので、平泉などを見学して花巻あたりの温泉宿に一泊。盛岡で社用を済ませた後は仙台へとんぼ返り。夕方、打ち合わせ。翌日午前中は仙台であるが、午後から青森へ移動。14日土曜はそのまま、青森~盛岡をまわる。一旦、仙台まで戻って、翌15日日曜日は札幌へ飛ぶ。16~17日は札幌。(残念ながら「雪まつり」は終わってしまった。)

ということで、この一週間は東日本を右往左往する。

いつ、どこで、なにを書くか。

頭を使う日々がつづく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閖上(ゆりあげ)サイクリングロード

2009年02月08日 | 自転車関連

<家から10キロのところにいい場所を発見したのだ。>

昨日、名取川を河口まで自転車で走ったが、閖上(ゆりあげ)のサイクリングロードに行って感激した。中々どうしていい景色なのだ。ここまでは家から10キロ30分程度だ。朝、一時間走れる時間をつくれば、ここの往復で毎日20キロは走れる。コースもおおむね名取川沿いのサイクリングロードなので、安全だし。

雪や強風でないかぎり、仙台で朝を迎えた時はこのコースを走るのも悪くないと思った。同じところを走るというのは“定点観測”にもなり、大切なことだ。同じ景色を見ても、その日の気分、天候で毎日違うものだ。四季のうつろいも感じることができる。ただ、あまりにもつまらん場所だと食指は動かん。

ここは四季折々楽しめそうなところだ。練馬の「石神井公園」をしのぐこと“遥か”だ。いい発見をしたと思った。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名取川、阿武隈川往復

2009年02月07日 | 自転車関連

<貞山掘。思っていたより広く豊かな流れだった。>

本日は久々に自転車に乗る。仙台市の南を流れる名取川の河口付近まで下ってから、進路を南に取り、岩沼市と亘理(わたり)町の間を流れる阿武隈川河口までの往復、約70キロである。お供はこの前盗難にあったが、無事戻ってきた武蔵丸(BS製プレスティーノ インター8)である。

江戸時代初期に伊達政宗が造ったという「貞山掘」沿いに走った。“貞山”というのは政宗の贈名であり、明治の時代になってから付けられたという。江戸初期はこの名取から阿武隈までの運河は“木曳掘”と呼ばれていたとのこと。

木曳堀の主な目的は、阿武隈川と名取川の両河口を結ぶことにより、

 ①阿武隈川流域と仙台城下を結ぶ物資輸送路の整備
 ②名取平野の新田開発のための農業用排水路を確保する

ことであった。

小生が想像していた“堀”はもっと細いものであったのだが、幅40~50mはある豊かな水路であった。江戸初期から既にこの川幅があったかは定かではないが、何事も派手好みの“伊達”であるから、当時からこの広さだったと思いたい。

9時に出て阿武隈川に着いたのは11時ごろ。昼飯は亘理町の荒浜にある、元祖ハラコ飯(鮭といくらのご飯)を食べさせるという「あら浜」に入る。(これが今日の“主な目的”)11時半頃入ったのであるが、すでに満員に近い。ぎりぎりセーフ。ハラコ飯を頼もうとメニューを見るが、季節があるらしく、今は載っていない。9月~12月と書いてある。あちゃ~。ショック!

仕方ないので小生好物のひとつ「いくら丼」を注文した。これはこれで期待を裏切らずに旨かった。今年の9月以降にまた来ようと思って外に出る。もう、10数人並んでいる。人気のある店なのだ。

阿武隈川の河口まで行く。太平洋だ。さすがに広い。この寒いのにサーフィンをやっている若者がいた。根性だね。見習わないと。

帰りは来た道をほぼ戻ってきた。道も間違わずに順調に走る。14時には家に戻った。9時ごろはまだまだ冷たい空気であったが、昼からは自転車を漕ぐには調度いい感じであった。晴天でもあったし、気分よく走れた。

冬の仙台でも十分走れることが分かった。今後は暇を見つけて多いに走ろうと思ったのだった。


<いくら丼。実際はもっと、黒っぽい赤であった。>


<寒いのに元気な若者。ひょっとして、海はあったかいのかネ。>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする