萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

442年ぶりの皆既月食。

2022年11月09日 | 歴史モノ

<会社同期の友人ホセ氏撮影。皆既となっても赤黒い月だった。7時の位置に天王星を観ることができる。左は20:32時点、右は20:42時点とのこと。右の写真はまさに「天王星食」寸前の映像である。>

令和4年(2022年) 11月08日 (火) 晴れ 総歩数 4,932

今晩は皆既月食という天体ショーを堪能した。iPhoneで撮ろうとしたが、全くダメ。目に焼きつける方針に変更。ところが、一眼レフを持っていてテクニックのある、会社同期のホセ氏が上の天体ショーの映像を送ってくれた。誠にありがたし。

国立天文台によると、前回、日本で皆既月食と惑星食が同時に見られたのは、今から442年前、織田信長が活躍した安土桃山時代の天正8年(西暦1580年)6月15日だったとのこと。

徳川家康の家臣、松平家忠が記した「家忠日記」の天正8年6月15日に「月しよくいぬゐの時かいけん」と読める記述があり、『いぬい』とは午後7時から11時の時刻を指し、計算からは天正8年6月15日の皆既月食は午後7時32分ごろに始まり、午後8時44分ごろに終わったとみられ、「月食」の記述がある時刻と一致するとのこと。

「家忠日記」をまとめた書籍「松平家忠日記(角川選書)」という本を持っていたので、早速覗いてみたが、月食の記述は見当たらなかったが、天正8年(西暦1580年)といえば、織田信長が武田を滅ぼす準備をしていた時期で、同盟者の家康の家臣だった家忠も武田を攻めるために静岡県の「牧野原城」につめていた頃だ。

当時は夜になれば、真っ暗闇。その時、家忠25歳。信長の天下統一目前、煌々と照る月の皆既食、どんな気持ちで眺めていたのだろう。この二年後本能寺の変。家忠は徳川家康の天下取り目前の西暦1600年、天下分け目の「関ヶ原」の時に伏見城で戦死。45歳だった。

殺伐としてはいたが、充実していたであろう戦国武士の家忠の観た「皆既月食」と、今晩隠居人の小生が観たそれと、違いがあったのか、無かったのか。樹齢500年以上の樹々にしかわからんか。

この次、観られるのは322年後だそうだ。現代人で観ることができる人はいない。不公平なことの多い人の世であるが、これほど公平なことはない。

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大宮駅の昔の写真発見!

2021年12月24日 | 歴史モノ

<昭和36年(1961年)の大宮駅>

令和3年(2021年) 12月23日(木)  晴れ  総歩数4,077

近所の商業施設内にある書店の壁にさいたま市大宮区や北区の昔の写真が十枚ほど貼ってあった。中でも昭和36年撮影の「大宮駅」に目がいったのでiPhoneにおさめてきた。60年前、小生4歳の時の大宮駅だ。

おそらく「東口」の写真だと思うが、今のような人だかりもなく、実に閑散としている。歩いている人たちも穏やかな感じで、現代のような”せかせか感”は無く、気品があるように見える。この時代、貧しくとも心には”余裕”や”寛大さ”のある「古き良き時代」だったと思う。そんな感じが漂う一枚である。

 

<本日の昼めし「焼きそばパン」:ホットサンドメーカーで作った。8枚切りの食パンにマヨネーズとカラシを塗って、市販の焼きそばを生のまま載せて、粉末ソースをかける。その上に鶏そぼろとキャベツを載せて、ホットサンドメーカーで挟んで、片面2〜3分づつ焼く。蓋を開け麺の方に新たな8枚切り食パンを載せて、再びホットサンドメーカーで挟み、新たなパンを載せた面を2分ほど焼いて出来上がり。思いの外旨かった。キャンプめしにも応用できる。ホットサンドメーカーというのは工夫次第で色々できそうなので、面白いのだ。>

