萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

讃岐・阿波を走る! 第7話 「西行庵」前編

2008年06月30日 | 自転車の旅

<我拝師山(わがはいしやま)。この辺りに「西行庵」はある。>

西行は三十歳代に高野山(開祖=弘法大師)に住んでいたこともあり、弘法大師(空海)の影響はかなり強く受けていたと思える。崇徳院の墓参後、この大師の故郷「善通寺」界隈に庵を結ぼうというのは、単なる思いつきではなく、高野山にいた頃からの夢ではなかったか。

西暦で言うと1118年生まれの「西行」と774年生まれの「空海」の間には344年という時の差がある。時代区分で言えば、空海は奈良時代末期、西行は平安時代末期の人間である。この時空間に「平安時代」がすっぽり入るというのも面白い。

桓武天皇が都を平安京(京都)に移した794年から平安時代が始まる。この時、空海20歳。奈良の大学を飛び出して、近畿の山々で修行していた頃だ。一方、平家が安徳天皇とともに壇ノ浦で滅び、源頼朝が実権を握った1185年が平安時代の“終わり”とされる。西行、この年67歳。伊勢に住んでいた頃である。

400年続いた「平安時代」の“入り口”に若き空海がいて、その“終焉”に老境の西行がいた、というのがなんとも面白い配剤ではないか。生まれたての“平安時代”には溢れんばかりの知的エネルギーを持った、空海のような若者が必要であったろうし、末期的症状の“時代の終わり”には歌人西行の“癒し”が、必要であっただろう。それぞれの時代における“役目”を見事に果たしたからこそ、両人は歴史に名を留めているのに違いない。

いずれにしても、西行から見ると、空海は4世紀も前の偉人である。小生が、信長や家康を思うようなものである。生々しい“教え”を乞うというより、同じ場所に住むことにより、神に近い存在の大師の威信にあやかるようなつもりで、この地に庵を結んだと思える。

さて、夕暮れも迫った中での「西行庵」探しの話に戻る。“時”でいうなら、「2008年5月4日16:33」である。何故、正確にわかるかというと、大楠をバックに氷川丸を撮った画像データに記録されているからだ。まことに便利な時代になったものである。弘法大師も真っ青!ですナ。

境内にある地図で曼荼羅寺までの行き方の大体はわかった。善通寺を出て西へ4キロ程行った所にある。まずはその寺を目標に走る。やがて、「四国第72番曼荼羅寺」「73番出釈迦寺」の標識が目に入る。ありがたや。標識通り左折する。500mも行くと「曼荼羅寺」の標識あり。今度は右折だ。ここからは登り。それほどきつくはない。曼荼羅寺はすぐに見つかった。

さて、ここから先が、白洲正子氏が散々迷ったとその著「西行」に書いてある道だ。寺の人か地元の人に場所を聞くしかない、と思ってそれらしき人を探していると、なんと、道の角に

「← 西行庵」

という標識があるではないか。やった。これで簡単に辿れる。安堵、安堵。思えば白洲氏がこの地を訪れたのは20年以上も前、1980年代前半である。今は2008年だ。便利で親切な時代なんだ。こういのがあって当たり前だ。

この先は舗装はされているが、山道だ。細くてくねくねしている。ゆっくりと矢印の方向に進む。小さ目の「西行庵 →」の看板がある。そこを右に行くとまもなく「← 西行庵」の指示。左に曲がると、勾配がきつくなる。まっすぐ登って行く。右手に果物の棚のある農園を横目に先へいく。しばらく行けども、「西行庵」は見当たらず、看板も無い。

さては、道を間違えたか。先程の農園に人が居たのを思い出し戻る。下りは速い。自転車のいいところだ。農作業をしていたお姉さんに聞く。

「西行庵ってどういくんですか」

「ここを真直ぐ行くと赤い屋根の家があるから、そこを過ぎてすぐの十字路を右に行くと右手にありますよ」

尋ねる人が多いのか、スラスラと教えてくれる。お礼を言って、また、登る。言われたとおりの十字路に小さい標識「西行庵 →」があった。さっきは見逃して、真直ぐいってしまったようだ。標識があってもこの解りにくさだ。白洲氏が、5、6ぺん麓まで戻って探したのも頷ける。

小生の物音に驚いたのか、右手の沼のようなところから、灰色の鷺が羽音をたてて飛び立った。鷺はゆったりと羽ばたいて、里の方へ降りてゆく。

その農道のような山道をしばらく行くと、藪の中にお堂のようなものが見えた。どうやら「西行庵」だ。なんとか日没までに辿り着けた。


<西行庵>

     つづく
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♪デニ~ス マルケ~ス♪

2008年06月29日 | 大宮アルディージャ&サッカー


大宮アルディージャ快勝!

