
6月3日午前、長嶋茂雄氏の訃報が全国を駆け巡った。「ついにこの日が来たか」と思った。昨年11月に北の富士氏が亡くなった時、次は長嶋茂雄氏かもしれないとふと思った。そして、この日が来ることをある程度覚悟はしていた。
昭和32年生まれの小生にとって”長嶋”は物心ついた時からのスーパースターで、父親の影響もあり、大の”長嶋”ファンとして育ち、”長嶋”の影響で野球も始めた。小学校1年の時に父からもらったグローブでキャッチボールをして以来、中学、高校は野球部、大学時代も仲間と草野球をやったし、会社に入ってからは野球部に所属し、今は還暦野球をやっている。”長嶋”のおかげでざっと60年間野球を楽しむ人生を送らせてもらっている。
その”長嶋”の引退は小生高校2年の時だった。1時間目の授業終了後、学校を抜け出して後楽園まで行って引退試合を観た。また、監督としての二度目の日本シリーズ制覇、2000年10月28日の東京ドームで行われた王ホークスとの第6戦も見届けた。現役の引退試合と監督最後の日本シリーズ制覇の両方を観た人間がこの世に何人いるか。そう多くは無いと思う。小生の数少ない”自慢ネタ”のひとつである。
以下は当ブログの2009年10月14日に書いた「長嶋茂雄引退試合」から抜粋。
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<長嶋引退試合の切符の半券。250円で二試合観られた。今も当日の日記のページに挟んである>
1974年の10月14日。“栄光の背番号3”のその人は「巨人軍は永久に不滅です」という有名なセリフを最後に現役を去った。この年は巨人が10連覇を逃した年でもある。小生は高校2年だった。[中略]この日は月曜日であったので普通に授業があった。
1時間目が終わり、部室に教科書を取りに行くと、同年の部員が二人いた。小生は決断した。「今日で長嶋は引退だ。俺は今から後楽園に観に行くことにした。ふたりはどうする?」と誘った。二人とも、よし行こう、と即決。[中略]我々は学校の裏門の柵をよじ登って学校をふけた。(エスケープのことを当時はそのように言った)
学校から後楽園までは歩きと電車で1時間ぐらいだったと思う。その日は中日とのダブルヘッダーであった。第一試合は正午からであったが、十分間に合った。レフトスタンド中段あたりに我々は陣取った。第一試合の四回一死一塁で迎えた長嶋の第2打席。観客5万人の願いが叶い、通算444号目のホームランをレフトスタンドに放つ。我々が観戦していた前方10mぐらいのところにその打球は突き刺さった。
「全員総立ちで、天地がひっくり返るのではないかと思うほどの騒ぎだ。さすが!と胸がつまった」
と、この日の小生の日記は語る。結局この試合、長嶋は3安打。観客からは「やめないでくれ!長嶋ぁ」とか「まだまだやれるぞ!」の声がアチコチからかかる。二試合目までの休み時間に長嶋がファンに感謝の為、場内を一周した。様々な声援の前に感極まったか、最初は笑って手を振っていたが、ついにタオルをポケットから出して、顔にあてて男泣き。思わず、もらい涙を流した。
二試合目の最終打席。柴田、高田の連続安打で一死一三塁のお膳立て。嵐のような大歓声の中、ショートゴロ併殺打で終わる。これはこれで長嶋らしかった。二試合終了してとっぷりと日が暮れ、場内に照明がつけられて、引退セレモニーが始まった。
「昭和三十三年、栄光の巨人軍入団以来・・・」という、今にも泣き出しそうなやや震え、かすれた声が球場内に響き渡った。またもや大歓声。そして、最後に締めくくった言葉が、
「我が栄光の巨人軍は永久に不滅です」
だった。
一度、スタジアムを去った長嶋が、拍手を続けて帰らない観客のためにもう一度出てきてくれた。コンサートのアンコールのようだった。これであきらめの着いた観客達はようやく球場を後にしたのだった。
この日の小生の日記の最後は、
「今日は本当に来てよかった。授業では学べないものが学べた。私はこの日を忘れないだろう。“栄光の背番号3”これを見るとき、野球をやって良かった、この試合を観に来て良かった、と生涯思い出すことだろう」
と締めくくられていた。
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長嶋氏は68歳の時に脳梗塞で倒れた。奇しくも小生、今年68歳になる。健康に気をつけて、まだまだ”野球”を楽しみたい。そうすることが「野球は人生そのもの」と言っていた故人の供養になると思っている。
長嶋さん、あなたがいなければ小生の人生は非常に味気ないものになっていたかもしれません。本当にありがとうございました。