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丑三つに 鬼滅の刃を 読み耽り

2021年09月10日 | 歴史モノ

昨夜は10時に寝たので午前2時過ぎに目が覚めた。大抵、眠りについて四時間すると、一旦目が覚めてしまう。浅い眠りのままでいいので、もう三時間ぐらい寝られればベストだと思うのだが、四時間寝たら目を覚ましてしまうことが多い。そんな時は開き直って、枕元においておいた本を読んで、眠くなるまで待つ。

で、今晩の枕元には「鬼滅の刃」(コミック)と「ルーツ」(文庫)を置いておいた。最初に手にとった「鬼滅の刃」は眠くなるどころか、逆に目がさえてしまった。「ルーツ」なら眠くなるかと思って、読み出したのだが、西アフリカのガンビアの部落で家族や仲間と幸せに暮らしていた主人公16歳のクンタ・キンテが、白人の奴隷商人に捕まってしまうという、この物語のキモの場面に出くわしてしまった。これで、完全に目が覚めた。

クンタは捕まりたく無いので、必死の抵抗をするが、気を失うまでボコボコに殴られ、足枷手枷つけられて船倉に放り込まれ、筆舌に尽くし難い劣悪な環境下で連れていかれてしまう。人間が人間に対してやることでは無いだろう。可哀そう過ぎる。

この「大西洋奴隷貿易」と呼ばれる史実は15世紀〜19世紀の間に西アフリカから1000万人の奴隷が輸出されたという(諸説あり)。しかし、半分から三分の二は劣悪な環境下での輸送途中で命を落としたとも言われており、連れ去られた人数は2000〜3000万人と推定されている。

「鬼滅の刃」も「ルーツ」も「善良な人間が拐われて命を落とす」という共通点があるが、「鬼滅の刃」の”鬼たち”よりも、「ルーツ」の奴隷貿易を成立させた”人間たち”の方が規模において恐ろしい。しかも、前者は架空の物語だが、後者は史実である。

枕元には退屈な本をおくべし。

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少年老いやすく・・・

2021年06月12日 | 歴史モノ

令和3年(2021年) 6月11日(金)  晴れ 総歩数6,610歩

梅雨入り間近なんだろうが、ここんとこ連続して雨は降らず、なかなか梅雨入り宣言は出ない。本日も雲は多かったが、晴れた。

午前中は書斎に籠もった。書斎に籠もって、何をやっているかというと、ウォーミングアップに左手での「写経」をやった後は、勉強。当初は日本の幕末から大東亜戦争までをしっかり”おさらい”しようと思って始めた。いろいろ資料を読んでいる内に「大英帝国」という、とんでもない”帝国”に興味を持ち、今は日本近代史と大英帝国史の両方を関連づけながらコツコツと勉強している。

やり方としては、書斎にある関連資料の補完として図書館から、これはと思う本を手当たり次第に借り出して、いい本だと思ったものをメモを取りながら、読んでいる。こんなことをやり始めると、2時間3時間はあっという間で、いくら時間があっても足りん、という心持ちになる。

 少年老いやすく学成り難し、老年死にやすく、なお学成り難し。

それでも、やらないよりはマシと思って、書斎に籠っているが、これがなかなか面白い。しばらくは病みつきになりそうである。

<本日の昼メシ「たこ梅ご飯定食」:タコと梅干しとミニトマトを炊き込んだご飯と豆腐とレタスと春雨のキムチ味噌汁。おかずは鯛の刺身のゴマヅケ。なかなか充実した昼メシでした(^.^) >

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久々に書斎にこもってみた。

2020年04月28日 | 歴史モノ

<霊峰富士>

家にずっといてTVも見飽きてきた。このままだと精神が鬱屈するような気がしてきたので、書斎を片付けて、勉強することにした。とりあえずは歴史物をと思って、大河で「麒麟がくる」をやっているので、戦国時代を振り返ることにした。

前から疑問に思っていたことの一つに、

「秀吉没後わずか二年で天下分け目の「関ヶ原」が起こり、東軍圧勝で家康が天下をほぼ手中できたのはなぜか?」

ということである。秀吉は家康を恐れるあまり、自分の死後も豊臣家安泰をはかり、五大老五奉行制をしいて、家康を封じ込めようとした。五大老五奉行の10人のうち家康以外は秀吉恩顧の大名、配下で、