昨日は対ヴェルディ戦。仕事で熊谷に行けなかったのだが、応援に行ってるS二郎氏から「今から始まる」のメールあり。ちょっぴり、悔しいながらも、ネットで時々情報収集。前半早々4分に1点先取。得点者「デニス・マルケス」。おお、幸先いいね。

♪デニ~ス マルケ~ス♪

と口ずさむ。そのまま、前半終了。

仕事で打合せに入ったので、しばらく、ネットチェックができず。打合せしながらも、気になっていた。前半早々に先取点を取ると、往々にして逆転負けすることがある。過去にも何度か苦い経験があった。勝負事は下駄を履くまでわからん。(下駄履いてる選手はいないが・・・)打合せ終了後、すぐにPCをチェック。後半11分にまたもデニス・マルケス。ふたたび、

♪デニ~ス マルケ~ス♪

いいね。そのまま、終了。と同時にS二郎氏から「快勝!」のメールが送られてきた。チキショウ、勝利の美酒を味わってやがるだろうな。こっちはまだ仕事だ。ま、勝ったからすべて許せるけどね。

夜、スポーツニュースでVTRを観たら、二本とも素晴らしいシュート。代表チームのバーレーン戦の不甲斐ない決定力不足を観た後なので、“決定力”とはこういうものだと、デニスがお手本を示したような見事な二本のゴールであった。

ということで勝点22。暫定であるが6位浮上。トップの浦和が勝点26だから、優勝の目も十分ある。後半戦、目が離せませんな。
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荒川サイクリングロード通勤

2008年06月28日 | 自転車関連

<荒川サイクリングロード。信号も無いし、クルマもいない。曇りなので紫外線も気にならない。>

土曜日だが、出勤日。久々、荒川サイクリングロードを使った自宅~練馬間の自転車通勤を実施。やっぱり気分はいい。相棒は雨が降ったり、酒が呑みたくなったりした時のことを考えて、いつでも電車に乗れる「御免丸」を選んだ。天気は終日「くもり」の予報。時々晴れ間が出たが、ほぼ曇りの中を走行できた。自転車にはいい天候だ。但し、湿気が多いので汗はかく。

途中、信号待ちでemetersの総走行距離を確認すると、

なんと、「1956」キロになっている!

小生の誕生年は1957年だ。これは、記念撮影しろ、ということだ。滅多に総走行距離など確認しないのに、たまたま、長い信号待ちで退屈だったので確認したら“1956”だった。これが、“1958”以上だったら、1957の写真は撮れない。なんという偶然だ。emetersの神様というのは本当にいるのかもしれない、と思った瞬間だった。

そこからは、メーターを睨みながらゆっくりと走行。“1957.0”で止めて撮影したが、小数点第一位まであるので、誕生月の8月まで表示しようと、また遅めに走り、1957.7になったところで、ソロソロ走り。「1957.8」で止めてまた撮る。それが、下の写真。
ま、どうでもいいといえばそうなのだが、こんなことに拘るのも面白いかと。


<1957.8km。小生の生年月は1957年8月だ。>
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とりあえず、リフレッシュ!

2008年06月27日 | 日々の記録

<岩槻公園「八ツ橋」>

原油高騰。アメリカの北朝鮮テロ指定解除。国内では牛肉やうなぎの偽装。馬鹿な短大生のフィレンツェでの落書き事件、と度し難い人間達の聞くに堪えないニュースがつづく。雨は降らぬが蒸し暑い。さすがにこんな時はむしゃくしゃ気分。それでも、会社の帰りに好きな居酒屋で好きな酒と肴で一杯やると、気分はとりあえず回復。マスターの笑顔に癒される。こうやって、ストレスは解消されてるんだなぁと、つくづく感じた一日でした。
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梅雨の朝。アジサイ撮ってきた。

2008年06月26日 | 散歩


実は今日、池袋~会社間を雨でも走ろうと画策し、着替えと雨具を持って準備万端家を出た。最寄の土呂駅までは傘をさして歩く。と、途中で気がついた。しまった!emetersを家に忘れてきてしまった!「ぐりる丸」に挿したまま外してこなかったのだ。家の方へ一度戻りかける。50mほど戻って考えた。

