11月15日 土曜日
朝、八時。酒田のビジネスホテルをチェックアウトして、ホテルの駐車場で折り畳み自転車「御免丸」の点検をすると、フロントギアの変速機が壊れている。インナーしか使えない。愛車とは名ばかりで、日頃の面倒を怠っていた罰であるか。
ま、本日の行程は最上川を遡って行くという“基本登り”なので、重いギヤはなくともナントカなる。走ってくれればそれでいい。
そんな準備をしていると、頭上から「コォー」という鳴き声が聞こえる。見上げると快晴の空に十羽ばかりの白鳥の編隊が海の方から鳥海山の方へ飛んでいく。その編隊だけかと思いきや、次々と5~10羽づつの編隊が飛んでくる。逆V字で編隊を組むもの、ロードレースのように一列縦隊で飛んでいくものなどあり、見ていて面白し。(このシーンは11月19日の
「白鳥飛来」に書いた。)
旅の門出にいいものを見させてくれた。気分良く出発する。まずは市内を目指す。市内に「五郎兵衛食堂」というのがあって、ここの朝定食を食べてから出発しようと決めていた。十年前鳥海山へ山スキーに来た折、皆とここで朝定食を食べた。ご飯が多めで、しゃけ、納豆、味噌汁というごくありきたりの定食なのであるが、妙に旨かった。酒田に来たら朝飯はここだ、と思って楽しみにしていたのだが、なんと「本日休業」の札。残念、無念。白鳥飛来は吉兆ではなかったのか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/8d/652f7c7d72004bd4fc18a117b7f94598.jpg)
<懐かしき「五郎兵衛食堂」だったが・・・>
仕方ないので朝めし抜きで先を急ぐことにした。山居倉庫を見てから最上川河口まで行き、そこから川沿いを辿って、新庄方面へ行くつもりだ。山居倉庫はあの高名なNHK連続ドラマ「おしん」のロケ地にもなったところだ。かつての商都“酒田”を象徴する建物である。背後の欅が色づき、古色蒼然と居並ぶ倉庫は見ごたえがあった。
川が大海に達する、河口付近の景色は雄大な眺めで好きな景色のひとつである。そしてこういう場所は魚影が濃いのか、釣り人で賑わう。釣りは興味はあるが、経験はほとんどない。開高健の著作やコミックの「釣りバカ日誌」などに影響されて一時は本気で釣りをやろうと思った時期もあったが、悪魔の趣味と言われており、のめりこみそうなので、近づかないことにした。
河口から折り返して、気がついた。向かい風だ。それも結構強めだ。河口まで来るのにスピードに乗って快適に走れ、今日は「調子がいい」思っていたのだが、追い風だったのだ。
追い風の時は自分の実力と錯覚し、逆風に吹かれて初めて風の力を知る。
めげずに漕ぐ。河口から4~5キロも上ったところに、鴨たちが大挙して生息していた。羽根を休める白鳥も混じっていたが、圧倒的に鴨が多い。その勢いは最上川を埋め尽くすほどだ。豊かな川の証しなのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/89/709527422f8c3711a65741d6fb50789b.jpg)
<山居倉庫>
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/e8/7f9ee46ca31ab1abffc22f7e20827fcf.jpg)
<河口>
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/c0/624aa914f2c0169ef76a3a4fbadcbe02.jpg)
<鴨族、川を占領す>
遡上を続ける。クルマに脅かされながら走るのは嫌なので、なるべく川沿いのサイクリングロードを辿っていったのだが、こういうコースには食べ物屋がない。コンビニもない。朝めし抜きで走ってきたため、急に空腹感を覚えるも、補給先がない。「五郎兵衛食堂」での朝飯以外に補給方法を考えていなかったので、携帯食料も持っていない。水すら持っていない。自称ベテランサイクリストが聞いて呆れる、不用意さだ。
昨晩食べたオニギリの燃料はもうとっくに尽きた。段々と脚に力が入らなくなる。これで向かい風に対抗して漕ぐのは辛い。後、数キロも行けば、清川駅というのがあることを地図で知る。そこまで行けば、駅前になんかあるだろう。立ち食い蕎麦屋ぐらいはあるかもしれん。などと期待したのだが、無人駅がポツンとあるのみ。
それでも駅があるぐらいであるから、民家は多い。きっと何かあるはずだと先へ進むと、果たせるかな、駄菓子屋風の店がある。そこへ駆け込み菓子パンとチョコレートを購入。店頭でそれをむしゃむしゃと食い、なんとかハンガーノックだけは避けられた。
落ち着いたので、再び自転車に乗っていくと、清河神社というのが目に入る。覗いてみると、あの清河八郎を祀った社(やしろ)であった。そうか、この「清川」は彼の出身地であったのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/13/711854ff3cbcc589398e397e4985cbdb.jpg)
<清河神社と紅葉。なぜかモミジ色のフェアレディZ。>
幕末、勤皇の志士であった彼が幕府に働きかけ、将軍警護、京都守護のため、江戸界隈の浪人などを集めて浪士組を結成し、京に行ってから、反幕府の意図を明らかにした話は有名である。その意図に反対して京に残ったメンバー、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田聡司等が後の新撰組になった話もまた有名だ。清河八郎が居なければ、近藤も土方も多摩の田舎で燻ったままだったかもしれない。
清河はこの地で生まれ、“神童”と称えられ、十八の歳で江戸に出た。幕府の学問所昌平黌に学ぶ傍ら、千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得、その後、清河塾を開設した。江戸市内で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけだったそうだ。文武両道の人であり、この神社も「学問の神」「身体堅固の神」として祀られている。
こういう山深いところで育った人間でも幕末の動乱期にはじっとしていられなかったとみえる。なまじ才能に恵まれていたがために、江戸に出て、京に上り、諸国を巡り、やがて、動乱の渦に巻き込まれ非業の最期を遂げる。しかしながら、その勤皇が見込まれて、ここに神社ができた。不思議なことではあるが、人が“神”として祀られることは日本においては珍しいことではない。
「東郷神社」「乃木神社」「児玉神社」など、日露戦争で活躍した英雄達も皆、神社になって祀られている。一神教の国(ユダヤ、キリスト、イスラム)とは違い、おおらかで寛大な八百神(やおろずのかみ)の国だけのことはある。
文久3年(1863年)4月13日。清河は幕府の刺客「佐々木唯三郎」等六名よって江戸は麻布一ノ橋で討たれた。享年34歳。司馬遼太郎の著作によると知人宅で散々酒を振舞われて(この知人も刺客側とグルだったようだ)、帰り道に襲われた。騙まし討ちだった。最後の部分の描写を引用すると、
************************************************************
致命傷は、佐々木の正面からの一太刀だった。右首筋の半分まで裂き、その勢いで清河の身体は左へ数歩とんで横倒しになり、半ば切れた首がだらりと土を噛んだ。
土に、酒のかおりがむせるように匂っていたという。
************************************************************
なんとも、臨場感のある描写だ。昔、この件りを読んで、たらふく呑んで斬られると血の香りよりも酒の香りがするものなのか、と思った覚えがある。
清河神社を眺めていて、まず最初に思ったことも、この描写の部分であった。
(つづく)