親豊臣:家康=9:1

であり、秀吉没後といえども、家康には不利な図式だったと思う。しかも、秀吉は家康を関八州に追いやり、周りを親豊臣大名でかためた。政治でも領土でも完全に家康を封じ込めたのだが、”1”である家康に敵わず、2年後には天下の趨勢は家康に大きく傾いたのである。

思えば秀吉の晩年は秀次、利休の粛清や朝鮮出兵など、あまりいい印象はない。かたや、NO2の実力者家康は”律儀者”という評判もあったし、他の大名からは一目置かれていた。一奉行の石田三成あたりがどう画策しても、家康に勝てるはずはなかったのだ。

そして、関ヶ原で西軍に組した五大老の毛利、上杉は家康によって減封され、彼らが持っていた「石見銀山」「佐渡金山」までも家康のものとなる。領土も鉱山も全国規模で手にした家康は征夷大将軍になり、幕府を開き、とうとう言うことを聞かなかった、淀殿、秀頼親子を滅ぼし、天下を掌握したのであった。

秀吉没後、家康が天下をとったのは”無理矢理”ではなく”必然”だったと改めて思ったのだった。

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アレクサンドロス、再び。

2019年06月30日 | 歴史モノ

<アレクサンドロス大王の帝国図>

昨晩も都内で呑んで帰ってきた。一次会だけですんだので、家に着いたのは10時ごろ。それでも結構酔っていたので、二階のベッドに辿り着くや、バタンQ。いつに無く睡眠時間が長かったので今朝の目覚めは悪くなし。

目覚めた後は読書。塩野七生著「ギリシア人の物語3」を読了。マケドニアの若き英雄アレクサンドロスは22歳の時に故国マケドニアを後にして、東征を開始し、ペルシアを滅ぼし、インダス川まで到達して、尚もインド中央部をも制圧しようという意気込みを見せたが、故郷に帰りたい兵士達の強い反発で引き返すことに。

帰路の途中バビロンで高熱に倒れ32歳で急遽。マケドニアを出てから10年、故郷に戻ることなく没したのであった。死因はマラリアだったのではないかと言われているが定かではない。ヨーロッパ人初の大版図を征服したこの若き英雄を西欧人はいまだに愛しつづけているようだ。そのあたりを著者(塩野七生)は、読者に問うカタチで、以下のように締めくくっている。

*************

なぜ、彼(アレクサンドロス)だけがのちの人々から「大王」と呼ばれるようになったのか。

なぜ、キリスト教の聖人でもないのに、今でもキリスト教徒の親は子に、アレクサンドロス(英語ならばアレクサンダー、イタリア語ならばアレッサンドロ、略称ならばアレックス)という名をつける人が絶えないのか。

その理由はただ単に、広大な地域の征服者であったからか。
それとも、他にも、愛する息子にこの名を与えるに充分な、理由があるのか。
なぜアレクサンドロスは、二千三百年が過ぎた今でも、こうも人々から愛されつづけているのか。

*************

確かにサッカーの選手なら、イタリアのユベントスで活躍した「アレッサンドロ・デル・ピエロ」、現役で活躍しているチリの「アレックス・サンチェス」、MLBならヤンキースなどで活躍した「アレックス・ロドリゲス」などの名をすぐに思い出す。

人は大きな業績を上げたにも関わらず、若くして亡くなってしまった人間が好きなのではないか。日本でも源義経、坂本龍馬、沢村栄治などは今でも人気が有るではないか。ましてや、ヨーロッパ人初の大版図征服という偉業を成し遂げた、アレクサンドロスである。二千年経とうが、一万年経とうが未来永劫「大英雄」の地位は揺るがないのではないだろうか。
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埼玉歴史散歩「菅谷館〜鉢形城」&水汲み。