「何も雨だし、無理して自転車通勤する必要はない。一旦家に戻るほどのことではない。今日はあきらめよう。」

と気を取り直し、再び駅へと踵を返す。時計をみる。逡巡していた間に思ったより時は経過していた。乗ろうとしている電車に間に合わないタイミングだ。あわてて、小走りに駅に向かう。階段を駆け上り、ホームに駆け下って、何とか乗れた。

一息ついて、考えた。

「別にemetersが無くたって、自転車通勤すればいいだろ。emeters以外は走れる条件はすべて揃っているんだから。」と自問する。

「確かにそうだけど、emetersが無いのに雨ん中走るのはなぁ。無駄だよ。」ともう一人の自分が言う。

「そうじゃないだろ。日頃、自転車は健康にもいいし環境にもいいと、みんなに吹聴しているではないか。emetersが無くたって走るべきだ。」

「でもなあ。雨ん中走っても距離カウントできないんじゃ意味ないよ。第一、ライバル(浦和のランナーさん)に差をつけれないし・・・。」

「主客転倒ではないか。それでは、機械に使われる工員、コンピューターに使われる事務員と同じだ。」

「世の中そういうもんさ。そんな硬いこと言わずに、公園のアジサイでも見に行こう。こういう時がチャンスだ。近頃、自転車通勤はじめたおかげで、公園に行けなくなった。世の中、臨機応変。人生の選択肢はひとつではない。公園散歩ももともと趣味だったじゃないか。」

「それもそうだ。アジサイ観にいこう!きっと見頃だ。」

ということで本日は雨の公園でアジサイを見てから会社に行きました。

チャン、チャン。
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自転車促進剤「イーメーターズ」

2008年06月25日 | おすすめモノ

<季節のサクランボとイーメーターズ>

梅雨とは名ばかりで雨が降らない日が多い。おかげで、自転車通勤ができる。何回か書いたがブリヂストンサイクルが出した「emeters(イーメーターズ)」を使うようになって俄然自転車に乗るようになった。

池袋駅の駐輪所に「武蔵丸」をデポして往復18キロの自転車通勤を始めたのも、emetersがきっかけだ。前から一度は実行しようとしていた大宮から練馬の本社までの自転車通勤の背中を押してくれたのもemetersだ。

また、都内まで折りたたみ車「御免丸」で走って、居酒屋で呑んで、帰りは輪行して自転車で帰ってくる「酒呑みラン」の企画を思いつかせてくれたのもemeters。おかげで、ブログネタにも困らなくなった。自転車4台を使いこなすことで、クルマを廃車にする踏ん切りをつけてくれたのも、考えてみればemetersだ。

思えば、たった1個のサイクルメーターから生活が一変した。このメーターが凄いのはサイトにつないで、全国の自転車好きの仲間達とコミュニケーションを取れることだ。友達申請しておいて、御互い、励ましあったり、アイデアを交換したりできるのがいい。自分と同じぐらい走っているライバルを見つけておくと、彼には負けたくないと思い、機会を見つけては自転車で走る。この間はカッパ着て雨の中も走った。

“自転車に乗る!”ということのモチベーションが否が応でも持ち上がる“しかけ”がたくさんある。自転車好きの人、これから活用しようと思っている人にぜひおすすめです。
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開かずの踏切

2008年06月24日 | 自転車関連

<夜の踏切。>

自転車通勤にとって信号や踏切は結構じゃまなものだ。(クルマ通勤ではもっとじゃまだろうが。)信号機の方はやたらと数が多いが、待っている時間は一定なので、それほどイラつかない。イラつくという意味では踏切の方が上である。

例の矢印。“→”方向の電車が通過しそうになった直前に点灯する“←”方向の矢印。なんだよ、こっちからもくるのかよ。っとイラつく。それと連続技もある。“→”方向しか点灯していないので安心して、電車の通過を待っていると、通り過ぎても“→”が消えない。連続して“→”方向の電車が来るということだ。そうこうしているうちに“←”の矢印も点灯しやがる。

「永遠に踏切は開かないのではないか」

と不安になる。こんな状況を「開かずの踏切」というのであろう。

都内では西武線の踏切が評判が悪い。これは会社が高架線やトンネル建設などに金を出し惜しんだからだ、ともっぱら地元では言っている。確かに西武池袋線にしても、西武新宿線にしても常に踏切が混んでいる。よく事故が起きないものだと思うぐらい、人、自転車、バイク、クルマ、バスで混み合っている。

