松本までは追い風もあり、思っていた以上に快適に走れた。雲行きが怪しくなってきていたので、ついついペダリングも早回しになったのがよかったのかもしれない。休憩は松本城でしようと思っていたので、まっすぐに城を目指した。ここは最近では2011年1月に鉄道を使って訪れた。であるから、入場料払って天守閣の中に入るつもりはなく、今回は休息兼ねて外から眺めるだけにとどめた。
松本城は文禄(1593~1594)時代に建てられ、天守閣は日本最古のものである。四百余年の風雪に耐え戦国時代そのままの天守が保存されている。昭和11年に国宝に指定され、姫路城、彦根城、犬山城とともに四つの国宝城郭のひとつとなっている。
もともとこの地は信濃の守護小笠原氏が治めていたが、甲斐の武田信玄が、この地を占拠し信濃支配の拠点とした。その後、天正10年(1582年)、本能寺の変のドサクサに小笠原氏が奪還した。秀吉が天下を統一すると、徳川家康を関東に移封(1590年)。徳川方の小笠原氏も下総へ移り、石川数正が代わって松本城に入った。数正とその子康長によって、この城と城下町は整備され、近世城郭として現在の松本城の基礎が固まった。
石川数正といえば、徳川家康の譜代にして筆頭家老まで勤めていたが、小牧長久手の戦い(1584年)後、一族百余名で出奔、秀吉に仕える、という大どんでん返しをしでかした武将である。なぜ、長年仕えた家康から秀吉に奔ったかは、今なお不明である。諸説あるが、
『徳川家内の派閥争い、三河武士の無骨さに嫌気がさしていた上に、秀吉に内通しているとの疑いもでてきて、このまま、徳川方にいては粛清されかねないと思っているところへ、秀吉から好条件の引き抜き提案があり、出奔を決意した』
というあたりが妥当ではないだろうか。実際、秀吉は小牧長久手の戦いで家康に勝てず、徳川軍団をかなり手ごわい相手と思っており、数正引き抜きには金に糸目をつけなかったに違いない。
数正はすぐに和泉8万石の大名に取りたてられ、家康が関東に移った後は松本10万石に加増され、それなりに出世をしている。数正自身は秀吉の死(1598年)より早い1593年に亡くなっており、秀吉側に奔ってよかったなあ、と思ったまま他界したと思うが、後がいけない。
長男康長、次男康勝は関が原の戦い(1600年)では徳川方についたため、松本藩の所領は安堵されたが、1613年に起きた「大久保長安事件」に連座、大久保長安と姻戚関係があるという理由で改易され、肥後(大分県)佐伯に流されてしまう。この処置の裏には、数正の時代に徳川を裏切ったことがまだ禍根として残っていたと思う。この時期、大阪冬の陣の前で、家康はまだ健在だった。長男康長は配所で大人しくしていたのか、長命を得、89歳(1643年)まで生きた。次男康勝は大阪冬の陣、夏の陣に大阪方で参戦し、夏の陣(1615年)で真田幸村らとともに討死した。
戦国時代の終わりの頃に建てられた松本城。その姿は黒い甲冑に身をまとった戦国武将のようであり、四百有余年を経た今でも、猛々しき気魂が伝わってきそうである。
幕藩体制が崩壊し明治維新となり、明治6年の廃城令以降、多くの城が壊された。城下町の多かった江戸時代では城はシンボルであり、その町の個性や伝統をささえていたに違いなく、それなりの情緒があったことを思うと残念である。廃城令後に残った城は43城と1城塞で、128城と68陣屋,11城塞が廃城となったそうである。
今となっては沢山の城が残っていた方が観光資源にもなるし、なぜ壊してしまったのだろうと思うが、できたばかりの明治新政府にとっては、城を残すことは死活問題だったのだろう。城は即要塞となるため、全国の不満分子があちこちの城に立て籠もって反旗を翻されたら、産声を上げたばかりの新政府はひとたまりもなかったろう。現に明治10年の西南戦争では政府側は熊本城のおかげで西郷軍を遮ることができた。ヒステリックに廃城令をかざして、城を潰していったのもやむを得なかったかもしれない。
わずかに残った城であるが、太平洋戦争の空襲の標的にされ、さらに数は減ってしまった。原爆で広島城の天守閣は一瞬で吹っ飛んだそうだ。昔の戦の城塞も現代の高性能爆弾ではひとたまりもない。明治政府の武力が強大であったら、たとえば、高性能ミサイルなどを持っていたら、廃城令はださなかっただろう。
松本城を後にすると、いよいよ黒い雲が目立ってきた。雨が降りだす前に本日の宿(ビジネスホテル)目指して結構なスピードで走ったのだった。
<つづく>