2019年02月18日 | 歴史モノ

<菅谷館跡の公園の梅>


<菅谷館の案内板>


<鉢形城本丸跡>


<鉢形城案内板>


<日本水(やまとみず)。平日でも水を汲みに来ている人と必ず出くわす。>

本日は天気も良く穏やかな一日だったこともあり、風來で出かけてきた。埼玉県寄居にある「日本水(やまとみず)」を汲みに行くのが第一の目的だったのだが、ついでにあっち方面の城跡の史跡なども見て来ようと思って出かけた。まず行ったのは、鎌倉時代の武将畠山重忠の居城とされている「菅谷館跡」に行ってみた。資料館は休館日だったが、史跡は見ることができた。思っていた以上に広かった。冬枯れの景色のなか、梅も咲いていてなかなかいい場所だと思った。

続いては日本百名城にも選ばれている「鉢形城」を見学。ここも大規模な範囲で城跡が残っており見応えがあった。1590年、秀吉の小田原征伐の折には、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、本多忠勝という名だたる武将たちに率いられた三万五千の兵に攻められたが、北条勢はその十分の一の3500人で一ヶ月持ちこたえたという。荒川と深沢川にはさまれた断崖絶壁の上に築かれた天然要害の城だったので、攻める方も大変だったのだろう。ここの資料館も月曜日は休館だったので詳細を知ることは出来なかった。また改めて出直そうと思って城を後にした。

日本水(やまとみず)には午後1時半ごろ到着。ポリタンク2つとペットボトル3本に水を詰めて引き返してきた。埼玉県の北西部には史跡や観光地もあるし、登山や自転車に適した山や峠もある。水を汲みに行きがてら遊べる、格好の場所であると思ったのだった。


<水汲みの帰りに「角上魚類」によってウマズラハギを刺身にしてもらってきた。肝も沢山あって酒のアテとして最高。ポン酢とわさびでいただきました。>
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怖い怖い、鎌倉幕府成立。

2017年12月14日 | 歴史モノ

<鎌倉幕府成立にはたくさんの命が奪われた>

昨日に引き続き家でくすぶっていた。こんな日は読書に限る。11月半ばに風來で伊豆方面に行った折、修善寺によって、源頼家や範頼のお墓にお参りした。その時に改めて感じた鎌倉幕府勃興時の悲惨に興味を持ち、関連した本を読むようになっている。岡本綺堂「修禅寺物語」、永井路子「炎環」「北条政子」、「吾妻鏡現代語訳」などである。

平治の乱で殺されるところだった源頼朝は、平清盛の義母池禅尼に命を救われ、伊豆蛭ヶ小島に流された。その頼朝が30代半ばになった時、北条氏をはじめとした坂東武士にかつがれ挙兵。見事、平家を駆逐し、鎌倉幕府を開くまでに成功を収めたのだが、その後は悲惨だった。平家滅亡に活躍した頼朝の弟たち義経、範頼は殺され、頼朝の死後(この死も多分に怪しいが)も、後継の頼家、実朝、公暁も殺された。さらに、幕府設立に功のあった、梶原、比企、和田、畠山、三浦なども粛清されてしまうという凄惨な出来事が続き、「執権北条」が誕生する。

栄枯盛衰というか、諸行無常、盛者必衰というか。誠に驕れるもの久しからずである。鎌倉勃興期、多くの人が非業の死を遂げたが、よく読んでみるとそれらは単なる暗殺、虐殺ではなく、それぞれにいた仕方ない理由が存在する。北条政子自身、実の息子たち(頼家、実朝)や孫(公暁)を失っている。実家の北条家が生き残って執権政治を始めたからといって、喜んだわけではないだろう。きっと、心苦しい一生だったに違いない。

この平安時代の終焉から鎌倉幕府成立までの数十年間は、のちの戦国時代や幕末と匹敵するぐらい、歴史好きにはたまらなく面白い時代だ。小生も大いに興味ある時代である。この時代はNHK大河ドラマでも「平家物語」や「義経」「草燃える」などで取り上げてくれてはいるが、個人的には「北条義時」を主人公とする鎌倉時代勃興期をやってもらえるとありがたいと思っている。武士達の生き様だけではなく、その時代に行きた文化人、西行や運慶などにもスポットをあててもらえたら、この上ない。
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そういえば、どうなった?「光化学スモッグ」「ダイオキシン」