最近では高架線のある、踏切では、少々遠回りになるが、そちらを選ぶようにしている。その方が距離が稼げて、しかも精神衛生上もいい。
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クルマの撤去

2008年06月23日 | 日々の記録
今日は会社の駐車場に長らく、置きっぱなしになっていたクルマが撤去された。持ち主は同僚のA氏。A氏は昨年暮れ車検切れ間近の同車を会社の駐車場に置き、買うべきか、廃車にすべきか迷っている内に時間切れとなってしまった。以来六ヶ月、社の駐車場に放置されたままとなる。

A氏の家は9キロ程西にある。通勤手段は電動車に変わった。片道約40分。雨の日も風の日も電動車で通勤してきた。おかげでメタボっていた体が引き締まった。電動車といえども、毎日乗っていれば自転車と同じ効果がある、というのを証明してくれた。

但し、いつまでも会社の駐車場を一台分占領しておくわけにはいかない。都心から離れているとはいえ、この辺も駐車料金は高い。他の社員の目もある。腰の重いT管理部長もついに業を煮やし、先月下旬「6月10日を期日とし、新車を買うのか、廃車にするのかを決断せよ。」とA氏に伝達。

A氏はもともとクルマの運転は苦手な方。クルマは通勤でしか使わない。お住まいは街中だし、お子さんも独立してるし、介護するようなお年よりもいない。あえてクルマはなくてもいい。現に半年間はクルマ無しで生活していた。だが、A氏は迷ったあげく結局“新車”購入を選んだ。小生としては廃車して電動車通勤を継続して欲しかったのだが・・・。

A氏はホンダ「フィット」を購入したようだが、150万円はかかったという。「前のクルマの撤去代も込みだ」というが、撤去代はせいぜい5万円ぐらいのもんだろう。廃車にしてれば145万円の得なのだ。好きなパチンコへの資金としては十分ではないか。どこかに豪勢な旅行に出かけたっていい。「世界一燃費のいいクルマでリッター24キロ走る」というが、ガソリン代は高いまま、タダではない。メタボな身体に戻っちゃうし。いいこと無いんだけどな、クルマって。


以下は撤去の模様を三階の窓から盗撮したもの。


<半年間放置していたので、クルマは動かない。タイヤもペッタンコ。同僚達が借り出され、皆で押す。運転席にいるのがA氏。>


<レッカー車に積み込まれるクルマ。>


<積み込み完了!やれやれ。>
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讃岐・阿波を走る! 第6話 「善通寺」

2008年06月22日 | 自転車の旅

<善通寺の大楠と氷川丸。樹齢千数百年だそうだ。>

真言宗の開祖、弘法大師(空海)の生誕地、善通寺に着いたのは午後3時半。瀬戸内海に面した高松市から、讃岐平野を南西に走って来ると、この辺りから段々と山が迫ってきて、そのまま阿波との国境になる讃岐山脈へと繋がっていく。

空海は西暦774年、この地で生まれた。並外れて学問に優れていたので、15歳の時に都に出て18歳で官吏になるべく“大学”で学んだ。が、すぐ大学を飛び出し、出家してしまう。近畿や四国の山で修業をしていたらしい。その後、804年遣唐使船に乗って長安に行く。

この地の山々を見ていて感じたのだが、空海は子供の時からこの山林で遊んでいたのではないか。彼の“山好き”はこの山々と決して無縁ではないと思った。

若き空海は決まりきった学問を詰め込まれて、有能な官吏になるよりも、山を駆け巡って真理を追い求めたり、危険を冒してでも長安まで行って悟りを開くという方の道を選んだ。有り余る知的エネルギーの矛先を“宇宙と生命の真理追究”に向けたのだ。それが、どれだけ自分の性に合ってるかを退屈な都の生活の中で痛感したに違いない。

3年間長安で修業して帰国後、この地に善通寺を建立したという。以下は善通寺のHPの解説。

<空海の師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立した寺であり、大同2年(807)陰暦12月朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父善通の名をとって「善通寺」と号した。>

境内は思っていたよりも広い。京都東寺、紀州高野山とならぶ弘法大師三大霊跡のひとつだけのことはある。高名な寺だけに寺の名前がそのまま市の名前になっている。珍しいと思ったが、香川県内には観音寺市というのもある。そういえば、東京にも国分寺市があるか。結構ありますナ。

立派な五重塔もある。この連休は特別公開ということで福袋やお菓子を二階から子供達に向けて投げていた。子供にはいいイベントで、静かだった境内がいきなり賑やかになった。

