萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

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「広場」と「プラハの春」

2007年08月24日 | 中欧の旅
日本では“広場”というと、駅前広場とかちょっとした公園の子供の遊び場、夏ならラジオ体操をやるところ。というぐらいのイメージしか湧かないが、西洋の“広場”の概念は少し違うようだ。

(【 】内、Wikipediaからの引用)

【ヨーロッパにおいては、古代ギリシアの時代から都市に計画的に配置された広場があった。歴史的に都市住居が密集化しているため、教会や宮殿、市場などの前に一定の空地を確保し、政治的に重要な儀式を行ったり、コミュニティの中心機能を持たせた事例が見られ、現在でも祭事のほか、民間の各種イベントにも使われている。】

ということだそうだ。

プラハでもあちこちに広場はあるが、特に有名なのは旧市街の中心にあり、カレル橋にも近い「旧市街広場」である。この広場のシンボルはヤン・フスの銅像だ。フスはカトリック教会の腐敗を指摘した宗教改革者である。ボヘミアの人々の指示を得、全土に広まっていく事態を時の教会は反乱とみなし、1415年に焚刑に処せられる。

“腐敗”に対する“改革”という意味では1968年の“プラハの春”と呼ばれる自由化運動にも通じる。「人間の顔をした社会主義」をスローガンに自由化路線を推進していくチェコスロバキア共産党に対し、自由化を警戒したソ連は、この“プラハの春”を軍事介入で潰してしまう。以後ソ連をバックとした保守共産党の支配は1989年のビロード革命(民主化革命)まで続く。

日本の小説「プラハの春」もこの68年のプラハを舞台に書かれた、事実に基づいたフィクションである。ヒロインのカテリーナは「旧市街広場」で行なわれたソ連を糾弾する青年集会に参加している時に、ヤン・フスの銅像の前で凶弾に倒れる。また、ヤン・パラフという学生(実在の人物)もラストでは、「バーツラフ広場」で反ソ声明を掲げ、焼身自殺を遂げる。このヤンの追悼集会でバーツラフ広場は十万人の市民で埋め尽くされたという。

西洋にとって“広場”とは政治と密接に結びついている場所であり、市民の意思を大きな塊りとして、時の支配者に示威する場所なのではないか。こういう“しくみ”があれば、支配者側はおいそれと愚行はできない。民主主義とはこういうことか。



<朝の旧市街広場。右端はヤン・フスの銅像なのだが修復中で青いベールが・・・。その奥の白亜の建物は聖ミクラーシュ教会。音響効果に優れていて、夏にはコンサートが開かれるらしい。>


<同じく朝の旧市街広場。塔は旧市庁舎。この左側面に天文時計がある。>


<日中は毎正時近くになると天文時計のパファーマンスを見ようと黒山の人だかり。“金”や“茶”の頭もあるが。>



<天文時計のアップ。皆が期待して観るほどのパフォーマンスではない。>


コメント
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