2013年12月19日 | 歴史モノ


昨日、ロンドンスモッグ事件について書いていて思い出したのだが、日本でも、小生が中学生の頃には盛んに「光化学スモッグ注意報」なるものが警告され、外でスポーツをしたり遊んではいけません、などと先生や親に注意されたが、あれは今どうなったのだろう?空気清浄化に成功して心配いらなくなったのだろうか。

それと、10年程前迄話題になっていた「ダイオキシン」も鳴りを潜めた。あの騒ぎで家庭では、たき火をしてはいけないことになり、たき火で焼き芋を食うという楽しみを奪われた。ニュースステーションで司会の久米氏が所沢の野菜にダイオキシンが含まれていると誤って伝え、訴訟問題にもなった。当時は何かと話題になっていたのだが・・・

こういう大気汚染語(?)にも流行り廃りがあって、問題解決はしてなくてもある程度時が経てば、騒がれなくなるようだ。
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恐ろしや大気汚染!

2013年12月18日 | 歴史モノ


中国の大気汚染が話題になっている今日この頃であるが、大気汚染は侮れない。かつてロンドンで大気汚染により12000名もの人が亡くなるという、大事件が起きた(ロンドンスモッグ事件)。しかも、それは19世紀の産業革命時の話ではなく、1952年、つい60年前のことである。概要は以下(ウィキペディアから)

*****************************************

ロンドンは冬に濃い霧が発生する事で知られている(この霧も大気汚染の一つ)が、19世紀以降の産業革命と石炭燃料の利用により、石炭を燃やした後の煙やすすが霧に混じって地表に滞留し、スモッグと呼ばれる現象を起こして呼吸器疾患など多くの健康被害を出していた。1950年代までの100年間にも10回ほどの大きなスモッグがあったが、その中でもっとも健康被害が大きくなったのが1952年である。

1952年12月5日から12月10日の間、高気圧がイギリス上空を覆い、その結果冷たい霧がロンドンを覆った。あまりの寒さにロンドン市民は通常より多くの石炭を暖房に使った。同じ頃、ロンドンの地上交通を路面電車からディーゼルバスに転換する事業が完了したばかりだった。こうして暖房器具や火力発電所、ディーゼル車などから発生した亜硫酸ガス(二酸化硫黄)などの大気汚染物質は冷たい大気の層に閉じ込められ、滞留し濃縮されてpH2ともいわれる強酸性の高濃度の硫酸の霧を形成した。

この濃いスモッグは、前方が見えず運転ができないほどのものだった。特にロンドン東部の工業地帯・港湾地帯では自分の足元も見えないほどの濃さだった。建物内にまでスモッグが侵入し、コンサート会場や映画館では「舞台やスクリーンが見えない」との理由で上演や上映が中止された。

同様に多くの家にもスモッグは侵入していた。人々は目が痛み、のどや鼻を痛め咳が止まらなくなった。大スモッグの次の週までに、病院では気管支炎、気管支肺炎、心臓病などの重い患者が次々に運び込まれ、普段の冬より4,000人も多くの人が死んだことが明らかになった。その多くは老人や子供や慢性疾患の患者であった。その後の数週間でさらに8,000人が死亡し、合計死者数は12,000人を超える大惨事となった。

*****************************************

という事件であり、この衝撃的な結末は大気汚染を真剣に考え直す契機になり、スモッグがすぐそこにある深刻な問題であることを全世界に知らしめ、現代の公害運動や環境運動に大きな影響を与えた。

北京を中心とした中国の大気汚染も60年前のロンドンと大同小異であるかと思える。早期の対策をしないと多くの犠牲者を出すことになりそうだ。
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「江戸東京博物館」~江戸庶民の盛り場を再現~