また、「弘法大師誕生の時より繁茂している、樹齢千数百年を経た大楠」という名木がある。クスノキは、暖地に多い常緑高木で、病虫害も少なく長命で老巨木となるものが多い、そうだ。氷川丸も長く活躍できるように、大楠を背景に一枚撮った。

境内をぶらぶらしていたら、時刻は午後4時半。今回の旅の最大の目的である、このあたりにあるという「西行庵」を見つけ出さないと何のためにここまで来たかわからん。

実をいうと、それだけ大事な目標なのに、はっきりとした場所は調べて来なかった。善通寺に行けばなにか手がかりがあるだろう、ぐらいに思っていたのだが、西行庵の場所を教えてくれるものは何も無かった。

頼りは持ってきた白洲正子著「西行」のみ。ページを手繰って、「讃岐の庵室」の項をみる。そこにはこう書いてあった。

 『善通寺の裏山の「曼荼羅寺」に、西行の庵室跡がある、
  ただし、はっきりしたことは現地で聞いてみないと
  解らない。』

と。そして、白洲正子氏は現地で散々迷ったと言っている。曼荼羅寺から先はクルマが入れないので、細い山道を歩いて登らなければならず、現地の人に聞きながら探したがなかなか見つからない。そのたびに麓の村まで戻って、聴きなおして、また出直す、ということを五、六ぺん繰り返したと言う。

そんな、ややこしいとこか。日はすでに傾き始めている。山里の夕暮れは短い。日が沈む前に果たして、見つけることが出来るのか。

少々ではすまない焦りが、胸の辺りをスーっと走った。

               つづく


<五重塔の二階から、福袋やお菓子を投げる人。>


<それを取る子供達。>
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小さな自転車の旅 「岩槻あたり」

2008年06月21日 | 自転車関連

<岩槻城址公園。広々していた。>


<見事な蓮>


<元荒川の流れ。白鷺が木にとまっていた。>

朝から雨の天気予報であったので、午前中は大人しくヤンキース戦を観て過ごした。2-4で松井の二本のヒットもむなしく、レッズに負け、8連勝はならず。7連勝中は観戦できず、たまに見た試合が負け試合とは。トホホホ。

試合終了は11時過ぎ、外は雨が降っていないどころか晴れ間が見えている。

ということでぶらっと自転車散歩に出た。途中雨が降ってもいいように、ポンチョと防止をザックに入れておいた。先週は荒川を北へ行ったので、今日は岩槻方面へ足を向け、元荒川あたりを眺めて帰ってこよう、と大体のコースを決め走り出す。お供は雨を考慮すると、泥除けつきで乗車姿勢も楽な「ぐりる丸」にする。

大和田あたりで県道2号線に出て、ひたすら西へ。岩槻城址公園というのが目についたのでよって見る。築城は江戸城と同じで太田道灌という説もある。その後、北条氏、豊臣氏、徳川氏と受け継がれ、江戸時代の終わりまでここに城があった。明治維新後廃城。今は広々した公園で市民のいこいの場になっている。

そこを出て、元荒川に行く。サイクリングロードでも整備されているかと期待したのだが、無かった。この川は名前の通り、元の荒川である。昔の荒川は、東京湾に流れる利根川の支流で今の元荒川の所を流れていた。1629年に関東郡代の伊奈氏が、熊谷市久下あたりで新しい河道を開き、和田吉野川に付け替えて、今の流れになったという。これにより、元荒川流域に住んでいた人は水害が減り、今の荒川流域の人たちは水害が増えたらしい。

今見比べてみても、元荒川の方は穏やかな流れで、堤も低い。荒川の方が土手にしても川幅にしても大ぶりである。

二時半頃まで走ったが、結局雨は降らなかった。
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インドを走る!part2 第25話「マザファプールへ ~バテる!~」

2008年06月20日 | 自転車の旅「インドを走る!」

<路上で量り売りをする人。カレーの元、香辛料の類か。>

1980年4月16日(水)晴れ

五時にはホテルを出る。さすがに朝は涼しい。ずっとこれならどんなに楽か。しかし、朝早く出ると朝食の確保ができないのがつらい。
今朝も何も食わずに出たのでどうもバテ気味である。蓄積された疲労に加え、不十分な食事で体力が衰えているところに、この暑さである。おかしくならない方がどうかしている。体調面で唯一、良好なのは腹の調子だ。現地の生水をそのまま飲もうが、屋台のバナナを食おうが腹を壊さなくなった。

