萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

プラハの歴史

2007年08月03日 | 中欧の旅

<プラハの街並み>

 ようやく、梅雨が明けた。ただし、台風5号が近づいているせいか、空模様は不安定だ。

さて、「プラハの歴史」である。

(以下内容は主に「ウイキペディア」から引用)

 6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に集落が形成された。9世紀後半にはプラハ城、10世紀頃にヴィシュフラト城が建てられ、両城に挟まれたこの地に街が発達した。973年にキリスト教の司教座が置かれると、ユダヤ人の入植が始まった。しかし、プラハは度重なる戦渦に巻き込まれ、荒廃してしまう。

 1346年にボヘミア王、カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立(1348年)、カレル橋の建設(1357年)とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。「黄金のプラハ」と形容されるほどだった。

 この14世紀の時代、カレル4世治世時に今のプラハのおおよそが出来上がったようだ。

 15世紀にはフスらの宗教改革運動の中心地。16世紀からはハプスブルク家の支配下になる。16世紀後半には、芸術や科学を愛するルドルフ2世のもと、プラハに芸術家、錬金術師、占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極める。17世紀前半は「三十年戦争」。これが終結後、王宮はウィーンに移され、プラハの人口は激減。加えて、チェコ語の禁止、宗教、文化への弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、長い「暗黒の時代」を迎えることになる。
 
 18世紀末、フランス革命やドイツ・ロマン主義に影響を受けた知識人らによって再び民族独立の動きが強まる。1848年にはプラハ市民による、オーストリアに対する蜂起がおこるが失敗した。第一次世界大戦終結後の1918年になってようやくオーストリア・ハンガリー帝国が解体し、チェコスロヴァキア共和国が成立するとプラハ城に大統領府が置かれ、首都となった。

 しかし、1938年、ナチス・ドイツによって占領され、チェコスロヴァキアは解体されてしまった。第二次世界大戦中はここに居住していたユダヤ人約5万人がナチスによって殺害された。しかし、プラハが大規模な戦火に曝されることはなかった。

 第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ワルシャワ条約機構軍(ソ連軍)の侵攻を受け、改革派は弾圧された。しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロヴァキアが分離するとチェコの首都となった。


ヨーロッパの真ん中に位置するためか、時代時代の強国、強者に支配されてきた歴史である。日本のような島国と違い、四方陸続きとはこういうことか、と改めて思ってしまう。救いは数々の戦争を得てきたにもかかわらず14世紀からの街の外観を失っていないということか。





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