2012年09月18日 | 歴史モノ

<30分の1の両国広小路の模型だ。向こう側に立つ人と比べるとその小ささがわかる。>


<それぞれ、個性がある>


<大道芸人>


<ズームアップ>


<両国広小路の賑わい。大きな建物は見世物小屋。>


<表情が豊。右の店は占い。>


<両国橋と隅田川>


<舟の中は宴会?>

「江戸博」に行って、いつも張り付くのが、このジオラマというのだろうか、両国広小路の賑わいを再現した大規模なミニュチア模型の前だ。備え付けの双眼鏡で細部にわたって、じっくりと観ることができるのもいい。「江戸博」のHPには、

「両国橋西詰:両国橋西詰の広小路は、軽業(かるわざ)や歌舞伎を見せる見世物小屋、髪結床(かみゆいどこ)、水茶屋(みずぢゃや)などが立ち並び、寿司、天ぷら、うなぎなどの屋台や大道芸人も多く集まる盛り場でした。夏の間は隅田川の川風を楽しむ夕涼みや花火見物に興じる屋形船、屋根船、猪牙船などで賑わいました。この30分の1の模型は、天保(てんぽう)の改革の取締りの記録をもとにして、改革前の盛り場の姿を1500体の人形を配置して当時の風景を再現しています。」

という注釈がついている。この人形の表情が一人一人個性があって、しかも精巧にできているので、いつまで観ていても飽きないのだ。往時の両国広小路の賑わいが想像できて実に楽しい。また、「江戸博」の常設展示場は写真撮影OK。今回は比較的まともな写真が撮れたので何枚か載せてみた。



上の写真は神田川が隅田川に合流するところ。右奥に見える橋が現在の両国橋だ。ビルばかりで当時の庶民の賑わいはどこへやらだが、東京は江戸とは違って、新橋、銀座、上野、秋葉原、池袋、新宿、渋谷、六本木等々、どこにでも繁華街がある。人口も当時の10倍だ。神奈川、埼玉、千葉の首都圏の人口を入れたら、さらにその倍ぐらいの人間がいる。繁華街が沢山あっても不思議はない。

しかしながら、東京の繁華街でチマチマ呑むよりも、出来ることなら江戸で呑んでみたい。落語「百年目」の番頭のように、隅田川に船を浮かべ、馴染みの芸者たちとドンチャン騒ぎをして、殿さま気分で花見をしたら、さぞかし、楽しかろう。

そんな妄想をいだけるだけでも「江戸博」に来た甲斐がある、というものだ。
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NHK「坂の上の雲」の配役に思う

2010年11月17日 | 歴史モノ

<東郷平八郎の銅像と戦艦「三笠」>

今日で坂の上の雲の第一部の再放送は終わった。昨日、言っていた「実在の人物と俳優の年齢」について調べてみた。実在の人物の方は日清、日露戦争開戦時の年齢を、俳優の方は現在の年齢を以下並べてみた。

順番は実在の人物の名前、日清戦争時の年齢、日露戦争時の年齢、俳優名、現在の年齢。


 ◇伊藤博文  53歳 63歳  加藤剛  72歳

 ◇東郷平八郎 46歳 56歳  渡哲也  69歳

 ◇児玉源太郎 42歳 52歳  高橋英樹 66歳

 ◇秋山好古  35歳 45歳  阿部寛  46歳

 ◇秋山真之  26歳 36歳  本木雅弘 45歳


想像した通り、俳優の年齢がかなり高い。日清戦争から日露戦争間は、丁度10年だ。日露戦争の歳と比べてみても、伊藤~加藤9歳差、東郷~渡13歳差、児玉~高橋14歳差、真之~本木で11歳、年齢的に同年なのは好古~阿部ぐらいだ。

本木45歳が、36歳を演ずるのは違和感はないが、加藤72歳が53歳や63歳の伊藤を演じるのは明らかに無理がある。渡の東郷も同じだ。こう言ってはなんだが、往年の名優も明治の英雄を演じるにはちょっと爺さんすぎるのだ。“明治”の若さ、躍動感が感じられないのである。