ラクノーで食中毒にかかった以降は腹の調子は安定している。あの馬に打つような注射が効いて、すっかりインドの水に慣れたのかも知れない。

出発して15キロ地点でまず休憩。チャイとビスケットの栄養補給をしてから出発する。あいかわらず、ドまっすぐな道。両サイドに広がる畑、畑、畑。昨日はモティハリの街から郊外へ抜ける途中、一面に薄紫色の、あれはヒヤシンスであったろうか。湿地に咲いた見事な花畑を目にした。

カメラが直っても、こうバテていてはファインダーを覗く力も無い。考えて見ればダマン峠で撮ったきりではなかったか。なんとも情け無い。

気温が上がるとともにバテ方が尋常ではなくなる。10時半ごろ着いた名も知らぬ街、マザファプールまであと30キロという地点の茶店で昼寝と決め込む。自転車を降りると暑さが体の芯までしみこむようだ。まことに、凄まじい限りである。チャイ屋でチャイを二杯呑んだ後、余程、ダルそうにしていたのだろう。この土地の人がきて、ウチで寝ろ、と彼の家へ連れていってくれる。

しばらくベッドに寝かせてもらったが、どうもバテ方が激しい。熱こそないが、かなり疲れている。(筆者注:今から思うと“熱中症”にかかっていたようだ。)彼、私が起きだすと水を一杯持ってきてくれる。壷に直接口をつけて飲んでいると、今度は茶色の粉を持ってくる。何の粉だろう。少しつまんで嘗めてみると、黄な粉である。これには一瞬感動した。

これを水にとかして飲むとガッツが出るらしい。しきりにガッツポーズをとっていた。黄な粉は「サートー」と言う名らしい。水に溶かしている時に子供が、チニ(砂糖)だかナマック(塩)だか、とにかく白い粉状のものを入れる。サートーという名や「黄な粉=あべかわ餅」というイメージから、おそらくチニ(砂糖)であろうと思っていたが、出来上がって飲んでみると、意に反してこれがショッパイ。

壷に大量に入れた黄な粉ドリンクはゆうに三杯もあった。腹がガボガボとなる。仏陀は難行苦行の末、スジャータという女人に米のとぎ汁をもらって、悟りを開いたというが、凡人の我が心に覚醒するもの何もなし。ただ、胃の中で黄な粉汁がカポカポいうのみ。まだまだ、修行が足りないようである。

その後、その黄な粉ドリンクが効いたのか気分が幾分楽になり、腹も減ったのでカトマンドゥで買った、とっておきの即席ラーメンを作ることにした。コッフェルに水を入れ、ラジウス(携帯用ガソリンコンロ)で湯を沸かす。この作業が余程珍しいらしく、村人が集まってきて一部始終眺めだす。

中に入れる具はないが、ま、いいか、と思っていると、家の人、生卵をひとつ持ってきて、またガッツポーズをする。ありがたきことなり。麺を沸騰してきた湯に入れて、箸でほぐしたところに生卵を割って入れると、眺めていた村人達がアーデモナイ、コーデモナイと俄かに騒ぎ出す。現地語なので、何を言ってるかは不明。

何が面白いのかみな、ニヤニヤしている。出来上がって、ふーふー冷ましながら、箸でラーメンをすする段になると、最前列の子供、ついに声を立てて笑い出す。(バーロー、手掴みで喰うよりはましだい。)

又、ベッドにころがる。どうも、ラーメン食っても胃がもたれる。しかしながら、ここにいつまでもお世話になっているわけにも行かないので、少し涼しくなった3時過ぎ、マザファプールへ向けて旅立つ。

ベッドを貸してくれた人に黄な粉汁とラーメンに入れた卵の代金を払おうとすると、そんなものはいらないと手をヒラヒラさせながら「ネヒーン(=NO)」と言う。本当に世話になった。お陰で助かった。日本から持ってきていたお土産用の三色ボールペンも、既になく、何もあげられず去ることになった。心残りであったが、お辞儀をして立ち去る。

フラフラとマザファプールへ向かう。途中、一度休む。どうも力が入らん。疲れていて体がだるい。しかし、若干追い風にて走りやすし。しばしの休憩の後、又、懲りもせずペダルをこぎ始める。

元気な時は私もウェルナーのように一年も二年も世界をまたに走ってやろうなどと思ったりするのだが、こういう時はあいつはキチガイとしか思えない。相変わらず、わずかの木々と畑の中の一本道が続く。疲れるが開き直って唄を歌う。

♪陽はまた昇る~ どんな人の心にも~♪


つづく

※「インドを走る!」について
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呑み処徘徊 第七回 「和浦酒場」

2008年06月19日 | 呑み処徘徊

<この店構えが“酒場”らしくていい>

今回は地元さいたま市にある「和浦酒場」に行ってみた。場所は浦和駅西口だ。同じさいたま市ではあるが、Jリーグでも大宮アルディージャと浦和レッズと2チームあり、大宮人にとっては浦和はライバル的存在、“地元”という気はあまりしない。駅を降りて、線路沿いに大宮方面へ5分ほど歩くとその店はあった。

外にも小ぶりのテーブルと椅子があり、提灯がぶら下がってる。それ自体が屋台のようだ。それらも含めて、男性的な雰囲気であるのだが、どこかこぎれいで洗練された店構えだ。その所為か、店内のお客も若い人中心で、女性客だけのグループもある。店員もみな若くて、人当たりがいい。

カウンターに座って、まずは生ビールをたのむ。“名物”と謳っている「煮込み」と「〆さば」を注文するが、煮込みは売り切れ。仕方ないので、代わりに「おでん」をたのむ。大根、こんにゃく、シラタキ、牛すじだ。出汁がよく効いているのでどれもいい味だ。特にシラタキの食感がよかった。「〆さば」はあまりきつく〆ていないサッパリ系。上品な味だが、小生はもっと〆てある方が好みだ。

酒はビールの後、神亀の熱燗と静岡の「キクスイ」を冷でいただく。酒を一合呑む毎に飲み頃にさました「白湯」が出てくる。酔い過ぎ防止の優しい気遣いである。全体に上品で丁寧な応対で女性客の多いのもうなづける。

ほどよく、酔ったところで、〆ごはんの中から「明太ごはん」をたのんだ。これは少し塩辛く満足度は低かった。この店に限らず、概して居酒屋の「〆ごはん」というのは“もうひとつ”の感がある。美味しいものを食べた後なので、“風味”で負けるのか、腹が満たされているのに食べるからか、満足度の高いものに出会うことはあまりない。一旦店を出た後、うどんなり、ラーメンなりを食べた方がいいのか、と思うが、こちらの方もあまり“旨い”と感じたことがない。もっとも、呑みすぎて、食べたのも忘れることもしばしばあるが・・・。

この店は全体に平均的居酒屋より、上品であり、仕事も丁寧だし、接客もいい。そこが特徴で若い人たちに受けているようだ。が、それが欠点でもあるような気がする。少なくとも、小生のような酒呑みオヤジには敷居がちと高い。
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“人力生活”の主役達を紹介

2008年06月18日 | 自転車関連
今年の3月にクルマを廃車にし、4台の自転車を使って通勤やレジャーに活用している。その“人力生活”の主役達を本日、一挙公開!

紹介文の記号、番号の意味は以下の通り。

◆愛称 
 ①命名由来 
 ②ベース車 
 ③主な役割  
 ④戦績  
 ⑤誕生日



◆『氷川丸』 
 ①「大宮」の名前の由来武蔵国一ノ宮「氷川神社」からとった。
 ②神田アルプス製「パスハンター」(輪行仕様)
 ③電車や飛行機に積んでワープ。2~3日の自転車の旅用。
  パスハンター(峠越え)仕様なので、悪路でも可。
 ④・旧中仙道(ホントの旧道)を日本橋から京三条大橋まで走破。
  ・熊野詣自転車の旅
  ・讃岐・阿波自転車の旅 など
 ⑤2005年6月25日(まもなく満三歳)



◆『御免丸』 
 ①中学生の頃、好きだったNHKの人気番組「天下御免」の中に
  「御免丸」って船があったような記憶から。以前、折たたんで
  混んでる電車に乗った時に、「皆の衆、ごめん!」って思った
  ことからもこう名づけた。
 ②ブリヂストンサイクル製「トランジットスポーツ2016」(現在廃盤)
 ③舗装道路ではロード並の走りが可能。折りたたみ構造も簡単なので、
  小回り旅行に最適。
  「行きはよいよい、帰りは酔い酔い」がキャッチフレーズ。   
 ④最近は都内に呑みに行く時に使っているが、秋田県の男鹿半島を
  走ったこともある。
 ⑤1999年11月



◆『武蔵丸』
 ①お相撲さんではありません。東京都と埼玉県を主に走るので
  両都県の旧名「武蔵国」から。
 ②ブリヂストンサイクル製「プレスティーノ インター8(内装8段)」
 ③池袋駅の駐輪場にデポ。池袋駅~会社間の通勤用。
 ④今のところ、池袋~会社間のみ。大宮から荒川サイクリンロード
  経由で練馬の会社まで走ったこともある。
 ⑤2008年3月26日