加藤剛、高橋英樹、渡哲也といえばビッグネームであり、名前だけで話題にはなるのだろうが、ドラマとしてのリアリティは乏しくなる。実在の年齢と近い人たちで固めて欲しかったと思うが、そういう俳優はいなかったのだろうか。このドラマの惜しい点だと思う。
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「ウルトラセブン」の頃

2010年03月16日 | 歴史モノ

<札幌駅の大丸で「セブン」の特設展示を発見>


<おっ。バルタン星人だ。懐かしいね。でも「セブン」では出番はなかったはず。>

先週土曜日、札幌駅の大丸で「ウルトラセブン」を使ったキャンペーンかなにかの特設展示があった。等身大(人間の大きさ)の「セブン」の人形の周りに小さい人形が何十、何百も飾られていた。言うまでも無く「セブン」は小生の子供の頃のヒーローであった。

もっとも、ウルトラシリーズの中で小生が一番熱くなったのは「ウルトラマン」の方だ。第一弾の「ウルトラQ」の時は幼すぎたのと、結構、話の展開が複雑だったので、熱狂とまではいかなかった。「セブン」は話も凝っていたし、3分間以上戦うことも出来たし、いろんな武器を持っていてウルトラマンのような危なっかしさはなかった。が、そのためかもしれない。段々と“熱狂”と言えるような見方はしなくなっていった。

「ウルトラシリーズ」の放映時期と自分の年齢、学年を比べてみた。、


1.「ウルトラQ」1966.01.02~07.03 全29話
   ⇒小生8歳(小学校2年~3年)

2.「ウルトラマン」1966.07.17~1967.04.09 全39話 
   ⇒小生8~9歳(小学校3年~4年)

3.「キャプテンウルトラ」1967.04.16~09.24 全24話 
   ⇒小生9~10歳(小学校4年)

4.「ウルトラセブン」1967.10.01~1968.09.08 全49話 
   ⇒小生10~11歳(小学校4年~5年)

ということになる。調べてみて小生が少なからず驚いたことがある。小生の“思い出”の中では「ウルトラQ」→「ウルトラマン」→「ウルトラセブン」という順番でシリーズは連携していったものだとばかり思っていたのだが、なんと間に「キャプテンウルトラ」があったのだ。もちろん「キャプテンウルトラ」という番組は知っているし、よく観た覚えもある。確か宇宙船「シュピーゲル」号が出てくる奴だ。それにしても、このシリーズの第三弾という位置づけではなく、他のライバル局が対抗して放送していたものだとばかり思っていた。

比較表を改めて見てみると、ウルトラマンを観ていた年代が、もっともこの手のテレビに熱狂する年頃ではなかったかと思う。この年は東宝の怪獣映画『三大怪獣 地球最大の決戦』も大ヒットしたのではなかったか。キングギドラに立ち向かうゴジラ、ラドン、モスラの活躍が目に浮かぶ。誕生日のお祝いも怪獣関係のプラモデルが大半を占めていたように思う。

「セブン」放映の年頃になると“怪獣モノ”は卒業し、段々と興味は“スポーツ根性モノ”の方に移った。「巨人の星」のテレビ放映は1968年3月30日から、「あしたのジョー」が少年マガジンに登場したのは1967年12月からである。小生にとってのヒーローは飛雄馬やジョーに変わっていったのだった。
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52歳!歴史上の人物は何してた? その2「豊臣秀吉」編

2010年01月09日 | 歴史モノ

<北の政所が晩年を送った高台寺からみた京都の街並み>

天正17年(西暦1589年)、秀吉52歳。天正15年に九州を、18年に関東北条氏と奥州の地を平定し、天下統一を果たした。この九州平定から小田原征伐までの二年間に秀吉は豊臣政権を万全にすべく、様々な手を打っている。

16年に刀狩令を発布し、諸国の百姓庶民が武器を持つことを禁じ、抵抗力を奪っておいてから、翌年全国に「検地」を命じた。いわゆる「太閤検地」である。これによって、残存していた荘園制は終止符をうたれ、「兵農分離」が確定し、石高制による封建社会の基礎が築かれた。