◆『ぐりる丸』
 ①「野球に行く」→「やきーにく」→「焼肉」→「grill」→「ぐりる」
 ②ブリヂストンサイクル製「サブナードスポーツ エアハブ(初代)」
 ③名前の通り、野球に行く時に使う。幅広バスケット&両足スタンドが特徴。
  買い物、大宮駅までの通勤にも使用。買い物時は一升瓶が真横に入る
  バスケットが自慢。
 ④自宅近辺が多いが、野球の試合会場まで片道10kmぐらいはあるので
  結構走ってる。練馬の会社まで往復したこともある。
 ⑤2004年4月



以上4台です。すべてに「emeters(イーメーターズ)」のセンサーコードを取り付けている。

「~丸」という名で統一しているのは小生の好み。この「~丸」は船名に多く、遠くへ出かけるイメージが自転車とも共通している。また、子供の時から忍者が好きで、忍者の名前に多いこともこの「丸」をつけた理由のひとつ。小学校低学年の時の「将来なりたい職業」は“忍者”だった。
 例:「風のフジ丸」「伊賀の影丸」「ビュンビュン丸」。ヤキソバが大好きな「伊賀のカバ丸」というのもいた。

この他、学生時代に活躍したご老体や全然使ってないロードが家の中にある。おいおい紹介します。

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旭川散歩 ~エゾシロチョウ~

2008年06月17日 | 散歩

<ラベンダーとエゾシロチョウ>

旭川は北海道では札幌に次ぐ、都市だ。人口は40万ほどだが、とにかく広々していて、内地の平均的な日本の景色とはかけ離れている。松山千春の「大空」は、この旭川によく似合う歌だと思った。バブル崩壊以降、企業の支店などは減ったようだが、「旭山動物公園」の大ヒットで押しかけてくる観光客で潤っていると言う。

先週、その旭川に社用で行った折、暇な時間に近くの公園をぶらぶらしていると、ラベンダーの花壇に白い蝶がヒラヒラ。シャッターチャンスとばかりにそっと近づく。♪広い大地のその中で♪育った蝶は呑気なのか、これを獲ろうとする人間がいないのか、小生が近づいても逃げない。デジカメをマクロモードにして接近して撮った。

同じ“とる”でも“獲る”だと、虫かごやら餌などの心配をしなくてはならないが、デジカメに納めるというのはあとくされなくていいものだ。そして、データを消さない限りいつでも見られる。なんとなく、西遊記に出てくる、金角か銀角が持っていた瓢箪の便利さを思い出した。蝶も撮られるのはいいが、獲られるのは勘弁願いたいだろう。

で、自宅に帰ってこの画像を見た。変わったモンシロチョウだな、と思ってネットでチェックしたら、北海道にしか生息していないエゾシロチョウだそうだ。漢字で書くと

“蝦夷白蝶”

なんかゾクっとしますナ。ラベンダーの蜜を吸うエゾシロチョウ。いかにも“北海道”という絵が撮れました。
コメント (2)
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水田に立つ建設中の橋桁

2008年06月16日 | 日々の記録



昨日、荒川サイクリングロードを走っていたら、桶川の太郎右衛門橋の北側に巨大な橋桁が、ギリシャのパルテノン神殿の柱のように立ち並んでいた。建設中の圏央道(首都圏中央連絡自動車道の略)だ。2009年には「桶川」まで開通、2012年には「つくば」まで到達するようだ。

この姿はこれから“生まれる姿”なのであるが、ふと、パルテノンではないが“遺跡”に見えた。この先、ガソリン代が高騰して、クルマの利用者が激減したら、文字通り「無用の長物」になりはしないか。短期的にガソリン代の高騰は抑えられ、クルマ利用が復活したとしても、50年、100年経つうちには、石油資源は枯渇する。代替エネルギーがあるのかどうかは定かでないが、今までのような、クルマ利用は終わりを告げるだろう。

そして、さらに百年、二百年と経つうちに、道路は忘れ去られ、朽ち果てて、パルテノンの柱のように、ローマの水道橋のように、遺跡として仰ぎ見られるだけの存在になるのではないか。それに比べると手前の水田はこの先200年、300年経とうと青々としているに違いないと思った。

もっとも、日本人が日本国を治めていればの話しだが・・・。
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