また、天正16年4月に聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ、文武の諸臣を招集して五日間に渡って派手な儀式と饗宴を行った。この間に徳川家康をはじめ23名の大名に起請文をとって忠節を誓わせている。

16年には朝鮮へ入貢催促の使者を送って、後の大明征伐の道筋を探るような外交も行っている。17年には淀殿との間に鶴松が生まれ、諦めていた世嗣ができた。

秀吉にとっての52歳とは順風満帆の年だった。天下統一目前にして、やることなすことすべてが順調で、将来への布石も次から次へとうてた。ましてや、諦めていた世嗣までできた。人生の中でもっとも幸福な、充実した日々を送ったことだろう。

しかしながら、人生というのはわからない。天正18年に関東、奥州を平定し乱世に終止符をうって天下を統一したあたりが彼のピークだったろう。翌、19年1月に名補佐役の弟秀長が病死。2月には千利休を切腹させた。「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と言われた二人を一挙に失ったのである。そして8月には世嗣鶴松が早世し、翌年には実母の大政所も死去する。秀吉の我が世の春は一転して暗雲漂う気配となった。

この後は朝鮮出兵や関白秀次一族の虐殺と、坂道を転げ落ちるような晩年を歩む。天下を統一したわずか8年後に豊臣家安泰の不安を抱えながら没する。

 つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ

という辞世を残して。
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52歳!歴史上の人物は何してた? その1「清衡、西行、清盛、頼朝編」

2009年09月02日 | 歴史モノ

<日本庭園。(足利学校)>

52歳の誕生日の時に思った。小生の気になる人物たちが52歳の時には何をしていたか、ということを。源義経、坂本竜馬、高杉晋作などは若くして亡くなっているので対象外だ。織田信長も49歳直前で本能寺で斃れたので対象外。信長が生きていたら、52歳の時はなにをやっていたか。という仮定の下に戦国時代を振り返ってみるのは非常に興味のあることだが、それはまた別途。

今回は鎌倉以前の時代から以下四人の人物を選んでみた。

◆藤原清衡・・・西暦1108年に52歳。後三年の役を経て、奥州の実力者となり、居を平泉に構える。この年に、中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏四代百年の栄華の基礎を築いた。

清衡さん、いい仕事してますね。

◆西行・・・1170年に52歳。この年は恐らく弘法大師の故郷、讃岐は善通寺の裏山に庵を結んでいた。白洲正子氏は以下の歌をここで詠んだと推測している。

 ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば
 松はひとりにならんとすらん

 曇りなき山にて海の月見れば
 島ぞこほりの絶え間なりける

そう言えば、「讃岐・阿波を走る!」の紀行文はこの西行庵跡に辿りついた所で終わっている。続きを書かねばと思いつつ一年が過ぎてしまった。

◆平清盛・・・西行と同年なので1170年に52歳。1167年、49歳の時に太政大臣になったが、三ヶ月で返上し、翌年、出家する。後に遷都することになる福原(神戸)に別荘を建てたり、厳島神社の整備や日宋貿易の拡大など、清盛全盛期である。また、この頃は後白河法皇とも表面上は協調路線をとっており、まさにわが世の春であったようだ。一門の平時忠が「平家にあらずんば人にあらず」と言ったのもこの頃ではなかったか。

◆源頼朝・・・1199年に52歳。木曾義仲、平家を倒し、それら一連の戦に功のあった、弟の義経、範頼を討ち、奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開いて、さあこれから、というこの年に亡くなっている。史実では、

【建久9年(1198年)12月27日、相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かでは無い。建久10年(1199年)1月11日に出家し、13日に死去した。享年53(満51歳没)。】

ということになっているが、小生は後に執権になる北条一族の謀殺ではなかったかと、勘ぐっている。頼朝の亡くなる時期のタイミングがよすぎるからだ。しかも、頼朝の息子達も暗殺されたり、殺されたりと後を絶たれ、北条氏が実権を握るのである。

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